狛江市内は、古くから「狛江百塚」と呼ばれるなど、かつてはかなり多くの古墳が密集して存在したといわれています。
昭和10年(1935)狛江村発刊の『狛江村誌』の著者であり、鳥居龍蔵氏の「武蔵野会」にも属していたという、地元狛江市内の郷土史家である石井正義氏は、昭和初年度に「狛江百塚は墳陵の一にして、此地国造国司の墳墓なり。九十九塚とも車塚とも云う。其の数多く故に百塚と呼称す」として『狛江百塚の記』という手書きの草稿をまとめています。さらにその後、子息である石井千城氏が昭和33年に補訂して、『狛江百塚』としてまとめられています。
狛江の開発が始まった昭和の高度経済成長期以降、多くの古墳は破壊されて消滅。現在残されている古墳は十数基といわれる中、高度経済成長期以前に書かれたこの『狛江百塚』は、その後の市内の古墳の分布調査においても参考資料とされており、失われてしまった狛江古墳群の復元の手掛かりとなっているそうです。
古くは『新編武蔵風土記稿』や『武蔵名勝図会』といった江戸時代の地誌類にも狛江の古墳について多くの記述が見られますが、これらに「百塚」という名称での記載はなく、どうやらこの石井氏の著作が百塚の名の由来となっているようです。
ちなみに私は、この『狛江百塚』をなんとか見られないものかと探してみたのですが、少なくとも図書館に置いてあるような代物ではなく、残念ながら閲覧の夢は叶っていません。ただし、昭和???年刊行の『狛江市史』の中で、わずかながらこの狛江百塚についてふれられています。同書にはもはや聞いたことのない塚の名称がずらりと列挙されており、消滅してしまった多くの古墳の所在地や出土品、由来などが記されているようです。

というわけで。前置きが長くなりましたが、画像は、『狛江百塚』にその名が掲載されている「松本塚」ではないかと考えた塚です。周囲が大きな石で囲まれていてわかりにくいのですが、若干の塚状の高まりが確認できます。
この塚についての情報は、名称以外には全く見つけることができなかったので詳細は不明。最終的に塚の所有者のお宅をお尋ねして奥様にお聞きできたのですが、狛江通りが拡張された頃に造られたものである、という以外に塚の性格や由来は不明で、果たしてこの塚が『狛江百塚』に記載の「松本塚」であるのか、それとも単なる庭の築山であるのか、真相はわかりませんでした。。。

背後から見た塚のようす。
それにしても『狛江百塚』、チャンスがあればお目にかかりたいものです。どう書いてあるんだろう。。。
<参考文献>
狛江市『狛江市史』
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- 2019/09/08(日) 23:11:29|
- 狛江市/狛江古墳群(和泉)
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前回に引き続き、今回も狛江市の古墳最新レポート!ということで、狛江市の遺跡番号48番、狛江市中和泉1丁目の「松原東稲荷塚古墳」の近況です。
平成30年(2013)4月17日の回、平成30年(2018)5月11日の回と2度、この古墳を取り上げていますが、特に前回は、宅地造成の工事のために古墳の西側のアパートが取り壊されて更地となっており、墳丘上の樹木も伐採されて、全貌が見渡せる状況となっていました。
その後、どうなったかなと気になっていたのですが、昨年の東京文化財ウィークの企画事業「狛江の古墳を歩こう」に参加したところ、この古墳もコースに組まれており、見学することができました。
古墳の所在地と道路の境には真新しい塀が造られていますが、路上から見学できる感じ。西側のアパートがあった場所は工事が行われれていました。

その後、画像は今年の春の松原東稲荷塚古墳です。
西側の宅地建設工事も終わったようです。
この工事に伴う発掘調査は行われなかったのかな?という印象ですが、昭和35年(1960)に、当時の狛江町全域で行われた古墳の分布調査によると、本来の規模は径約33m、高さ約4mと推定されています。墳形は円墳とされていますが、帆立貝形の可能性も想定されていたようです。
近年の狛江市は急速に開発が進められており、古墳を取り巻く状況も大きく変わっているようですが、とりあえず、前回の「飯田塚古墳」、今回の「松原東稲荷塚古墳」ともに、壊されずに保存されたようです。
よかったよかった!
【このブログの過去の関連記事】
http://
gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-119.html(2013/04/17 松原東稲荷塚古墳)
http://
gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-896.html(2018/05/11 松原東稲荷塚古墳 その2)
<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
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- 2019/09/06(金) 01:52:49|
- 狛江市/狛江古墳群(和泉)
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今回から、狛江市の古墳最新レポート!ということで、いくつかの古墳を紹介していこうと思います。
狛江市内の古墳は、これまで自分なりに細かく調べて、何度も現地を散策しましたが、近年は多くの古墳について発掘調査が進み、整備も進んで状況に変化が見られます。
昨年、あらためて狛江の古墳を見ておきたいという思いと、学芸員の先生のお話を直接聞きながら見学できるということで、東京文化財ウィークの狛江市の企画事業「狛江の古墳を歩こう」に参加しました。
当日、学芸員の先生にどこの古墳を廻るのかお尋ねしたところ、「飯田塚古墳」の名が出てきて「えええええええええっ!」と叫んでしまいました。笑。
実はこの古墳、狛江市内で唯一お目にかかることができなかった古墳です。数年前に一度、飯田塚の所在地ではないかと推測した個人宅を訪ねてみたことがあるのですが、残念ながらお留守で見学の許可を得られず、しかも敷地内を見渡しても古墳らしき高まりは見受けられず、ひょっとしたらもう壊されてしまったのかな?とすごすごと帰宅しました。
そんな飯田塚古墳を見学できるということで、古墳めぐりの当日はテンションが上がりっぱなしでした。
画像は、飯田塚古墳を南から見たところです。

ちょっと角度を変えて、南東から見た飯田塚古墳です。
古墳めぐりの当日は見学の時間が限られていたので、後日あらためて訪れてみたのですが、現場の方に許可を得て近くでゆっくりと見学することができました。
50mほど西側には「白井塚古墳」が残存しており、2基の古墳は「宮前遺跡」内に所在します。この遺跡は調査の機会が多くないことから詳細はわからないようですが、昭和51年には白井塚古墳の発掘調査が行われており、古墳の周溝に切られる古墳時代前期から中期の住居跡が確認されています。周囲には、古墳時代の集落跡が存在していると推定されているようです。

さらにちょっと角度を変えて、南西から見た飯田塚古墳です。
古墳の位置をグーグルマップで確認しましたが、以前訪ねた個人宅の敷地内ではなく、おそらくは敷地の外の塀沿いにあったのでしょうね。古墳の場所が林の中で、藪になっていたので気がつかずに通り過ぎてしまったのかもしれません。。。

西から見た飯田塚古墳です。
墳丘は東側と西側が削られており、南北に長い形状となっています。

墳丘上の様子です。
鳥居が建てられており、お稲荷さんの祠が祀られています。

ちょっと角度を変えて、南西から見た墳丘上の様子です。

墳丘上には河原石が見られます。
ひょっとしたら埋葬施設に使われた石材で、多摩川から運ばれたものなのでしょうか。。。

古墳に隣接する、第4地点の発掘調査の様子です。
この地点からは遺構、遺物が検出されなかったことから、飯田塚古墳は周溝の外周を含めても径25m以下の規模であると想定されているようです。

その後、年が明けて暖かくなってから再度訪れてみたところ、衝撃的な光景が!すでに周囲は宅地化が進み、細い参道を進んだ奥に、さらに小さくなった飯田塚古墳の姿がわずかに見えます。

お稲荷様も、なんだかちょっと窮屈そうですね。
消滅せずに残されただけでも良しとしなければならないところかもしれません。
せめて説明板が設置されれば良いなあと思うのですが、近隣の方々が古墳があることを認識するのは大事なことだと思うし、文化財保護の意識も高まりますしね。
<参考文献>
狛江市教育委員会『市内遺跡発掘調査報告書Ⅵ 平成26〜29年度』
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- 2019/09/05(木) 02:19:31|
- 狛江市/狛江古墳群(和泉)
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「南入経塚」は、旧保谷市にあたる西東京市住吉町5丁目に所在した塚です。『東京都遺跡地図』には西東京市の遺跡番号7番の塚として登録されています。
残念ながらすでに消滅した塚で、画像は、跡地周辺に建てられた説明板に掲載されていた、往時の南入経塚の姿です。
この塚は、白子川の最源流部微高地の縁辺部に立地しており、昭和の時代頃までは周囲は畑地となっていたものの、墳丘上は雑木や雑草が生い茂っており、塚は良好に残されていたようです。
塚は古くから「弾中塚」、「経塚」と呼ばれていました。江戸時代の地誌、『新編武蔵風土記稿』には「鐘塚 村の北にあり 経塚 村の南にあり 相伝うこの二つの塚は、隣村小榑村妙福寺開山日延聖人改宗の日、経文及び鐘をこのところへ埋め、その上へ塚を築きたる」とあり、昭和10年に書かれた『武蔵保谷村郷土資料』にも「昔は塚の上に一本の古松が生えており、人びとは御経文が埋めてあるのだといった」と記されています。
そして、昭和51年の『保谷の石仏と石塔(一)』では『新編武蔵風土記稿』を引用したうえで、「経塚の由来は、あるいは正しいのかもしれない。しかし、経塚から経文が出土しない限り、断定はできない」としており、さらには昭和62年の『保谷市史 通史編I 考古』で、「各地において古墳の発掘調査に際し、後世になってから、その墳丘を利用して中世の墳墓が設けられたり、経塚が造営されていたりあるいは経文が埋められていたりする例が数多く発見されている。したがって、経塚との伝承があったとしても、実際に経塚、あるいは経石の埋納があったにせよ、それをもってただちに経塚と断定することはできない。だからといって、この塚が古墳であるとも断定はなし難いが、墳丘の形状からみるならば、その可能性は十分にあるといいうる。いずれにしても、それは発掘調査によって決定されるべきであろう。ここではいちおう、古墳(円墳)としておくことにしたい。」と、墳丘の形状や墳頂部に平坦地があることから、古墳ではないかと考えられていたようです。

塚の跡地周辺の現在の様子です。
東西に走る西武池袋線と南北に走る伏見通りの立体交差となっている場所で、塚は発掘調査が行われたのちの平成20年に消滅。現在は、跡地に西東京市により設置された説明板が建てられています。
画像の中央のあたりに説明板が見えますが、実際の塚はこの説明板の西側あたりに存在したようです。
発掘調査の結果、周溝等の付帯施設が発見されなかったことから少なくとも塚は古墳ではなく、また、経典なども出土しなかったことから、経塚であることも確認されなかったようです。
説明板によると、この地がかつての下保谷村と上保谷村の境にあり、また、信仰する宗派の境でもあること、古道(横山道)沿いにあることから、塚それ自体がシンボルとなるような「境塚」であったと考えられているようです。
実際に現地を訪れてみると、塚の跡地は立体交差となっている伏見通りとは微妙にずれているようにも見えるのですが、塚を壊さなくても保存することができたのではないかとも考えると、消滅してしまったことは残念です。。。

塚に建てられていた3基の石塔は、現在は下保谷3丁目の「福泉寺」に移設されています。
画像の右は、元文元年(1736)の「題目塔」、左は建立不詳の「題目馬頭観音塔」で、題目塔には大梵天王・帝釈天王が刻まれており、塚は「天王山」とも呼ばれていたそうです。

天明元年(1781)の「題目塔」です。

おまけ。南入経塚跡地の50〜60メートルほど東側、横山道沿いに残る「題目馬頭観世音塔」です。
天保5年(1834)、明治2年(1869)の下保谷村絵図に「死馬捨場」とある場所に造立されている石塔で、供養のために建てられたと考えられています。
この周辺地域もかなり宅地化が進んでいるようですが、こうして畑地の一角に石塔が残る風景は、なんだか懐かしい感じがしますね。。。
<参考文献>
保谷市『保谷市史〈別冊 1〉保谷の石仏と石塔』
保谷市史編さん委員会『田無市史 第四巻 民俗編』
公民館だより編集室『西東京市公民館だより』
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- 2019/09/02(月) 00:25:05|
- 西東京市•東久留米市の塚
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