今回は、町田市三輪緑山に所在する「西谷戸横穴墓群」の探訪の記録です。『東京都遺跡地図』には、町田市の遺跡番号449番の遺跡として登録されている横穴墓群です。
さて、この横穴墓群については、『古墳なう』の平成25年(2013)05月15日の回で一度取り上げました。見学した時期がちょうど再整備が行われている最中という状況で、横穴内部には土嚢が積まれていました。
その後、整備が終わってどんな状況になっているのか、ずっと気になっていましたが、昨年の冬、ようやく見学に訪れることができました。
今回は、あらためて西谷戸横穴墓群を振り返ってみようと思います。

画像は、最初に見学に訪れた時の西谷戸横穴墓群です。
右から4、5、6、7号墓です。
横穴はすべて開口している状況でしたが、すでに敷地はフェンスで囲まれていて、内部を覗くことはできませんでした。
町田市のホームページでは、横穴内部の写真が公開されているようです。

当時、町田市教育委員会により設置されていた説明板です。
西谷戸横穴墓群
西谷戸横穴墓群は、昭和58、59年に発掘
調査が行われ、9基の横穴墓が、3つのグ
ループを形成して存在していることが明ら
かになりました。
横穴墓とは、古墳時代後期(6〜7世紀)
に多くつくられた古墳の一種で、本州に広
く分布しています。通常、群れをなしてつ
くられることが多く、各地域における有力
者の一族の墓と考えられています。西谷戸
横穴墓群もそうしたものの一つでしょう。
なお、9基のうち、5基の横穴墓から、人
骨・直刀・鉄鏃・ガラス玉などが出土してい
ます。
町田市教育委員会
これは前回紹介した画像ですが、あらためて大きなサイズで。
右から1、2、3号墓。左にチラリと見えるのが8号墓です。

これは、3号墓を間近で見たところ。
土嚢が積まれていますね。

当時、こんな説明板も設置されていました。

西谷戸横穴墓群の最新の画像です。
右から1、2、3、8、9、4、5、6、7号墓です。
すべての横穴は塞がれており、もはや玄室内部を見ることはできないようですが、以前と比べてすごい存在感ですね。(笑)

右から1、2、3号墓です。
この3基は完全に塞がれているようです。

右から8、9号墓。
この2基も完全に塞がれています。

右から4、5、6、7号墓。
3つの支群が、それそれ違った方法で埋め戻されているのが、とても興味深いところですが、この4基は小さな扉が設けられていて、内部を見学できるのではないかと思われます。将来、見学会でも行われれば公開されるのでしょうか。。。

説明板も、新しいものが設置されていました。
東京都指定史跡 西谷戸横穴墓群
所 在:東京都町田市三輪緑山一丁目25-8
指定日:1992年3月30日
西谷戸横穴墓群は、三輪土地区画整理事業に伴って1983~1984年に発掘
調査が行われ、9基の横穴墓が確認されました。横穴墓とは、崖面に横穴をあけて
埋葬施設とした古墳時代における墓であり、多くは群集してつくられます。
本横穴墓群は、群集して分布するという横穴墓特有の景観が良好に残っており、
1992年、東京都史跡に指定されました。
7世紀前半から後半にかけてつくられたと推定される西谷戸横穴墓群は、この
地域において開発を主導した人々の墓と推定されます。特に5号墓から出土した
7世紀初頭に製作されたと推定される金銅製圭頭大刀は、被葬者の社会的地位を
表す威信財として注目されます。また、5号墓の壁面には、横穴墓が使われた
当時に描かれたと推定される人物、船、波状文、三角文の線刻画が確認され、当時
の葬送概念を理解する手がかりが残されています。
2016年、史跡を保護するために整備工事を実施し、1~3号墓は埋め戻し、
4~7号墓には銅製の扉付密閉施設を設置、8,9墓墳は吹付コンクリートによる
被膜で遺構を保護しています。
2016年10月設置
町田市教育委員会 町田市や川崎市域で開口する横穴墓はどこも崩壊が進んでいるようですし、こうして保護する必要がある状況は理解できますが、内部を見学できなくなってしまうのはもどかしいですね。(笑)

庚申塔も健在です。
お堂が傾いているのもずっとこんな感じです。
いずれ綺麗に建て替えられたらいいですね。
<参考文献>
町田市教育委員会『発掘された町田の遺跡』
現地説明版
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- 2019/07/27(土) 23:28:35|
- 町田市の古墳・塚
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今回は、町田市木曽東4丁目に所在する「富士塚」の探訪の記録です。
この塚について、昭和36年に発行された『南多摩文化財総合調査報告』の122ページには「町田市木曽古墳」の名称で、
木曽の東北端に位置する古墳で、頂部に三角点(106.4m)がある。周辺は畑でかなり変形し、又一部は墓地となっているが、径約15mの円墳で、高さ約2.5m内外であったと思われる。横穴式石室をもつものであろう。恩田川の最上流部に位置している。後期終末期のものであろう。 と書かれています。
どうやらこの時期には、この塚は古墳ではないかとも考えられていたようですが、最新の『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』には、町田市の503番の「時代不明の塚」として登録されており、名称も「富士塚(提灯塚)」となっています。
画像は、この富士塚を南東からみたところです。
この角度から見ると、駐車場の向こう側にこんもりとした小山のような塚を見ることができます。かなり良好な状態で残されているようです。

近寄ってみたところです。
この塚の上にはかつて、それは枝ぶりの見事な、樹齢600年といわれた松の大木がそびえ立っており、「一本松」と呼ばれて地元木曽の名物だったそうです。この一本松は昭和27年、火の不始末により火が松に燃え移り、三日三晩燃え続けたのちに焼け尽くしてしまったといわれています。この際、消防車が駆けつけましたが、木の高さに水が届かずに見守るよりほかなかったそうです。周辺に高層ビルは存在しなかったと思われるこの当時、消防車の放水の高さには限界があっただと思いますが、残念だったと思います。。。

『東京都遺跡地図』では、この塚の名称は「富士塚(提灯塚)」となっているのですが、町田市教育委員会より発行された『町田の民話と伝承』では、一本松の塚と提灯塚とは別々に記載されています。
『町田の民話と伝承 第一集』には、提灯塚について次のように書かれています。
提灯塚 本町田の字向村に塚があって、提灯塚と呼ばれていた。
この塚のまわりを、息もつかずに三べん回ると、塚の中から提灯がヌッと出る…というのが名の起こりだという。
しかし、この塚は事実「ちょうし塚…銚子塚、とっくり形に似た塚、前方後円墳の別名…」なので、呼び名が訛って「ちょうちん塚、提灯塚」となったのであろうと推測される。
この塚も数年前にはくずされてしまい、いまは、そのへん一帯が住宅地となっている。(『町田の民話と伝承 第一集』96ページ)
この記事からすると、一本松の塚と提灯塚は別々の塚であり、提灯塚は古墳であった、しかも前方後円墳であった可能性が指摘されています。
この塚は、木曽からは多少離れた本町田にあったとされているようです。正確な所在地を知るところまでは至らなかったのですが、とても気になる存在です。

塚には石段が設けられており、登ることができます。
木曽観音堂に関連したものであるとされるこの塚は、吉祥山(観音堂)の鬼門にあたり、堂を造る際の地鎮祭に安全祈願のために造られたとされているようです。つまりは、富士信仰に基づき、富士講により築造された富士塚とは全く異質の塚で、ボク石(溶岩)や講碑等はみられません。

塚の頂部の様子です。
浅間社の祠と石碑が並んでいます。
気になるのは、富士塚によくみられる、元々あった古墳を流用した塚である、なんてことはないのでしょうか。。。
<参考文献>
東京都教育委員会「多摩丘陵地域における古墳及び横穴の調査」『南多摩文化財総合調査報告』
町田市教育委員会『町田の民話と伝承 第一集』
町田市教育委員会『町田の民話と伝承 第二集』
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- 2019/07/22(月) 00:17:10|
- 町田市の古墳・塚
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今回紹介するのは、町田市つくし野1丁目に所在する「つくし野横穴墓」です。
最新の『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』によると、町田市の遺跡番号687番の「横穴墓」として登録されており、出土品として「水晶製切子玉」が記載されています。
画像は、「つくし野殿山特別緑地保全地区」として保護されている緑地の一角を北西からみたところです。以前は複数の横穴が存在したようですが、現在は1基のみが給料斜面に残されています。

横穴墓の様子です。現在は柵で塞がれているようですが、山崎町所在の「上山崎横穴墓」のようにコンクリートで塞がれてはいませんので、隙間から内部を覗くことはできるようです。

横穴内部の様子です。
とりあえず、この場所に横穴墓が存在するとは、事前に調べて訪れない限りは、ほとんど誰も気がつかないと思われるのですが、この「つくし野横穴墓」や、前回取り上げた「上山崎横穴墓」も含めて、説明板があれば良いのになあと思うのですが、難しいのでしょうかね。。。
さて、話は変わって、今回も古墳とはまったく関係のない、私が実際に経験した怖~い話、その2です。。。
私が二十代後半くらいの頃だったと思いますが、当時私は、23区内のJR沿線のとある駅近くのワンルームマンションに暮らしていました。
ある日、地元の親友が泊まりで遊びに来ることになり、夜遅くまで酒を飲みながら話も弾み、そのまま自宅に戻って、さらに買い込んだ酒を飲んで、そのままなんとなく雑魚寝になりました。
しばらくして、人の気配がして目を覚ますと、私に目の前に友人が仁王立ちしているんですね。肩幅くらいに足を開いて、緑色のカーゴパンツを履いた下半身が目の前に見えるのですが、私は横になっているので上半身までは見えません。いったいこいつはこんな夜中に何をしているのだろうと思いました。
足の位置からして、壁から30cmくらいの至近距離で壁を見つめるような姿勢で、全く動かずにじっとしています。友人が立っているちょうど正面あたりの壁には時計がかかっていましたので、時計を見ているのかな、とも思いましたが、なんせかなりお酒が入っていましたし、面倒なので声をかけることはせずに寝たふりをして、そのまま本当に寝てしまいました。
朝、目が覚めてから、なんとなく昨夜のことを思い出し、
「一体何をしていたんだよ?」
と尋ねてみましたが、友人曰く
「あれだけ呑んで、夜中にそんな意味不明な行動をするわけねえだろう?朝まで熟睡してたよ」
ということなんですね。
そう言われればそうだよなあ、と思いながらふと友人の下半身を見ると、青いジーンズを履いています。よくよく思い出してみると、昨夜、待ち合わせ場所で会ったときからジーンズ姿だった記憶があります。
それで、
「まさか昨夜、寝るときに緑色のカーゴパンツになんて履き替えていないよな?」
と尋ねると、
「履き替えとらんわい」
という返事。
じゃあアレは一体誰だったんだよ。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2019/07/20(土) 01:20:07|
- 町田市の古墳・塚
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今回紹介するのは、町田市山崎町に所在する「上山崎横穴墓」です。
『東京都遺跡地図』には、町田市の遺跡番号493番の「包蔵地・横穴墓」として登録されており、出土品として「石器」が記載されています。
この横穴墓については、かなり以前より存在は知っていたものの、なかなか訪れる機会がありませんでした。それが昨年、「こうせん塚」「乗越八幡跡」を見学した際に存在を思い出して、その足でまっすぐこの横穴墓に向かいました。
当日に急遽思い立って訪れたので、詳細までは調べていなかったのですが、横穴は1基のみであるものの開口している、という状況は知っていたので、現地に行けば見学できる、と思い込んで訪れてみたわけですが……

これが上山崎横穴墓の現状です。
横穴はコンクリートで塞がれており、残念ながら内部を見ることはできません。(がっくり)
整備されている状況からして内部の調査も行われているのではないかと考えて、帰りがけに町田市の中央図書館に立ち寄ってみましたが、報告書の類は見つけることができず、詳細はわかりませんでした。。。

もう一箇所、見かけた横穴です。
近づいて内部を覗いてみました。。。

実はこの日は、出発する時になぜか眼鏡をかけ忘れて、そのまま出かけてしまったんです。。。
年に1、2回くらい、私はこういうミスを犯します(ホントに信じられませんが)。
実際の横穴内部は画像よりも薄暗くて「うーん、よく見えない…」という状況で、帰宅後に画像の露出を上げてみて、ようやく確認することができました。
こーんな感じ。。。
さて、話は変わって、古墳とはまったく関係のない話なのですが。。。
最近の私は色々事情があって、わりと週末に帰省していることが多いのですが、つい先日の土曜日も暗くなってから実家に戻り、夕食後に独りでぼんやりと横になっていました。
そこで、生前の母が聞かせてくれた、とっても不思議なお話を思い出しました。
当時の母は、朝から晩まで夢中になって働いていました。営業のような仕事をしていて、朝8時過ぎには家を出て、夜遅くまで、車であちこちを飛び回っていました。仕事の途中に家の近くを通る際には、会社に戻るよりも自宅に立ち寄って昼食をとり、書類の整理などをして、また仕事に出ていたようです。
ある日の午後、いつものように家に立ち寄って書類の整理をしていたそうです。この日、少し疲れたなあと感じて、仮眠をとって休んでから出かけようと、2階に上がって寝室でごろりと横になったそうです。戦前生まれの母は昔の人ですので、寝室は畳の部屋で、そこに布団を敷いて寝る、というスタイルでした。
時間が経って、ウトウトとしかけた頃でした。
階下から2階に向かって、「とん、とん、とん、」と誰かが階段を上がってくる気配がして、目が覚めたそうです。
当時、私はすでに上京していて、父は単身赴任。妹も仕事に出かけていて、帰ってくるような時間ではありません。家には母しかいないはずです。
「いったい誰だろう?」
母の緊張は一気に高まりました。
すると、足元の襖がすーっと開き、誰かが入ってきました。
その瞬間、パキーンと体が動かなくなってしまったそうです。いわゆる金縛りですね。
どんなにもがいても、指一本動くことはできなかったそうです。
襖を開けて部屋に入ってきたのは、驚いたことに、それは20年近くも前に亡くなっているはずの母の祖母、つまり私のひいおばあちゃんだったそうです。(不思議なことに、目を閉じたまま金縛りにあっているにも関わらず、周りの光景は見えていたのだそうです。夢を見ているわけではなく、絶対に目は覚めていた、と母は断言していました。)
ひいおばあちゃんは、部屋の中に入ると「とんっ」をふすまを閉めて、寝ている母の足元から、すーっと移動してきました。
寝室には、大きな古い箪笥が三つ並んでいて、真ん中の箪笥の中段あたりには、着物を入れておくような、あまり高さのない引き出しが何段かあります。
ひいおばあちゃんは、この引き出しのある箪笥の前に前に立ち止まって、しゃがみこみました。そして、一番上の引き出しをすーっと引いて中を見て、「ないな~」という感じで首をかしげると、またすーっと引き出しを閉め、次にまた二段目の引き出しをスーッと引いて中を見て、やはり「ないな~」という感じで首をかしげると、またすーっと引き出しを閉め、まるで何かを探しているかのようにすべての引き出しの中を確かめると、来た時と同じように寝ている母の足元まで歩いて行って、襖を開けて帰って行ったそうです。
この話を母から聞いたのは、確か私が二十歳前後だったと思います。
私は少々面白がってしまって、友人が遊びに来た際に、母親に「ちょっとあの話、聞かせてやってくれよー」なーんて、ちょっと調子に乗って、ギャーギャー盛り上がっていました。
そしてその後、帰省を終えて東京に帰ってからは、この話はすっかり忘れてしまっていました。
その翌年、母方の祖父が亡くなり、家族で通夜と告別式に参列しました。
帰宅した夜、母がこんな話を聞かせてくれました。
お通夜の日を前にして、母は喪服をどこにやっただろうかと不安になって、仕事の途中で自宅に立ち寄ったそうです。「とんとんとんとんとん、」と階段を上がり、襖を開けて寝室に入ります。そして、タンスの前にしゃがみ込んで、一番上の引き出しをすーっと引いて中を見て、「ないな~」とすーっと引き出しを閉め、次にまた二段目の引き出しをスーッと引いて中を見て、やはり「ないな~」といすーっと引き出しを閉めました。
「ん?」
母は、同じ行動を以前にしたことがあるのではないかと感じて、考えてみると…。
そうです。
あの日に夢枕に見た、ひいおばあちゃんとまったく同じ行動をしていたのです。
母が、「おばあちゃんが、父(私の祖父)の死を知らせるために現れてくれたのかねえ。。。」と、遠い目で話していたのを今でも覚えています。
ひいおばあちゃんが母の夢枕に立ったのは、葬儀が行われるちょうど一年前ではなかったか、とも思うのですが、今となっては確認することもできません。
不思議なことがあるもんですよね。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2019/07/18(木) 00:32:16|
- 町田市の古墳・塚
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気がつけばなんと、記事番号が1000番に達していました。
今回は1000番記念ということで、ちょっと画像が大きめ。
画像は、川崎市高津区梶ケ谷3丁目に所在する「西福寺古墳」を南から見たところです。
地元の人にはかなり知られた古墳ですね。
高津区の№68遺跡として登録されているこの古墳は、現在は「梶ヶ谷第3公園」内に整備、保存されており、昭和45年に川崎市重要史跡に指定。その後、昭和55年(1870)には神奈川県の史跡として指定されています。
公園内には、川崎市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。
西福寺古墳
西福寺古墳は、矢上川左岸に築かれた高塚古墳群の中にあって、規模が
大きく、保存状態も極めて良好です。
昭和五七(一九八二)年、古墳の景観整備の一環で行われた発掘調査
の結果、この古墳が築かれたのは、六世紀中頃から後半と考えられ、直径
約三十五メートル、高さ約五・五メートルの円墳で、墳丘の周囲には
幅六~七・五メートル、深さ約八十センチの溝(コンクリートブロックで
舗装されている部分)がめぐらされていたことがわかりました。
また出土した埴輪の中には、水鳥を模した埴輪の頭部も発見されてい
ます。
現在の西福寺古墳は、その成果に基づいて復元・整備をされたもので、
昭和五五年(一九八〇)九月一六日、神奈川県史跡に指定されています。
平成十一年(一九九九)三月 川崎市教育委員会
古墳の保護のため、植え込みの中に入らないようにお願いします。

史跡公園は、シーンと静まり返って誰もいないような場所も少なくないのですが、西福寺古墳が保存されているこの梶ヶ谷第3公園はいつも子供達が楽しそうに遊んでいて、とても雰囲気の良い公園です。
訪れた当日は墳丘上にも登ってみたのですが(子供らが古墳の上を全力で走り回っていたし)、見学を終えて写真も撮り終えて、最後に説明板を読んだところ、「古墳の保護のため植え込みの中に入るな」と書いてあるのを見て「げ」となりました。
墳頂部には三角点が設置されているのみで、特に古墳に関係するものは見られません。かなりバシャバシャと撮影しまくってしまったのですが、公開は控えておこうと思います。。。
この古墳は、一部の埴輪収集家により盗掘が行われており、昭和57年(1982)の調査の際には、墳麓のいたるところに盗掘の跡が残されていたそうです。
以前、栃木県内の古墳の現地説明会で、とある古墳の発掘現場で完形の埴輪の盗難事件が起きたというお話を学芸員の方にお聞きしたことがありますが、現代でもそんな事件が起きるのかとびっくりしました。(いや、犯罪だよという以前に、バチが当たりますよきっと)
貴重な文化財ですからね。大切にしたいものです。。。
<参考文献>
川崎市教育委員会「川崎市内の高塚古墳について」『川崎市文化財調査集録 第24集』
現地説明版
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- 2019/07/04(木) 23:56:01|
- 川崎市の古墳・塚
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多摩丘陵の北東縁の一角、現在の川崎市高津区末長2丁目周辺には、「久保台」と呼ばれる台地が存在します。この台地上は「久保台遺跡」と呼称され、縄文・弥生・土師・須恵」の散布地として知られています。
久保台遺跡と呼ばれる一帯は長く畑地として利用されていたようですが、昭和60年(1985)頃に地元在住の住民が埴輪の存在に気付き、以後採集された埴輪の破片は、昭和63年(1988)10月までに、40×30×20cmの箱にして7箱分にも及ぶそうです。埴輪片は径50メートルの範囲から採集されており、台地の中央部からまとまって出土していることから、埴輪窯とは考えられず、この場所に高塚古墳が存在したのは間違い無いと考えられていたようです。
画像は、久保台遺跡内に所在する「江戸見桜」です。川崎市の『まちの木50選』にも選ばれている桜で、品種はオオシマサクラです。
現地に設置された説明板には
江戸見桜 「江戸が見える」「江戸からも見える」として地元はもとより、大山詣での人の目印にもなったので。この名が付けられたと言われ、平安時代後期の武将八幡太郎義家も馬を休めたとも伝えられている。この地は鎌倉時代から明治初期にかけて熊野権現の境内で、桜は依代の樹で浄土を現す象徴として複数植えられたらしい。 と、この桜にまつわる多くの伝承が記されています。

埴輪片が採集された場所は、この江戸見桜の西方40メートルほどの地点で、画像の左側にあたります。
埴輪は、円筒埴輪、朝顔形埴輪、人物埴輪、馬形埴輪が出土しており、埴輪の出土は2箇所に大別されています。これを甲群、乙群とすると、甲群の古墳は6世紀を前後する時期、乙群の古墳は6世紀の第一四半期~第二四半期に築造されたと推定されているようです。
埴輪が採集された当時、すでに古墳としての表徴は見られなかったようですが、『川崎市文化財調査収録』に収録の「川崎市高津区末長久保台出土の埴輪」には、「採集地点から東方40mの遺跡最高所には、塚状の高まりが存在し、古墳である可能性を有するものといえる。」と書かれています。同書に掲載されている布図と照らし合わせると、「遺跡最高所の塚状の高まり」とはどうやらこの「江戸見桜」の場所であるようです。
その後、平成12年(2000)から翌13年(2001)にかけて、宅地造成に伴う発掘調査が行われ、5世紀前半から6世紀中葉に築造されたと推定される古墳4基の古墳の周溝が検出されたようです。この調査の詳細は、報告書を見つけることができなかった(未刊行かもしれない)ので、よくわからないのですが、周溝の一部が確認されたという1号墳の周溝からは、5世紀末から6世紀初頭、6世紀前半という異なる2種類の埴輪が出土しているそうです。
想像するに、江戸見桜の西方40mほどの地点が1号墳。そしてこの江戸見桜の地点も古墳であり、2基の古墳の埴輪片が1号墳の周溝に混在していた、という状況が考えられそうですが、真相はわかりません。

『川崎の遺跡』からすると、画像の畑地の奥にも古墳が1基登録されているようです。江戸見桜の西側の古墳が1号墳であれば、この場所が2号墳となるのかも知れませんが、現状は古墳の痕跡らしき高まりは見られないようです。

『川崎の遺跡』によると、「江戸見桜」の東方20~30メートルほどの地点にも、高津区No.122遺跡として2基の古墳が登録されているようです。おそらくは、この2基が3号墳と4号墳ということになるのでしょうか。
3号墳は、平成20年(2008)に刊行された『末長向台遺跡第3地点・末長向台古墳群』に「上面を削平されているが、比較的に遺存状況は良好である。」とあるようですが、現地で散策したところでは、正確な古墳の位置はわかりませんでした。外径16m、内径14mの円墳で、出土した遺物により6世紀中葉の築造と推定されています。
4号墳は、外径で南北16.8m、東西22.25mの円墳で、出土した遺物が5世紀第1〜第2四半期の所産と考えられているようです。

周辺をよーく観察してみると、円形を呈するわずかな高まりを見つけることができました。これが古墳に関係するものなのかどうかは不明ですが、かなり気になる形状です。
少なくとも古墳群として複数の古墳が存在したことは間違いないようですので、これからの調査の進展が楽しみですね。。。
<参考文献>
高津図書館友の会郷土史研究部『鎗ヶ崎遺跡発掘調査報告書』
鈴木重信「川崎市高津区末長久保台出土の埴輪」『川崎市文化財調査収録 第25集』
有限会社 吾妻考古学研究所『末長向台遺跡第3地点・末長向台古墳群』
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- 2019/07/02(火) 23:16:46|
- 川崎市の古墳・塚
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