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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「北芝久保富士」

北芝久保富士

 画像は、現在の西東京市芝久保町2丁目、旧田無市に所在する富士塚、「北芝久保富士」を北東から見たところです。『東京都遺跡地図』には未登録につかです。
 田無で富士講がいつ成立したのかはわかっていないようですが、田無の富士講は丸嘉講で、六つの組のうちの一つである田無組の講中に入っていたそうです。


北芝久保富士

 塚を近くで見たところ。
 かつての北芝久保富士は現在よりも高く盛り上げて造られていたようですが、現在は高さ1mほどの小さな塚となっています。


北芝久保富士

 富士講中は先達に引率されて富士山に大勢で登拝して祈願をしましたが、実際に登拝できない人は近くの富士塚に参拝して、家内安全を祈願すれば富士登山したのと同じ後利益があるとされました。この北芝久保富士の塚の上にも、石造の祠が祀られています。


北芝久保富士

 この富士塚は、実はサイクリング中に偶然に見つけて「おお!田無にも古墳状の塚があるじゃないか!」とワクワクしました。笑。
 これまで何十年も生きてきて、盛り上げた土を見てワクワクするというおっさんが出来上がっているわけですが、とりあえず安上がりだし、まあいっか、と思う今日このごろです。。。

<参考文献>
田無市史編さん委員会『田無市史 第四巻 民俗編』


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  1. 2019/08/29(木) 23:06:59|
  2. 西東京市•東久留米市の塚
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「塚」

「塚」交差点

 画像は、三鷹市の連雀通りと伏見通りが交差する「塚」交差点です。

 この交差点は、私はなんども通っている場所で、周辺は比較的土地勘がある地域でもあるのですが、古墳巡りを趣味とするようになってからは、この交差点名は心の片隅で小さく気になっていました。
 「庚申塚」とか「稲荷塚」といった、塚の性格がわかるような名称が交差点名となっている事例は少なからず存在しますが、「ただ”塚”って、いったいなんの塚なんだよ」と思いますよね?(思わないか)

 久しぶりに訪れたこの交差点、かつては片側一車線の道路が交差する、狭くて小さな交差点だったのですが、南北に走る伏見通りが拡張されたおかげで歩道も整備され、大きな交差点となっていてびっくりしました。


「塚」交差点

 さて、ここに一体なんの塚があったのか、調べてみました。
 この場所は上連雀と井口の接するところで、かつては一里塚が造られていたそうです。『新編武蔵風土記稿』によると、1基は江戸往来の接するところに、もう1基は南の林の中にあり、ともに高さは三尺余りの小さな塚で、この通りは「二つ塚」と呼ばれていたようです。
 残念ながら塚は道路の改修により壊され、塚の性格な位置までは特定できませんでした。
 やはり塚の上には榎が植えられていたのでしょうか。。。


「塚」交差点

 バスの停留所も「塚」の一文字。
 「一里塚」とか「二つ塚」といった名称とならなかったところは不思議ですよね。


大鷲神社

 交差点西側脇の、連雀通り沿いに所在する「大鷲神社」です。
 明治9年(1876)、井口南横町蓮華寺後にあった神社がこの地に移されたといわれています。地元では「お酉さま」と呼ばれており、近隣では最も古いお酉さまです。三鷹市の名誉市民でもある作家の武者小路実篤の書による寺社名碑があり、御鷹場の石碑の破片が祠内に収められたことが記されています。
 土台が周囲よりも一段高くなっていて、ひょっとしたら元々あった塚の上に建てられているのかな?と深読みしてしまいますが、どうなんでしょう。。。


上連雀神明社の庚申塚

 大鷲神社とは逆の、交差点東側の連雀通り沿いに所在する、上連雀神明社の庚申塚です。この場所は塚状の高まりは見られないようですが、元々マウンドの存在しない塚だったのでしょうか?

 この地域に古墳の存在は考えにくいところではあるのですが、歴史が多く残っている三鷹の、廻り甲斐のある一日でした。。。

<参考文献>
三鷹市教育委員会『てくてく・みたか 市内歴史散歩』


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  1. 2019/08/28(水) 23:07:35|
  2. 三鷹市の古墳・塚
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「中嶋神社の富士塚」

「中嶋神社の富士塚」

 今回は、三鷹市内にある富士塚を紹介しようと思います。

 画像は、三鷹市中原3丁目に所在する「中嶋神社」です。
 この神社の創建年代等は不詳ながら、古くは稲荷社と称し、弘治3年(1557)に土地の豪族麻生氏が稲荷明神として勧請し、延宝3年(1675)に大社宮を建立したといわれています。
 祭神は、五穀豊穣、産業振興、家内安全などの宇迦乃御魂命、そして良縁、福徳の大貴己命で、新田義貞奉納の手旗あるいは大将の手旗といわれるものが宝物として保管されています。
 この神社の境内に、三鷹市唯一の富士塚が存在します。


「中嶋神社の富士塚」

 中嶋神社社殿の様子です。
 社地奥には中仙川不動堂があります。


「中嶋神社の富士塚」

 富士嶽神社です。
 鳥居の奥にチロっと見えているのが富士塚です。


「中嶋神社の富士塚」

 画像が、中嶋神社の富士塚です。
 コンクリートで固められていて、まるで異形のオブジェといった様相ですが、富士信仰の講中が造営寄進した富士塚で、近年に整備された塚なんだそうです。


「中嶋神社の富士塚」

 境内社の厳島神社です。
 この形状がたまらないですね。

 三鷹市内に富士塚が存在するというのは、実は今年に入って初めて知りました。ちょうど自転車を買い換えた時期でもあったので、新しい自転車の試運転も兼ねてこの周辺を散策しました。
 この地域はかなり土地勘のある場所なのですが、まさかここに富士塚があるなんて知らなかったなあ。。。

<参考文献>
三鷹市教育委員会『てくてく・みたか 市内歴史散歩』
現地説明板


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  1. 2019/08/27(火) 09:07:55|
  2. 三鷹市の古墳・塚
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「兜塚」

兜塚(勝淵神社)

 三鷹市では、とても稀有な存在である「天文台構内古墳」なる上円下方墳が確認されています。国分寺崖線沿いに単独で存在するこの古墳以外に、三鷹市内には高塚古墳は存在しないといわれており、『東京都遺跡地図』にも天文台構内古墳以外の高塚古墳は登録されていないようです。
 果たして本当に」「天文台構内古墳」以外の高塚古墳の存在はなかったのでしょうか?  

 画像は、三鷹市新川3丁目にある勝淵神社です。
 この神社の祭神は弥都波能売神で、地元では「ミョウジンサマ」と呼ばれており、水の神、お産の神といわれています。柴田勝重が、祖父勝家公より与えられた黄金の兜を埋納したという伝承があり、昭和の時代までは境内に樫の御神木があり、「兜塚」と呼ばれる塚があったといわれています。


兜塚(勝淵神社)

 勝淵神社の境内と社殿の様子です。
 この神社の由来について、境内にある勝淵神社由来碑には次のように書かれています。

 天正十一年(一五八三)織田信長の重臣柴田勝家は賤ヶ岳の戦いに敗れ
北ノ庄城に於て自刃したが、その折、孫の権六郎(三才)に愛用の兜を与
え郎党を供に、上野国の外祖父日根野高吉の元にのがす。権六郎十六才に
して元服、柴田三左衛門勝重と名乗る。慶長四年(一五九九)徳川家康は
勝重を召し出し、上野国群馬・碓氷両郡のうち二千石を与える。慶長五年
(一六〇〇)勝重は関ヶ原の戦いに初陣、更に慶長十九年(一六一四)大阪
冬の陣、翌年元和元年(一六一五)大阪夏の陣に従軍し、その戦功により
武蔵国多摩郡上仙川村(現新川)・中仙川村(現中原)その他合わせて五百
石を加増される。上仙川村に入村した勝重公は村の中ほどの台地(現島屋
敷)に陣屋敷を建て住居とし、それより北方の台地水神の森に社殿を建立
し、その傍らに祖父勝家公より与えられた黄金の兜を鎮めて、神霊として
祀り社号を勝淵明神とした。
 以来四百年、当社は村の鎮守として村民の崇敬の念篤く代々の氏子会に
より護持されている。


 社殿の右奥に、再建された現在の兜塚が所在します。


兜塚(勝淵神社)

 画像が、現在の「兜塚」の様子です。
 塚の前には「兜塚再興之碑」の石碑が建てられており、「(前略)彼の兜は 歳月の過ぐるに隨い 神社の傍の樫の木の根元に鎮められ これを兜塚と言い伝う この謂れある塚も近年はその形跡をとどめず 氏子中 これを惜しむ事切にして何時の日にかと この歴史的遺構の再建を願う 今忽に機熟し関係者の協力を得て もとの地に兜塚を再興し 後世に残さんとする者なり」と刻まれています。
 かつての塚の所在地もこの地点で間違いないようですが、土台となっている高まりは塚の名残というわけではなさそうです。
 ちなみに形状は、上円下方墳ですね。。。


兜塚(勝淵神社)

 説明板によると、織田信長の重臣であった柴田勝家の兜が孫の孫の勝重によりこの地に埋納されたという伝承は、これを裏付ける史料として天明5年(1785)の紀年銘がある柴田勝家位牌奉安添状が春清寺に所蔵されており、その後は『新編武蔵風土記稿』にみられるように江戸時代を通じて継承され、少なくとも戦前頃までは口承によって伝えられていたことが、文献や聞き取り調査等により確認されているそうです。
 思うに昭和から平成という時代は、地域に伝わる伝承が途絶えてしまった時代なのかもしれませんね。。。


兜塚(勝淵神社)

 境内に設置された三鷹市教育委員会による説明板には、昭和40年(1965)の、往時の兜塚とご神木が掲載されています。
 この見上げた感じからすると、以外と大きなつかだったのかもしれませんね。。。


兜塚(勝淵神社)

 三鷹市新川4丁目の春清寺には、柴田勝重の墓が残されているという事で立ち寄ってみました。


兜塚(勝淵神社)

 画像は、春清寺の墓所内に残る、柴田勝重の墓です。
 三鷹市教育委員会による設置された説明板には、次のように書かれています。

三鷹市指定史跡 柴田家家碑・柴田勝重墓
 柴田勝重は戦国武将織田信長の重臣柴田勝家の孫で、江戸時代の始め頃、上仙川・中仙川村(現・三鷹市新川・中原及び調布市緑ヶ丘・仙川等の一部)を治めていました。
 家碑によると、祖父の勝家は、天正11(1583)年、???の戦いで豊臣秀吉に敗れ、越前国北の庄(現・福井県)で、妻のお市の方と共に自刃しますが、その時三歳であった孫の勝重は、外祖父とされる上毛州(現・群馬県)日根野氏のもとへ逃されたと記されています。
 慶長4(1559)年、17歳になった勝重は、徳川家康に仕官し、翌慶長5(1600)年関ヶ原の戦いで初陣を遂げ、大坂冬の陣、夏の陣にも出陣し、戦功を挙げています。これらの戦功によって上・中仙川二村と入間郡藤沢村(現・埼玉県入間市)内で500石を加増され2,520石の旗本となりました。『新編武蔵風土記稿』等によると勝重は、島屋敷(現・新川島屋敷通り団地付近)に館をかまえ居住したと記されており、発掘調査によって居館跡が確認されています。勝重は寛永9(1635)年、54歳でこの地に病死し、春清寺に葬られました。墓石は宝篋印塔とよばれるもので、武家では市内で唯一のものです。勝重の死後、柴田家は代々旗本として幕府に仕え、元禄11(1698)年まで仙川の地を治めたのち、三河(現・愛知県)へ転封になりました
 柴田勝家碑は、勝重から数えて10代目の勝房が建立した、柴田家の由来が記された石碑で、寛政8(1796)年に建立されたものです。この墓所には柴田家一族20基の墓標が建てられています。
 なお、勝淵神社(新川3-20)には、勝重が祖父勝家から譲り受けた兜を埋納したという伝承が伝えられており、「柴田勝家兜埋納伝承地」として三鷹市の登録史跡となっています。
昭和53年5月8日 史跡指定 三鷹市教育委員会



「柴田家の碑」

 寛政8(1796)年建立の柴田勝家碑です。


「大仏」

 三重の塔の横にある「多摩大仏」。
 この地域は比較的土地勘があるところなのですが、こんなお寺があるなんて知らなかったな。。。

<参考文献>
三鷹市教育委員会『市内歴史散歩』
現地説明板


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  1. 2019/08/26(月) 02:06:36|
  2. 三鷹市の古墳・塚
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「山野庚申塚」ー市指定有形民俗文化財(民俗)ー

「山野庚申塚」ー市指定有形民俗文化財(民俗)ー

 画像は、深大寺北町6丁目に所在する「山野庚申塚」を南からみたところです。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、所在地は「庚申塚児童遊園」として整備されており、現在も3基の庚申塔が祀られています。
 庚申塔の場所がわずかに小高く盛り上がっているようですが、かつての塚の名残なのでしょうか。。。


「山野庚申塚」ー市指定有形民俗文化財(民俗)ー

 北西から見た山野庚申塚です。
 古墳時代に墳墓として築造されながらも、後世に塚として流用された事例は数多く存在します。東京都内でも、多摩市には庚申塚として流用された「庚申塚古墳」や、狛江市には経塚として流用された「経塚古墳」などが現存します。
 この山野庚申塚も、古墳であった可能性はないものかと期待して訪れましたが、どうやら古墳とは無関係であるようです。
 ちなみに南西500メートルほどの地点には、上円下方墳である「天文台構内古墳」が現存します。。。


「山野庚申塚」ー市指定有形民俗文化財(民俗)ー

 塚上に祀られた3基の庚申塔です。
 公園内には、調布市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。

市指定郷土資料(民俗資料)
 山野庚申塚の庚申塔 三基
      所在 深大寺北町六丁目八番地十九
      指定 平成二年十二月二十六日
 これらの庚申塔は、市内における最も代表的な
ものである。いずれの塔も正面に青面金剛像と三
匹の猿を配し、中でも正徳五年(一七一五)の塔に
は野崎村の二名をはじめ深大寺村山野三名、深大
寺村宿二名の人びとの名が刻まれている。享保四
年(一七一九)の塔には「深大寺村庚申講中拾五人」、
同六年(一七二一)の塔には「講中深大寺村七人」と
あり、行事に関係した人数があげられている。
 庚申信仰は、中国の道教からおこった信仰で、
既に古くは平安時代の貴族たちの間に行われ、江
戸時代になると広く民間に普及した。それは六十
日ごとにやってくる干支(えと)の庚申の夜に眠ると
命が縮まるといわれ、その夜は眠らずに身を慎み
一夜を過ごすという信仰行事であった。そのため、
全国各地に庚申講がおこり、石塔や塚をこしらえ、
飲食を共にしながら語り明かした。
 その行事は、村人にとって楽しい社交の場であ
るとともに、互助の役割も果たした。
 民間信仰の長い歴史をもつ庚申信仰の資料とし
て、歴史上、民族上貴重なものである。
              調布市教育委員会


<参考文献>
現地説明版


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  1. 2019/08/24(土) 01:35:32|
  2. 調布市/その他の古墳・塚
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「野盗塚(経塚・武藤塚)」

「野盗塚(経塚・武藤塚)」

 「野盗塚」は、町田市中町1丁目に所在したといわれる塚です。
 残念ながら、塚は開発により削平されて消滅しており、『東京都遺跡地図』にも未登録となっているようですが、塚にまつわる多くの伝承が残されているようです。

 画像は、この野盗塚の跡地周辺を西からみたところです。


「野盗塚(経塚・武藤塚)」

 野盗塚は、少なくとも昭和40年代までは痕跡が残されていたようです。
 町田市原町田6丁目の「日蓮宗浄運寺」の境内には、この塚のものであるという「武藤塚」と刻まれた石碑が移されており、町田市教育委員会による説明板が設置されています。この説明板には、在りし日の野盗塚の姿を見ることができます。
 この写真は昭和43年(1968)のものとされているようですが、この時点でかなり小さくなっているようにも見えます。


「野盗塚(経塚・武藤塚)」

 浄運寺境内の、「武藤塚」の石碑です。
 説明板には次のように書かれています。

野 盗 塚 物 語
 これは武藤家が名主の時のはなしである。
 ある日、武士の一隊が武藤家を訪ね、御用長持ちを預かってくれるよう申し入れ、家の中に置いて立ち去った。その夜半頃、下女が勝手にいた時、長持ちの蓋がギギーッと持ち上がった。下女が主人にこのことをはなすと、大石を運ばせ、長持ちの上に置かせたので、隠れていた武士はなすこともなく、翌日、空しく長持ちは運び出された。しかし武藤家では、いつか必ず復讐に来ると思い、警備を厳重にしていた。
 はたして数日の後に、五、六名の武士がのりこんできて主人に面会を求め、いかめしい様子で金子の借用を申し入れた・・・・ものかげで待ちかまえていた家人や村役人、剣術指南の侍が、槍、刀を振るって突き入った。
 野盗達もおおいに防ぎ戦ったが、逃げ出した。ところが路地や家の角は、大石をゆわえつけた梯子でふさがれていた。そこへ竹槍を持った村人達も駆けつけ、戦いに加わった。
 戦いはしばらく続いたが、野盗達は枕を並べて倒されてしまった。野盗塚(武藤塚ともいう)は、この武士達の亡骸を葬い、塚を築いて供養したものであるという。この塚は以前は中町一丁目(旧町田警察署のあったところ)にあった。
 (町田の民話と伝承 第一集・町田市文化財保護審議会編から)
一九九八年三月 町田市教育委員会



 前回紹介した「太刀山古墳」から北方300mほどに位置するこの野盗塚は、古墳ではなかったか?と妄想したくなるところですが、学術的な調査が行われることなく開発により消滅。残念ながら塚の性格等の真相はわかりません。。。

<参考文献> 
町田市文化財保護審議会編『町田の民話と伝承 第一集』
現地説明板


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  1. 2019/08/21(水) 01:33:38|
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「太刀山古墳」

「太刀山古墳」

 JR横浜線と小田急小田原線が交差する、町田市原町田6丁目には、なんと!前方後円墳が存在したという伝承が残されているようです。『東京都遺跡地図』にも登録されていない、言い伝えにのみ残る古墳です。

 立地的には境川左岸の台地上縁辺部にあたり、確かに古墳が築造されてもおかしくないようにも感じられますが、今では駅前の繁華街として大勢の人で賑わっており、古墳の痕跡は全く残されていません。

 平成19年(2007)に町田法人会より発行された『町田法人会報』には、この古墳について次のように書かれています。

「小田急線町田駅の東側交叉路「太刀山古墳跡」切通し風景」
三橋園民
解 説/町田駅東側に隣接している交叉路(マクドナルド・マルカワジーンズ・銀行)上にあるマンホールの鉄蓋は、この稽の手前、犬のいるところに当たる。
ほんの八十年前には、赤土の切通しがある雑木林だった 。昔から「太刀山(たちやま)と呼ばれ、子供達には兵隊ごっこをする格好の丘でもあった。戦後(昭和30年頃)開発 で切通しが崩されたとき、交叉路に大穴が聞いたと、文化財委員会に知らせがあった。駆けつけたが既に大穴はブルドーザーで跡形も無く壊され、出土したらしい金環も持ち去られていた。この時点で「太刀山」1500年のロマンは、あえなく潰えた。



「太刀山古墳」
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1183432&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年に米軍により撮影された太刀山古墳周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。画像の中央に前方後円墳らしき形状を見ることが出来ます。
 ざっと、40m前後の小形の前方後円墳というところでしょうか。前方後方墳のようにも感じられますが、この画像だけではなんとも判断できません。
 『町田法人会報』の、「大穴が開いた」という表現からして、やはり横穴式石室の存在を想像してしまいますし、金環が出土したということですので、どうやら「太刀山」が古墳であった可能性は高そうですが、ブルドーザーで跡形も無く壊されたということで、当然ながら報告書の類は存在せず、詳細はわかりませんでした。

 町田駅周辺の繁華街に前方後円墳が存在したとは、もはや誰も想像ができませんね。。。

<参考文献> 
社団法人 町田法人会『町田法人会報 91』


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  1. 2019/08/17(土) 22:22:12|
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 「落川・一の宮遺跡」

「落川・一の宮遺跡 1号古墳」

 「落川・一の宮遺跡」は、日野市落川に所在する遺跡です。
 『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』によると、この遺跡は日野市の遺跡番号38番に登録されており、「時代」は「縄文時代(晩期)」、「弥生時代(中期)」、「古墳時代」、「奈良時代」、「平安時代」、「中世」、「近世」という複合遺跡です。この遺跡からは、「1号古墳」と命名されている古墳が1基、検出されています。

 古墳は、北西から南東に延びる通称「田中島」と呼ばれる自然堤防の東側、多摩川に極めて近い低地から発見されています。発掘調査当時すでに墳丘は削平され、古墳の存在は想定されていなかったようですが、古墳の周溝が確認されたことにより存在が明らかとなっています。
 規模は周溝内径14m、外径18mを計り、全体の平面形は、陸橋部を西に持つ六角形、つまり「六角形墳」であると想定されています。

 これまでこの『古墳なう』で東京都内の古墳を中心に追いかけてきましたが、八角形墳は多摩市百草の「稲荷塚古墳」が確認されているものの、六角形墳は今のところ、この「落川・一の宮遺跡1号古墳」が唯一のものではないかと思われます。

 主体部については、墳丘のほとんどが削平されていたことから不明ですが、周溝北側底部の土坑状の掘り込みなどは遺体埋葬部ではないかと想定されているようです。


「落川・一の宮遺跡」

 落川・一の宮遺跡は、隣接する多摩市まで広がる、750.000m2以上の面積を持つと考えられる遺跡です。古墳の周溝は、野猿街道を多摩市、日野市から国立に抜ける日野3・2・7号線の道路により消滅しているようですが、遺跡の一部は落川遺跡公園として整備されています。この地下には各時代の竪穴建物と掘立柱建物が32軒埋もれているそうです。


「落川・一の宮遺跡」

 舗装された地面には、地下の遺跡の様子がわかるように色分けされていますが、経年劣化により色あせてきていて、ちょっとわかりにくいですね。。。


「落川・一の宮遺跡」

 公園内には、東京都教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。

東京都指定史跡
 落 川 遺 跡
所在地 日野市落川八一九
指 定 昭和六十二年二月二十四日

 本遺跡は多摩地区に多く存在する台地、丘陵
上の遺跡と異なり沖積微高地上に立地する稀有
な遺跡である。その沖積微高地上に四世紀末~
五世紀初頭に集落形成が開始され、以降、十四
世紀初頭にいたるまで連続的に集落が営まれて
いる。
 東方約三〇〇メートルに鎮座する武蔵一の宮、
小野神社を中心とする小野郷に比定される地域
に該当すると考えられる。また、『日本紀略』、
延喜十七年に見える「小野牧」と関係する遺跡
と推定されている。
 発掘された遺構は竪穴建物跡、掘立柱建物跡、
井戸跡、鍛冶炉、祭祀跡等である。
 遺物では鎌、鍬、鋤などの農耕具、鉄鏃、刀
装具、短刀などの武器類、馬具などが多量に出
土しており、これらの遺構、遺物は武士集団の
住居関係を解明する上で貴重な手がかりになる
ものと考えられる。
平成十八年三月一日
             東京都教育委員会

 

「稲荷塚古墳」

 私は、残存する六角形墳を実際に見たことはありませんが、八角形墳は関東地方に残存するものに限り、何度か見学する機会に恵まれました。
 画像は、東京都多摩市百草に所在の「稲荷塚古墳」です。
 言わずと知れた、都内唯一の八角形墳ですね。

 八角形の形状をはっきりと認識できる状況ではありませんが、発掘調査により八角形墳であることが確認されています。こうして保存して残されているだけでも、とても貴重な古墳です。


「稲荷塚古墳」

 現地の説明板に掲載されている、横穴式石室の様子です。
 かつては、墳丘に木造の覆屋が建てられて石室が公開されていたそうですが、平成9年度に保存措置を講じたうえで埋め戻されていて、残念ながら現在は見ることはできません。。。


「三津谷古墳」

 画像は、群馬県北群馬郡吉岡町所在の「三津谷古墳」です。
 群馬県の史跡として指定されている古墳で、発掘調査により正八角形墳であることが確認されています。八角形の一辺の長さは、下段で約9.0m、上段で約6.0mを有しており、墳丘の企画設計には唐尺が使用されたと推測されています。
 古墳は、調査時の葺石、列石、盛土を一部修復し、欠失部分は復元されているそうです。
 八角形の形状がはっきりと認識できます!


「三津谷古墳」

 古墳の内部は見学施設となっており、石室の根石状況や土葬断面が発掘調査時のまま展示されています。
 この古墳は、住宅地にひっそりと存在するのですが、なかなか見応えがあってお勧めです!


「伊勢塚古墳」

 画像は、群馬県藤岡市上落合所在の「伊勢塚古墳」です。
 石積みの角の部分をはっきりと見ることができます。。。

 この古墳も群馬県の史跡として指定されている古墳で、当初は円墳ではないかと考えられていたようですが、昭和62年度の範囲確認調査により直径27.2m、高さ6mの二段に築かれた不正八角形墳であると考えられています。


「伊勢塚古墳」

 石室内部の様子です。この古墳の石室は石積みに特徴があり、「模様積み」と呼ばれる独特な技法でドーム状の構造になっています。
 石室内は、薄暗かったことから見学時にはあまり感じませんでしたが、帰宅してからあらためて画像を見ると、むしろ天井石がスゲエなあと。石室内で大地震に遭遇したらと想像すると、ゾッとしますね。。。

 実は、この古墳の2度目の見学の際、ちょうど群馬県のスタッフの方々が調査を行なっており(昨年行われた七輿山古墳の非破壊調査と同時期です…)、わざわざ調査の手を休めてくださって石室の内部を見学させていただきました。また、群馬県立歴史博物館の館長様にお話をお聞かせいただき、記念撮影までしていただきました。大変感謝しております!ありがとうございました!

<参考文献>
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳時代 ー国分以前の様相ー』
落川・一の宮遺跡(日野3・2・7号線)調査会『落川・一の宮遺跡 Ⅱ 古代編』
現地説明板


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  1. 2019/08/13(火) 23:42:12|
  2. 日野市/その他の古墳・塚
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「下根古墳」

「下根古墳」

 「下根古墳」は、八王子市堀之内に所在したとされる古墳です。
 『東京都遺跡地図』には八王子市の遺跡番号414番の古墳として登録されています。

 すでに消滅して正確な位置もわからなくなっている古墳ですが、戦後の頃までは何らかの痕跡は残されていたと考えられ、『八王子市史 下巻』では「由木堀之内根下古墳」の名称でこの古墳について取り上げられています。

 本古墳は、すでに破壊してほとんどその形を認めることはできない。立地していた位置は、西方より延びる南多摩丘陵の南向斜面寄りの末端部に近く位置している。この古墳から出土したと伝えられる円筒埴輪の破片があるので、古墳の性格がわずかに知られる。古墳の形式は立地する地形から円墳と思われるが、つまびらかではない。大栗川流域における古墳の内で円筒埴輪を伴なう唯一のものである。

 この場所を最初に訪れた時は、すでに夕方かなり薄暗くなってしまっていたのですが、所在地だけでも突き止めてから後日あらためて出直そう、と考えてかなりウロウロしました。が!全く突き止めることができず、写真も撮らずに帰宅しました。
 その後すぐに再訪すればよかったのですが、昨年の冬に訪れてみて呆然!区画整理はほぼ終わり、旧地形は全く残されていませんでした。。。
 平成7年(1995)に発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には残存する古墳として記載されていますし、よく探せば見つかったかもしれなかったのですけどね。
 不覚です。。。

<参考文献>
八王子市史編さん委員会『八王子市史 下巻』
八王子市教育委員会『八王子市遺跡地図』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2019/08/12(月) 03:09:28|
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「大塚周辺に古墳はあったのか」

大塚周辺の上円下方墳?

 前回、八王子市大塚に所在する「日向古墳」と、その所在地である「大塚(丘陵自体が古墳ではないかという言い伝えの残る塚)」について取り上げましたが、昭和59年(1984)に発刊された村下要助著作『生きている八王子地方の歴史』にはなんと!この大塚周辺に存在したという上円下方墳や、「由木大塚西古墳」と呼ばれる前方後円墳についても記されています。
 村下要助氏は地元在住の郷土史家で、同書には、今となっては消滅して見ることのできない、当時残存していたこの地域の古墳や塚について数多く記されています。まだ発掘調査があまり進んでいなかった時代であり、後世に築造された塚や、自然地形を古墳であると誤認されている事例も見られるようなのですが、少なくともこの地域の古墳や塚の存在を詳しく知ることが出来るという点では、大変貴重な書籍です。

 第1章である「古代編」の「由木大塚は、わが国最大の底部幅を持つ円墳」の項では、大塚の丘陵の北側に存在したという上円下方墳について、次のように記されています。

 (前略)北側の下方上円墳も底部幅三、四十メートルに見えるが、惜しいことに昭和六十年頃、道路となって消えるという。西南武蔵特有の葺石はなく、ハニワもないような古墳であり、考古学者の馬鹿にするところであろうが、掘り出して調べなくとも何か調査の方法もあろう。(『生きている八王子地方の歴史』26ページ)

 埋葬施設や周溝等の記述は見られないようですが、底部幅三、四十メートルの上円下方墳が本当に存在したとすれば驚きです。
 古墳の所在地については、巻頭の「由木地区要図」に位置が記されており、戦後の空中写真と照らし合わせることで、おおよその所在地は特定できます。おそらくは、画像の周辺が、上円下方墳の所在地周辺であると思われます。
 この場所は、野猿街道の新道によりなだらかに整地されており、古墳らしき痕跡は全く見ることはできませんが、奥に見える宅地となっている場所は、両隣の敷地よりも高くなっているようです。
 旧地形の痕跡なのかもしれませんが、古墳と関係があるかのどうかは不明です。


大塚北側の塚
 
 画像は、上円下方墳跡地(?)の北西側、野猿街道の旧道沿いに所在する塚です。
 わずかな高まりの上に石造物が建てられています。
 むしろこちらの方が気になってしまったのですが、古墳じゃないかな?


大塚北側の塚

 反対側の、北側から見た塚の様子です。
 塚の名称や由緒などはよくわからなかったのですが、こちらから見ると、いかにも人工的に盛られた塚のように見えます。


大塚北側の塚

 塚上の様子です。
 お堂の中にお地蔵様が2体と「堅牢地神塔」の石碑が祀られています。
 

大塚周辺の上円下方墳?

 上円下方墳跡地(?)から、野猿街道を西に100メートルほどの地点にも、気になる小山がありました。画像ではちょっとわかりにくいのですが、目を凝らしてみると、木々の合間の一番高くなったあたりに祠が祀られているのが見えます。自然地形のようにも見受けられますが、丘陵上に築造された古墳の上に祠が建てられている、なんてことはないのでしょうか。。。


大塚周辺の上円下方墳?

 新道の方から見ると、かなり高さがあるように見えます。
 うーん。やっぱり自然地形でしょうか。。。


大塚周辺の前方後円墳?

 さて、先ほどの上円下方墳に引き続き、『生きている八王子地方の歴史』では「由木大塚西古墳」という名称の、前方後円墳であると想定する古墳について記載されています。
 同署に27ページには上円下方墳の記事に続き、
 その西に、この辺りでいちばん古い形式を取る前方後円墳がある。前方部は戦国初期に人の入るとことろなって、大きく削り取られてはいるが、由緒あるものとみえるので、昔から姿だけは特に残しておくと、今に住む人が言っている。長さ百五、六メートルに計られる四世紀末か五世紀半くらいの出来である。後円部には小祠が祀られており、盗掘にあった様子がない。(『生きている八王子地方の歴史』27ページ)
 そしてさらに、『新編武蔵風土記稿』や『武蔵名勝図会』といった江戸時代の地誌類が、主墳である「大塚」について取り上げていながらも、この前方後円墳を見落としているのは残念である、とも述べています。果たしてこの場所に、前方後円墳が存在したのでしょうか。

 画像は、同書に掲載されている「由木大塚西古墳」の唯一の写真です。
 モノクロの小さな写真ですので、全体像を把握するには少々厳しいところですが、少なくとも古墳の可能性を感じさせる高まりが存在したことは間違いないようです。自然地形であったとしても、確かに前方後円墳と誤認しかねない地形かもしれません。


大塚周辺の前方後円墳?
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=188949&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年(1948)6月9日に米軍により撮影された由木大塚西古墳の所在地と考えられる地点の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
 『生きている八王子地方の歴史』にある、多摩市の稲荷塚古墳から1800メートルほど西側、という記述のみを頼りに、戦後の空中写真で見つけることができた形状です。画像の中央に前方後円墳らしき木立を見ることが出来ます。
 この空中写真からすると、南側が前方部、北側が後円部である前方後円墳のようにも見受けられますが、後円部側の形状が崩れていてはっきりとしません。おそらくは、古墳の西側に、かつて曲がりくねっていた大栗川が流れていたものと思われますので、これが古墳であれば旧大栗川右岸に築造された前方後円墳、ということになります。


大塚周辺の前方後円墳?

 「由木大塚西古墳」の跡地周辺の様子です。
 画像は前方部から後円部を見たところ、という状況です。
 現在は宅地化が進み、古墳らしき痕跡は見られないようなのですが、この道路の左右両側はどちらも高低差があって、この場所だけ一段高く盛り上がっています。おそらくは、かつての地形は南から北に向かって半島状に突き出た舌状台地という状況で、その台地上に前方後円墳が存在したのか、それともこの盛り上がった地形そのものが古墳の痕跡なのか、はたまた単なる自然地形だったのか、とてもとても興味深い場所です。


大塚周辺の前方後円墳?

 この地区の北側、もしこの地形が前方後円墳であれば後円部の先端にあたる場所に、土手状に盛り上がった小道が存在します。宅地造成の際に削り残された旧地形の残存部分かな?とも思える、気になる形状です。


大塚周辺の前方後円墳?

 土手状の小道を30メートルほど進んで振り返ったところです。
 南側から北を見た状況ですが、西側(画像の左側)と比べてかなり高低差があることがわかります。
 ちなみに反対側の、舌状台地の東側にも同様の高低差が見られます。
 う〜ん。古墳、あったんでしょうかね、ここに。。。


大塚周辺の前方後円墳?

 実は、一番楽しみにしていたのはこの地点です。
 「由木大塚西古墳」から北北西に400メートルほどの、やはり丘陵斜面にあたる場所です。
 画像は由木大塚西古墳の空中写真と同じ、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年(1948)6月9日に米軍により撮影されたものです。これもわかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
 やはり、前方後円形の木立が見られ、さらにはその周囲が、周溝の痕跡か?とも思えるような地形となっています。。。


大塚周辺の前方後円墳?

 前方後円形の木立は、だいたいこの奥あたり。。
 丘陵斜面の台地縁辺部、という形状でしょうか。
 周辺は宅地化が進んでいて、やはり地形は大きく変わっているようです。


大塚周辺の前方後円墳?

 小さな石段があったので、登ってみました。


大塚周辺の前方後円墳?

 ここがおそらく、前方後円形の木立の場所と思われます。
 周囲よりも一段高く盛り上がっていて、もしこの場所が古墳であれば、「残存」と呼んでも良いのではないかという印象ですが、埴輪片や葺石、石材といった古墳の痕跡らしきものも見見当たらないようです。。。


大塚周辺の前方後円墳?

 かなり古い墓石が立ち並ぶ墓所が見られます。
 むむむ。怪しい、という感じ。笑。

 結論として、古墳であると断定できる場所を突き止めることはできませんでしたが、『新編武蔵風土記稿』や『武蔵名勝図会』等の江戸時代の地誌類を調べると、この大栗川流域にはかなりの数の塚について記されています。少なくとも現在知られているよりはずっと多くの古墳が存在したのかもしれませんが、それが解明されるのは、まだまだずっと先のことかもしれませんね。。。

<参考文献>
村下要助『生きている八王子地方の歴史』


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