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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「久本山古墳」と「桃ノ園古墳」

久本神社

 今回は、川崎市高津区久本1丁目に所在の「久本山古墳」の探訪の記録です。

 古墳の見学に先立って、まずは久本神社を参拝しました。この神社は、明治期までは久本山古墳の墳丘上にあったという神社です。明治6年(1873)の神仏分離により神社の統廃合が行われ、久本村にあった杉山社、神明社、八幡社が合祀、現在地に移されて社名とされています。久本山古墳に祀られていたのは神明社で、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「神明社 村の中央丘上にあり、龍臺寺持」と記されています。


久本神社

 久本神社境内の様子です。祭神を天照大神で、現在の社殿は昭和29年に建築されたものだそうです。
 社殿の背後に見えているのが久本山で、この丘陵の頂部にあたる舌状台地の先端に古墳が存在するようです。 かつてはこの神社の脇から久本山古墳に登る道があったようなのですが、現在は入り口が塞がれていて、ここからは立ち入ることができないようです。


星の礼拝堂

 丘陵頂部の様子です。
 この周辺もかなり開発が進み、古墳所在地の南側には大きなマンションが立ち並んでいます。そして、久本山の頂部には礼拝堂が建てられています。ネットで調べて見たところでは、この礼拝堂はヘールポップ彗星が近日点を通過したという平成9年(1997)に建設されたそうですが、古代に墳墓が築造され、かつては神社が祀られていた場所がいかなる理由で礼拝堂となったのか、とても興味深いですね。
 久本神社側から見た景観とはまるで別世界という印象です。

 この角度から見ると、礼拝堂の土台の部分が古墳であるかのようにも見えるのですが、画像の礼拝堂の背後にさらにこんもりと小高くなったマウンドが見られます。これが、残存する久本山古墳なのでしょうか。。。


久本山古墳

 礼拝堂の背後、東側から撮影した古墳らしきマウンドの様子です。
 色々と資料を調べてみると、平成8年(1996)に発行された『加瀬台古墳群の研究Ⅰ』に掲載されている「橘樹郡内の古墳一覧表」には、久本山古墳は「残存」とされており、「古墳は高津区467付近にある円墳で…」と書かれているのですが、平成9年(1997)に発行された『川崎市市民ミュージアム紀要 第9集』の「川崎の埴輪Ⅱ」には「現在は古墳の表徴は認められない」とも書かれています。
 この高まりが残存する久本山古墳であるならば、せめて説明板が設置されていれば良いのになあと思いますが、なかなか難しいのでしょうか。


久本山古墳

 南から見たところです。
 丘陵の最上部には小さな石像仏が存在するということなので、これが確認できれば、この塚が久本山古墳で間違いない!と考えたのですが、塚上には篠竹がびっしりと生い茂っていて、石像仏はおろか塚の形状すら確認することができません。また、伝承では古墳の周囲には円筒埴輪が巡っていたと云われているようですが、これも確認することはできません。
 この古墳から出土したという円筒埴輪や形象埴輪が公開されていますので、少なくともこの地に古墳が存在したことは間違いないと思われますが、墳形や規模、埋葬施設や周溝等の詳細はわかりませんでした。


久本山古墳

 さらに近寄ってみたところ。
 この角度から見ると、古墳らしく見えますね。


久本山古墳

 塚の裾部には、お地蔵様が祀られていました。
 ひょっとしたら、最上部に存在したという石像仏が移されたものかとも考えましたが、このお地蔵様はかなり新しいものであるようですし、詳細は不明です。


久本山古墳出土埴輪

 画像は、川崎市市民ミュージアムで公開されている、久本山古墳出土とされる埴輪です。昭和8年頃に採集されたとされるもので、ほぼ完形の人物埴輪です。頭部に髷が剥がれており、女性像です。


「桃ノ園古墳」

 画像は、久本山の北側の麓に建てられている、『久本B地区急傾斜地崩壊危険区域』の説明板に掲載されている地形図です。
 なんと!開発が行われる以前の地形図が使われており、久本山古墳の西方数十メートルほどの地点に所在したとされる「桃ノ園古墳」の位置を見ることができます。
 画像の中央右寄りが久本山で、中央左寄りの半島状に突き出た舌状台地の先端の円形の地形が桃ノ園古墳と思われます。
 この地を訪れる古墳マニアのために、わざわざ古い地形図を使ってくれたんですねえ。(そんなわけないだろ)


「桃ノ園古墳」

 この桃ノ園古墳は発掘調査が行われているようなのですが、調査に関する報告書が全く見つからず、人物埴輪が出土したという以外には詳細がわかりませんでした。
 古墳の跡地は開発により大きく地形が変わってしまっており、古墳の正確な位置まではわかりません。桃ノ園古墳の痕跡は何も見ることはできないようです。。。


久本薬医門公園

 「久本山古墳」の北側100メートルほどには「久本薬医門公園」があります。
 ここは、江戸時代から八代続いた医家、岡家の屋敷跡で、江戸時代末期の建築と伝えられています。黒澤明監督の映画「赤ひげ」養生所のモデルにもなっているそうです。敷地内は公園として整備されており、残された蔵や日本庭園が整備されています。
 「薬医門」とは、矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」からきたとも、かつて医者宅の門として使われていたからとも言われ、門の脇に木戸を付けて、たとえ扉を閉めても四六時中患者が出入りできるようにしていたとも言われているそうです。
 現存する門は明治43年に完成したもので、馬で往診に出かける際に乗馬したまま門を通れるように内法を高く造ったと伝えられています。


久本薬医門公園

 門前には「岡先生記徳碑」や、慶応四年(1868)に近隣住民により建立されたという庚申塔が建てられています。庚申塔は、元は南武線久本踏切のそばにあったものが移されたものです。道標を兼ねていて、右面には「影向寺薬師 加な川道」、左面には「溝口府中道 庚申塔 小杉川崎道」と彫られています。


久本薬医門公園

 公園内に復元された土蔵です。江戸時代末期の建物であるそうです。
 大正12年9月の関東大震災で背面と東面の壁がほとんど落ち、また第二次世界大戦中の爆撃被害により壁の一部は崩落、屋根は延焼し、その後はトタン屋根にて応急処置がなされていたそうです。
 平成18年の整備工事により、基礎石や柱、床や建具、梁組は建築当時のものを活かし、屋根や壁等を新しい材料に交換して、復元されています。

 こういう場所が落ち着くのはどうしてなんでしょうね。
 私は、公園の前の道を通るたびに、3回もここで休憩しました。。。

<参考文献>
浜田普介「川崎の埴輪Ⅱ」『川崎市市民ミュージアム紀要 第9集』
川崎市民ミュージアム『加瀬台古墳群の研究Ⅰ』
現地説明板


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  1. 2019/06/30(日) 23:38:35|
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「末長向台古墳群」

「末長向台古墳群1号墳(口明塚)」

  さて、今回紹介するのは、川崎市高津区末長所在の「末長向台遺跡」です。
 この遺跡内からは、これまで行われた発掘調査により6基の古墳が確認されており、「末長向台古墳群」と呼称されています。

 まずは「末長向台古墳群1号墳」です!
 画像は、高津区1丁目に現存する、北から見た「口明塚」です。
 かつては、「口明塚」と呼ばれる大きなマウンドがこの場所に残されていたようですが、その後開発が進み、現在は、川崎上下水道局中部サービスセンターの敷地内のわずかな一角に残されるのみです。小さく盛られた塚の上に「口明塚」と刻まれた石碑と、お地蔵様が祀られています。発掘調査により検出された「末長向台古墳群」の6基の古墳のうち、唯一痕跡の残る古墳といえるかもしれません。

 平成17年に、この口明塚の道路を挟んで北側にあたる、末永向台遺跡第二地点の発掘調査が行われ、古墳の周溝が検出されたことから、この「口明塚」が古墳であったことが確認されています。
 古墳の復元外径は30m前後、内径は20mほどの円墳で、土師器坏や円筒埴輪片が出土しており、5世紀第4四半期から6世紀第1四半期の築造と推定されているようです。


「末長向台古墳群1号墳(口明塚)」

 塚上に建てられている「口明塚」の石碑です。
 この古墳の名称からして、おそらく往時の古墳は石室が開口していたのではないかと想像できますが、ひょっとして、まだこのわずかな敷地の地中に主体部の痕跡が残されているのではないかと想像すると、ちょっとワクワクしますね。
 この画像は平成12年に撮影したもので、当時、水道局のスタッフの方にお願いして石碑の正面から撮らせていただきました。お仕事中に煩わせてしまって、本当にありがとうございました。
 それにしても、訪れてから7年後に公開しているようでは、古墳「なう」の看板に偽りありですよね。。。実はこの時期に、当時使っていたパソコンを崩壊させてしまって、それまで撮影した多くの古墳画像を消失してしまったのですが、この画像は救い出すことができたという、貴重な画像なんです。


「末長向台古墳群2号墳」

 「末永向台2号墳」はだいたいこのあたり。
 平成19年(2007)に行われた調査により確認された古墳です。縄文時代の集積土坑、土坑、陥し穴や平安時代の竪穴住居跡とともに、古墳時代後期の古墳の周溝が検出されています。外径20m、内径14.79mを測る陸橋付(ブリッジ付)の円墳で、主体部は墳丘が完全に削平されており、検出されなかったようです。
 1号墳に続いて新たな古墳が確認されたことにより、清水谷古墳、法界塚古墳から西福寺古墳との間に多数の古墳が築造されていたことが明らかになっています。


「末長向台古墳群3号墳」

 「3号墳」はだいたいこのあたり。
 平成19年(2007)4月から5月にかけて行われた発掘調査により、縄文時代の土坑、陥し穴、平安時代の竪穴住居跡とともに古墳の周溝が検出されています。現在は集合住宅が建てられており、古墳の痕跡は見当たりません。。。


「末長向台古墳群4号墳」

 画像の中央の集合住宅の辺りが「4号墳」の所在地です。
 画像手前あたりに見えるように、この一帯はまだまだ畑地として使用されている土地も少なくないようですし、今後の調査次第ではかなり多くの遺跡が発見される可能性も感じられます。遺跡が集中している場所で畑地をみるとワクワクしますね。。。


「末長向台古墳群5号墳」

 「5号墳」はだいたいこのあたり。
 昭和60年(1985)に発刊された『鎗ヶ崎遺跡発掘調査報告書』には、この周辺に存在した古墳の可能性のある塚について、次のような記述が見られます。

 口明塚より東へ80mのところに高さ1.5m、径5m位のマウンドを持つものが昭和30年代まで存在していた。同じく川野芳郎氏の言によれば、それは低い小さなもので裾の方に竜の髭が植えられ、うえの方に玉石がいくつか置かれていたと言う。関東の霊山である大山に関係した供養塚みたいなもので大山講などで参拝に行く時に先づこの塚を拝んでいったものだとの話であった。その地点は高津区末長506番地で、これも一応地点を示した。

 この塚と5号墳が同一のものかは、塚が消滅してしまった今となっては確認することは不可能ですが、同書に掲載の分布図からするとこの供養塚が5号墳である可能性は十分に考えられそうです。昭和初期にはまだ多くの古墳の痕跡が残されていたのかもしれませんね。。。


「末長向台古墳群6号墳」

 「6号墳」はだいたいこのあたり。
 末長向台古墳群では、「口明塚(1号墳)」以外に古墳の痕跡は見られないようですが、今後、多くの未確認古墳が発見される可能性も高く、とても興味深い地域です。
 調査の進展が楽しみです。

<参考文献>
高津図書館友の会郷土史研究部『鎗ヶ崎遺跡発掘調査報告書』
有限会社 吾妻考古学研究所『末長向台遺跡第2地点・末長向台古墳群』
有限会社 吾妻考古学研究所『末長向台遺跡第3地点・末長向台古墳群』
川崎市教育委員会『末長向台遺跡第5地点』


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  1. 2019/06/24(月) 23:29:02|
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「十三坊塚の道標」

「十三坊塚の道標」

 前回に引き続き、今回も川崎市内の十三塚について取り上げようと思います。

 神奈川県は多くの十三塚が築造された地域であり、昭和59年(1984)に発行された『十三塚 ―現況調査編―』掲載の「十三塚保存状況等一覧表」によると、日本全国でも三番目に多い、26箇所に確認されています。川崎市内でも7箇所に十三塚が所在したといわれており、麻生区の五力田と東京都稲城市平尾の境界付近には、現在も一列に並ぶ十三塚が現存します。

 画像は、川崎市宮前区神木本町4丁目に現存する「十三坊塚の道標」です。
 この角度から見ると、盛り上がった塚状地形の裾部に石碑が建てられているように見えるのですが、実際には、宅地化が進んだ地域の中にあって、この一角だけが東西に20~30mほどの細長い敷地として残されています。敷地内はびっしりと篠竹が生い茂っていて内部がどんな形状となっているのか謎ですが、ひょっとしたらこの藪の中に十三塚のうちの何基かが残されているのではないかと期待が膨らみます。

 この十三塚について、『新編武蔵風土記稿』の中に記述が見られないかと調べてみましたが、上作延村の項に「十三坊原 村ノ西南丘上ノ平地ヲ云此邊長尾村ノ續キニシテカノ村ニテモ此地名ヲ唱ヘヌレト文字ヲ十三本原ト(?)テ唱ヘモオノツカラコトナリ名義ハ二村トモ傳ヘヲ失ヒテ詳ナラス或ハ十三佛ヲ供養セシ跡ナリト是ニヨレハ十三坊ト記ス方マシナランカサレト巨樹十三本アリシ地ト云傳説モアレハ今何レテ是ナルヘシトモ定メカタシ」と書かれていました。上作延村の西南、ということですから、これが十三坊塚についての記述とみてよいのではないかと思われます。
 ここから東に400~500mほどの地点には「上作延南原古墳」、北西に400~500mほどの地点には「長尾古墳」が現存します。古墳ファンにとってはとても気になる十三塚です。。。


「十三坊塚の道標」

 この台地はかつては十三坊台と称され、王禅寺道から溝口、府中方面に向かう道路が分岐する、交通の要衛であったといわれています。
 画像の、文化12年(1815)建立の道標を兼ねた庚申塔には、「東 二子道」、「西 王ぜんじ道」、「北 ふちう道」と刻まれています。

<参考文献>
千秋社『新編武蔵風土記稿 横浜 川崎編1』
柿生郷土史料館『柿生文化』
神奈川大学日本常民文化研究所『十三塚 ―現況調査編―』
川崎市宮前区役所『宮前区歴史ガイドまち歩き 10 王禅寺道』


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  1. 2019/06/19(水) 22:09:26|
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「十三坊塚(十三菩提古墳・野川南台和田古墳)」

「十三坊塚(野川南台和田古墳No.142野川南耕地)」

 今回は、川崎市宮前区野川に所在する「十三坊塚」の探訪の記録です。

 この十三坊塚は、県営野川南台団地の南側に1基のみが残存するという状況であるようですが、かつては13基の塚が並んでいたとも伝えられています。
 江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「十三本堂」の名称で取り上げられており、「中程ナリ又十三菩提トモ十三本塚トモ呼リ古ハ古塚十三アリシト云今ハ其狀ノミ殘レリ中古此所ヨリ甲冑ノ朽シモノヲ掘出セシト云」と記されています。
 朽ちた甲冑が出土したという記述は、やはり古墳を連想させる興味深い伝承ですが、発掘調査は行われていないようなので、塚の性格についてはよくわかりません。新田義興の家臣の墓という説、武器の隠し場所説、災厄除け説等、諸説あるようですが、現状は十三仏信仰に因むものと考えられているようです。

 画像は、十三坊塚を北西からみたところです。
 周辺地域にはまだわずかに農地が残されているようですが、塚の周囲は宅地化が進んでおり、塚の南側と西側は道路により若干削平されているようです。


「十三坊塚(野川南台和田古墳No.142野川南耕地)」

 画像は、南東から見た十三坊塚です。
 昭和59年(1984)に発行された『十三塚 ―現況調査編―』にもこの塚は取り上げられており、「1基現存」、「畑と道路の境界部分にあり」とあり、また規模について「南北7.4m、東西3.25m、高さ1.2m(本来は径7m前後の円形か)」と書かれています。
 さらには、現在の川崎市のHPでも、「十三坊塚」の名称で、古墳ではなく塚として取り上げており、「権六谷戸と有馬川に挟まれた南野川の台地にある塚。「新編武蔵風土記稿」には昔ここに13の塚があったとされるが、現在では県営野川南台団地の南西部に1箇所が残るだけである。」と解説されています。
 ただし、「川崎市市民ミュージアム考古学叢書2」に掲載されている橘樹郡内の古墳一覧表には、この塚を「5世紀築造?の十三菩提古墳」として掲載しており、また現在の『Googleマップ』には「野川南台和田古墳」という名称でプロットされています。
 この、十三菩提古墳や野川南台和田古墳の名称が正式な名称なのかもよくわからなかったのですが、果たしてこの塚が古墳なのか、それとも十三塚の残存する1基なのか、とても興味深い存在です。。。



「十三坊塚(野川南台和田古墳No.142野川南耕地)」

 塚の東側の裾部には、お地蔵様が祀られていました。
 訪れた当日も綺麗なお花が生けられていて、開発の進んだ現在でも地元の人に大切にされている様子がわかります。なんとか、良い形で塚が保存されることを祈ります。

<参考文献>
千秋社『新編武蔵風土記稿 横浜 川崎編1』
川崎市市民ミュージアム『川崎市市民ミュージアム考古学叢書2』
神奈川大学日本常民文化研究所『十三塚 ―現況調査編―』
川崎市宮前区役所『宮前区歴史ガイドまち歩き』


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  1. 2019/06/12(水) 23:22:04|
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