
今回は、八王子市大塚所在の「日向古墳」の探訪の記録です。
八王子市の遺跡番号459番に登録されているこの日向古墳について、東京都教育委員会より発行された『東京都遺跡地図』には、「丘陵上に築造された古墳(円墳)」であり、規模について「径13m、高2.5m」と書かれています。また、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には、所在地は「丘陵(大栗川に向かって丘陵が突出した先端頂上部)」で、墳丘は「消滅」。主体部も「消滅?」とのみ書かれています。
実は、かれこれ8~9年ほど前に一度、日向古墳を見るためにこの場所を訪れました。調査報告書の記述からして、古墳はすでに削平されているようですが、所在地は神社やお寺ですし、なにか痕跡だけでも見つけることができればと考えていました。しかし、この最初の見学ではやはり古墳の痕跡を見つけることはなく、正確な所在地も不明で、夕闇の中、現地を後にしました。
しかしその後、とても興味深い面白い記事を見つけます。
昭和59年(1984)に発刊された、村下要助著『生きている八王子地方の歴史』の26ページには、
由木大塚は、わが国最大の円墳である。埼玉県行田市にある丸墓山古墳が底部幅百メートルで、わが国第一位などと書く本があるが、ろくに古墳を見て歩かない人が言うことと思う。由木大塚は、ざっとであるが調べてみた。底部幅百二、三メートルに計れる。高さは丸墓山十九に対し、半分強であるが、自然の山へ土を盛り上げた見事なものだ。
慶長十二年に頂上を少し削り取り、八幡宮を作られているほか、その前に、北側部分をかきならされて、寺が一つできたため、多少円墳の変形が見えるが、そんなことはこの大古墳を見たならば、腹の立つことではない。(後略) と書かれています。
確かに、この地域の地名の由来となっている「大塚」は日向古墳を指すものではなく、この丘陵自体を指すものであるようですが、それにしてもまさか、この丘陵そのものが大古墳?
にわかには信じられない記述ではあるのですが、同書にはなんと!周辺に存在したという前方後円墳や上円下方墳にまで言及しています。
これがずっと気になっていたのですが、昨年のよく晴れた冬、あらためて日向古墳とその周辺を散策してみました。

最初の画像は「大塚」を西から見たところ。
2枚目の画像は、近寄ってみたところです。
『新編武蔵風土記稿』の大塚村の項には、この丘陵上に祀られている八幡神社について「大塚の上にあり」と記されていますので、少なくとも江戸時代にはこの丘陵は大塚と呼ばれていたものと思われます。
『東京都神社名鑑』に記載されている八幡神社の「由緒」の項には
創立不詳であるが、明和元年(一七六四)現在地に祀られたと伝えられる。御社殿の中に刀身だけの劔が納められている。大塚は、いわゆる塚で、これは古墳の塚であると伝えられている。塚の規模はきわめて大きく、その塚の上に社殿が祀られている。この辺の地域を総合的に大塚という部落の固有名詞になっている。 と書かれています。
「刀が納められている」という記述が見られるものの、「大塚(日向古墳?」から出土したものなのかどうかはよくわかりませんでした。
この丘陵が古墳であるならば、奈良市の富雄丸山古墳(直径110m)や行田市の丸墓山古墳(直径105m)に迫る、巨大円墳ということになりますが、本当に古墳なのでしょうか?
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=195540&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年(1948)に米軍により撮影された大塚とその周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
当時、丘陵の周囲の土地のほとんどが畑地として利用されているようですが、周溝の痕跡も特に見られないようですし、やはりこの「大塚」自体は古墳ではなく、自然地形なのではないか?とも思えます。

この丘陵の北側には野猿街道が東西に走っており、この街道により削られたことにより独立丘のごとき形状となったもので、元々は北側の丘陵から半島状に突き出た舌状台地だったのではないかと想定できます。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にも、日向古墳の所在地について「丘陵(大栗川に向かって丘陵が突出した先端頂上部)」と書かれています。
画像の、大塚の南側から石段を登ったところが「大塚八幡神社」です。

神社の境内の様子です。
周囲より一段高くなった場所に社殿が建てられています。
昭和36年に東京都教育委員会により発行された『南多摩文化財総合調査報告』に、この日向古墳の記述が見られ、
由木村大字大塚日向古墳 多摩村古墳群の西方約1km離れた大栗川の西岸に近く、西方から延びる台地の末端に位置している。径約13m、高さ約2.5m内外の規模をもっていた円墳と思われるが、出土品その他は不明である。後期終末期に位置する古墳であろう。 と書かれています。(「多摩村古墳群」とは多摩市の「和田古墳群」のことで、東方には多摩市の「稲荷塚古墳」、「臼井塚古墳」や「庚申塚古墳」が、また北東には「塚原古墳群」や日野市の「万蔵院台古墳群」があり、大栗川流域にはかなり多くの古墳が存在していたようです。)
具体的に古墳の規模まで書かれているわけですし、やはり境内のどこかに小円墳が存在した、ということでしょうか。
ここでも出土品は不明とされているようですし、社殿に納められているという刀が日向古墳出土のものかどうかはわからないようですね。。。

西側の、「最照寺」側から見たところ。
この角度から見ると、二段築成の巨大円墳か?それとも丘陵上に築かれた大円墳の上部か?とも思える地形ですね。

大塚八幡神社の社殿西側にある境内社、「神明神社」です。
周囲が石垣で成形されているものの、この場所は周囲よりもさらに高くなっていて、古墳の痕跡を思わせます。
ここが日向古墳の跡地なのでしょうか?

神明神社の高まりを東側から見たところ。
明らかに一段高くなっています。

神明神社の西側に隣接する、境内社の「秋葉神社」です。
この角度から見ると、残存する円墳の一部か?とも思える形状です。

先ほどの南側から見た画像は、残存する小円墳かのようにも見えるのですが、神明神社と秋葉神社の背後は平坦地となっており、この場所が古墳の跡地かどうか、確信が持てません。
最照寺を訪ねて聞いてみればよかったんですけどね。。。

同じ場所の、最初に訪れた時の画像です。
以前は神社とお寺が塀で仕切られていて、そこに多くの石造物が安置されていました。
現在は塀が撤去されており、地形を確認することができます。

神明神社と秋葉神社の背後は最照寺の墓所となっているのですが、その中に周辺よりも高くなった場所が存在します。『八王子市遺跡地図』の分布図に記されている位置からすると、この高まりが古墳の跡地なのではないか、とも考えられます。(もちろん、分布図の位置が単なる推定地である可能性も考えられますし、真相はわかりません。)

八幡神社の社殿背後あたりも怪しいのではないか、と考えていましたが、ここも最照寺の墓所となっていました。
結論として、「大塚」の丘陵自体が古墳であるかは不明(個人的には自然地形ではないかと考えていますが)。日向古墳の所在地もわかりません。
神様がおられる場所ですのでね。なかなか発掘調査も難しいかと思いますが、でも大塚が巨大古墳だったらと妄想すると夢がありますよね。

記事を書き上げて、最後にグーグルマップで日向古墳周辺を眺めていたら、大塚が巨大前方後円墳としか思えなくなってきた。
まずいな。疲れているのかな。。。。。
<参考文献>
村下要助『生きている八王子地方の歴史』
八王子市史編さん委員会『八王子市史 下巻』
八王子市教育委員会『八王子市遺跡地図』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2019/08/05(月) 02:46:26|
- 八王子市の古墳・塚
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