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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「三千人塚(石仏塚)」 ー東京都指定史跡ー

「三千人塚(石仏塚)」ー東京都指定史跡ー1

 画像は、府中市矢崎町2丁目に所在する「三千人塚」を南西から見たところです。
 多くの伝承が残されているこの三千人塚は、府中市の遺跡番号11番に登録されており、昭和25年には東京都の旧跡に指定。その後、平成17年には東京都の史跡に指定されています。


「三千人塚(石仏塚)」ー東京都指定史跡ー2

 「三千人塚」は、元弘3年(1333)の分倍河原の合戦で亡くなった三千人の戦死者を埋葬した墳墓であるという伝承が残されており、江戸時代の地誌類にも取り上げられるなど古くから知られていたようです。
 『武蔵名勝図会』には「分倍古戦場」の項に「分倍野は府中駅より南にて、地は府中に属して小名とす。古え数度の合戦ありし処ゆえ、田の中に塚多し」とあり、「読史余論には、廿一日には立川原合戦とあり廿二日は分倍合戦と記す。按ずるにいまの立川柴崎あたりに古戦場もなく、古塚などもなし。又、河原も戦場とする地形ならず。いま本宿村の南裏に古塚あり。かの地を立川原と記されたるべし。」とも書かれています。
 また、この場所は国府時代からの古い刑場のあったところで牢場とも呼ばれていました。この周囲を耕すことはもちろん、塚上にある榎の枝一本でも切ると必ず祟られると言い伝えられており、明治末年頃までは誰も周辺を耕作する者もなく、かなり荒廃していたようです。(ちなみに昭和20年代にも、道路工事のために塚の西側の地ならしを始めた際にその場に居合わせた関係者が卒倒したという話が残されているようです。)

 しかしその後、昭和30年(1955)に地元の郷土史家らが中心となって塚の西側を中心に発掘調査を行い、鎌倉時代から南北朝時代の蔵骨器(火葬骨を納めた骨壺)4個が発見されています。また平成17年(2005)に行われた学術調査により、塚の東側から石にお経の文字を写した「礫石経」が大量に出土しています。これらの、3cmから10cmほどの大きさの礫に書き写された文字は非常に上手な字もあればただ字を真似て書き写したようなものもあり、たくさんの人がお経を書き写したことがわかっています。一緒に出土した陶磁器の破片から、これらの礫石経の年代は江戸時代末期頃と考えられています。


「三千人塚(石仏塚)」ー東京都指定史跡ー3

 画像は北東から見た「三千人塚」です。

 過去の2度の発掘調査により、三千人塚はこれまでいわれてきた分倍河原の合戦の戦死者を祀った塚であるという伝承とは関係がなく、鎌倉時代から室町時代の地元の有力者一族による小さな石積みのお墓が点在していたところが江戸時代に信仰の対象となり、礫石経を用いた石を積んで新たな塚を築いて、今日まで地元の文化財として保存されてきたものであることがわかっています。
 では、真の三千人塚はどこにあったのかということになりますが、猿渡盛厚氏が著書『武蔵府中物語』の中で興味深い地元の古老の証言を紹介しています。同書には「去る明治33、4年頃、馬場大門欅並木の中間の府道工事の際、道路面が凹くて盛土をする必要があって、その土砂を採取するため、此の辺に塚を破壊して土砂を搬んでいって地均ししたのであるが、其の時一つの塚からは、多数の人骨が出て始末に困つたことを覚えていると語られたが、其の咄氏によつて思ふに、それが眞の三千人塚であつたのだろふ。されば田村永年が描いた松並木中にあつたのが眞の三千人塚であつたことが判る。」と書かれています。
 田村永年が描いたという松並木中の塚の正確な所在地はわからなかったのですが、分倍河原の合戦ほどの大きな合戦であれば、1基のみならず数多くの塚が存在したのかもしれませんし、今後の調査により真相が判明してくるのかどうか、とても興味深いところです。。。


「三千人塚(石仏塚)」ー東京都指定史跡ー4

 『東京都遺跡地図』には、径15m、高さ1.5mの規模とされているのですが、それよりは若干小さく感じられるようにも思います。
 敷地内には東京都教育委員会により説明板が設置されており、次のように書かれています。

東京都指定史跡
 三 千 人 塚
       所在地 府中市矢崎町二丁目二十一番二号
       指 定 平成十七年二月二十二日

 三千人塚は、江戸時代の地誌「武蔵名勝図絵」などにも
紹介されている由緒ある塚です。塚の上には、多摩地区最
古となる康元元年(一二五六)の板碑が建ててあり、「板
碑の立つ塚」として、昔から注目されてきました。
 昭和三十年に地元の郷土史家により、この塚の西側が発
掘調査され、鎌倉時代から南北朝時代の蔵骨器(四個)が
出土しています。
 平成十七年に学術調査を行ったところ、塚の東側から、
石にお経の文字を写した「礫石経」が大量に出土しました。
この調査により、現存の塚の高まりは、元弘三年(一三三
三)の分倍河原の合戦で亡くなった三千人の戦死者を埋葬
したという伝承とは関係がなく、江戸時代に造られたもの
であることがわかりました。
 三千人塚は、鎌倉時代から室町時代の在地の有力者一族
による小さな塚(墓)の点在した場所が、江戸時代には信
仰の対象となり、地元の文化財として今日まで大切にされ
てきたといえます
 平成十八年三月一日
                  東京都教育委員会



「三千人塚(石仏塚)」ー東京都指定史跡ー5

 塚上の、多摩地区最古という康元元年(1256)の板碑です。
 

「三千人塚(石仏塚)」ー東京都指定史跡ー6 

 宮町3丁目の「ふるさと府中歴史館」には、三千人塚から出土したという礫石経が展示されています。
 江戸時代後期のもので、「佛」「法」「濁」「是」「却」など法華経の文字が石に角が記されています。


「分倍河原古戦場碑」

 三千人塚から西に800mほどでしょうか。分梅町2丁目の新田川緑道には「分倍河原古戦場碑」が建てられており、「分倍河原古戦場」は東京都の旧跡に指定されています。
 東京都教育委員会により設置された説明板には次のように書かれています。

東京都指定旧跡
   分倍河原古戦場
        所在地 府中市分梅町二ー五九
        指 定 大正八年十月
 文永(一二七四)、弘安(一二八一)の役を経験
した頃、北条執権政治は根底からゆるぎ御家人救
済の方法として徳政令を発布したが、これがか
えって政権破滅の速度を速めた。元弘三年(一三
三三)五月、新田義貞は執権北条高時を鎌倉に攻
めるため、上野、武蔵、越後の兵を率いて上野国
新田庄から一路南下し、所沢地方の小手指ヶ原で
北条方の副将長崎高重、桜田貞国を破り(五月十
一日)、さらに久米川の戦で優位に立った。北条
方は分倍に陣を敷き、北条泰家を総帥として新田
勢を迎撃した。新田勢は敗れて所沢方面に逃れた
が、この時、武蔵国分寺は新田勢のために焼失さ
せられたという。その夜(五月十五日)、新田勢に
三浦義勝をはじめ相模の豪族が多く協力し、十六
日未明再び分倍の北条勢を急襲し、これを破って
一路鎌倉を攻め二十二日に鎌倉幕府は滅亡した。
平成十年三月 建設
              東京都教育委員会



「新田義貞公之像」

 JR南武線と京王線が交わる分倍河原駅南東側のロータリーには「新田義貞公之像」が。
 国府が置かれたというこの地域の歴史上最も大きな出来事は、やっぱり分倍河原の合戦なのかなあと、つくづく感じてしまいます。

 「新田義貞公之像」南側の歩道には石碑が建てられており、次のように刻まれています。

 この像は、新田義貞と北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけて火花を散らし
た分倍河原合戦 を題材に、武士の情熱と夢をモチーフとして制作したものである。
 元弘三年(一三三三)五月八日、上州生品神社(群馬県新田町)の社前で鎌倉
討幕の旗を上げた新田義貞は、越後・甲斐・信濃の同族軍等を糾合、翌九日には
利根川を渡って武蔵国へ入り、千寿王(後の足利義詮)と合流し一路鎌倉を目指
して南下した。一方、幕府軍は入間川で新田軍を阻止するため北上、同月十一日、
両軍は小手指原(所沢市)で遭遇し合戦となった。合戦の勝敗は容易に決しない
まま十二日の久米川の合戦につづき新田軍有利の中で、幕府軍は陣立てのため急
ぎ府中の分倍河原まで退いた。
 同月十五日未明、新田軍は多摩川突破を目指して武蔵国府中を攻め分倍河原に
おいて大いに戦ったが、泰家率いる幕府軍の逆襲にあって大敗を喫し、掘兼(狭
山市)まで敗走した。この時、新田軍の手によって武蔵国分寺の伽藍は灰燼に帰
してしまったといわれている。その夜、掘兼まで後退した焦燥の義貞のもとに相
模の三浦義勝らが相模の国人衆を引き連れて参陣した。幕府の本拠地である相模
の国人衆の加勢に意を強くした義貞は、翌十六日の未明に怒涛の如く分倍河原を
急襲、前日の勝利におごり油断していた幕府軍は、武具を整える間もなく総崩れ
となり、鎌倉の最後の防御線である多摩川は一気に破られ分倍河原合戦は新田軍
の大勝利に終わった。多摩川を越えて鎌倉に進撃した新田軍は、鎌倉で激しい市
街戦を展開し、終に百四十年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させたのである。
 こうした史実を通して市民の郷土史への理解を深めるとともに、これを後世に
伝えるため、日本の中世史上重要な意義を持つ分倍河原合戦ゆかりのモニュメン
トを制作し、この地に設置するものである。
 制作は、我が国彫刻界の重鎭で文化功労者・日本芸術院会員の富永直樹先生、
題字は、府中市長吉野和男の揮毫による。
 この「新田義貞公之像」が永くふるさと府中の歴史を伝え、市民の心に生きつ
づけることを願うものである。
     昭和六十三年五月
                                府中市



 分倍河原合戦に関連する塚は府中市内に数多く存在しますが、この「三千人塚」が経石塚で、「耳塚」や「首塚」は古墳、「胴塚」の所在はわからなくなっているようですし、真の三千人塚がどこかに存在するとなれば、とても気になります。(もちろん、宅地化によって消滅している可能性も高いわけですが。。。)
 まだ未発掘らしき押立町の「亀井塚」や、谷保の「御岳塚」あたりが発掘されると、何が出てくるんだろう。。。
 
<参考文献>
猿渡盛厚『武蔵府中物語』
府中市教育委員会『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』
府中市郷土の森博物館『あるむぜお 74号』
現地説明版


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  1. 2019/09/30(月) 23:59:37|
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「本宿一里塚」

「本宿一里塚」1

 画像は、府中市日新町1丁目に所在する「本宿一里塚」を南から見たところです。

 この本宿一里塚は、江戸からちょうど八里目にあたる一里塚です。『東京都遺跡地図』には府中市の遺跡番号8番の遺跡として登録されており、昭59年(1984)1月27日に遺跡範囲のすべてが「甲州街道本宿一里塚跡」として府中市の史跡として指定史されています。
 現在はNEC府中事業場内にあり、当日は許可を得て見学させていただきました。


「本宿一里塚」2

 右側に見えるのは、昭和43年に当時の日本電気(株)により建てられた「史跡 甲州道中一里塚」の石碑です。この石碑には次のように刻まれています。

 史跡 甲州道中一里塚
 一里塚は、江戸時代、街道一里毎に作られた塚で、明治以降
交通機関の発達などにより、多くは取り崩されている。
その基点は、日本橋で、道の両側に土?を築き榎を植え、行旅の
便利を計ったものである。夏は、緑陰が何よりの休息所となり、
秋には、その実が飢えをしのぎ、又、日本橋からの里程を知らせ
るのに役立ち、旅人に親しまれた。  甲州古街道は、府中宿か
ら、この附近を通り青柳下へ出て多摩川を渡り、日野万願寺へと
続いていた。丁度、ここには、江戸より八里の塚があった。
 よって、塚を復し碑を建て後世に伝える。
 昭和43年11月3日 日本電気株式會社 府中事業所




「本宿一里塚」3

 塚のようすです。
 石碑の説明文からすると、塚は復元されたものなのでしょうか。
 塚上に植えられているマサキの木の根が、塚の表面をびっしりと覆っています。


「本宿一里塚」4

 府中市教育委員会により設置された説明板です。
 劣化が激しくほとんど判読不能です。笑。
 最近の夏の暑さは半端じゃないですからね。
 古い説明板の劣化が早いかもしれません。

 帰宅してから解読したところ、次のように書かれていました。

   府中市指定文化財
 市史跡 甲州街道本宿一里塚跡
         昭和五十九年一月二十七日指定
 一里塚は旅人に里程を知らせるため、街道の両側
に一里(約四キロ)ごとに築かれた塚で、我国では
江戸時代になり制度として確立した。すなわち、慶
長九年(一六〇四)徳川家康は江戸日本橋を起点と
して東海・東山・北陸の三道に一里塚を築かせ、そ
れを全国に普及させた。
 塚上には塚を固めるため榎をはじめ松やけやき等
が植えられ、これが旅人にとっては日ざしをさける
木かげの休所となった。
 この本塾一里塚跡は、慶長年中に整備された甲州
街道の日本橋から八里のところに設けられた一里塚
の跡である。
 昭和五十九年七月
               府中市教育委員会



<参考文献>
現地説明版


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  1. 2019/09/29(日) 07:02:59|
  2. 府中市/その他の古墳・塚
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「八幡石」

「普門寺」

 画像は、日野市日野本町7丁目にある「普門寺」を南から見たところです。

 この普門寺は土淵山観音院と号し、真言宗智山派に属する高幡山明王院金剛寺の末寺に属していたという寺院です。『新編武蔵風土記稿』には、応永五年(1398)に僧義雲が創建し、本尊の聖観音立像が客殿に安置してあったようです。かつては、現在地より西方の本宿と呼ばれる古宿の付近にあったようですが、元亀元年(1570)に現在地に移されているそうです。
 このお寺の境内にはなんと!あの「七ツ塚古墳群」出土の石室の天井石といわれる巨石が安置されています。


「普門寺観音堂」

 日野市の有形文化財に指定されている「普門寺観音堂」です。
 現地説明板には次のように書かれています。

 (前略)観音堂は、もともと普門寺の東方500mにあった西明寺の堂宇として普門寺に移動し、拡張が行われた。その後、幾度か改修がなされたが、本堂新築に伴い1987〜88年(昭和62〜63年)に解体移築工事が行われ、現在地に復元された。改心的な意匠を模索する化政期(1804〜30年)の工匠達の時代性をよく反映している建物で、中世禅宗様建築に特有の扇垂木の軒や八角柱にみられる特異性は特筆されるものである。




「普門寺」

 普門寺の本堂を南から見たところ。
 右手前あたりに「八幡石」が置かれています。
 チロっと見えているのが八幡石の説明板です。


「八幡石」

 「八幡石」です。
 この大石にはある伝説が残されています。
 平成28年(2016)に発刊された『新編日野百物語』には、この伝説について次のように書かれています。

 寛文(1661〜1673)のころ、普門寺のお坊さんがある夜不思議な夢を見ました。夢にのお告げに「昔北条氏照という大名が建てたお社が、今は荒れ果てている。それを探し出してお寺にまつり直しなさい」とありました。告げられたとおり、お坊さんは高倉の西北(今の日野台5丁目付近)にある小さな塚を掘ったところ、大きな石が出てきました。そこで石をのけると、中から鉄の鏃(やじり)や刀剣のようなものが出てきましたが、それらはくさってぼろぼろでした。お坊さんはこの大石を寺へ運ぼうと思い立ち、宿中の人々に頼んで、太い綱をつけて引いてきて貰いました。女衆たちもみんなのためににぎり飯の炊き出しを受け持ちました。運んできた大石は、寺の鎮守の八幡様として大切におまつりしましたが、それからというもの普門寺は大層繁栄したということです。(『新編日野百物語』6〜7ページ)




「八幡石」

 八幡石を接写!

 説明板には
 八幡石 高さ1.4m 幅1.6m 厚さ0.6m
 寛文四年(一六六四)時の住職法印良意が霊夢の告げにより高倉北の塚から普門寺に移し、八幡大菩薩として境内に祀ったものである。
 その大きさ形状等から見て、古墳の石室の天井石と考えられ、その運搬には日野宿中の人たちが賑やかに参加したと伝えられている。

 と書かれています。
 「高倉」という地名は府中市にもあり、高倉古墳群が知られていますが、この八幡石の出土地はやはり七ツ塚古墳群である可能性が高いと考えられているようです。


「八幡石」

 西から見たところ。
 かなり厚みがあるようです。
 車のない時代にこの大石を七ツ塚から運ぶのは、さぞかし大変な労力を必要としたのではないかと想像しますが、この八幡石運搬の遷座祭には、日野宿中の人々が飯の炊き出しをしたりして、大さわぎだったそうです。
 なんか。。。良い時代だったんでしょうね。多分。


「七ツ塚古墳群遠景」

 「七ツ塚古墳群」を見渡したところ。

<参考文献>
日野市史編さん委員会『日野市史 民俗編』
日野宿発見隊『新編日野百物語』
現地説明板


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  1. 2019/09/23(月) 02:41:51|
  2. 日野市/七ッ塚古墳群
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「甲州街道常久一里塚跡」ー府中市指定史跡ー

「甲州街道常久一里塚」

 画像は、府中市清水が丘3丁目の「常久一里塚」を北東から見たところです。『東京都遺跡地図』には府中市の遺跡番号25番に登録されており、昭和59年には府中市の文化財として指定されています。

 「一里塚」は、戦国時代末期にはすでに存在していたようですが、慶長9年(1604)、江戸幕府によって整備が行われ、江戸日本橋を起点として主要街道の両側に1里 (36町=約4km) ごとに塚が築かれました。
 甲州街道は江戸幕府によって整備された五街道のひとつで、東京都中央区から山梨県につながる主要街道です。東西に長い現在の東京都にあってこの甲州街道も東西に走っており、都内では一里塚が最も多い街道です。
 1里目の千代田区隼町から14里目の八王子市裏高尾町の小仏峠までが東京都内にあり、常久一里塚は7里目にあたります。
 塚自体はすでに削平されて消滅しているようですが、跡地には「史跡一里塚」の石碑と府中市教育委員会による説明板が設置されています。

  この地域ではバイパスが完成しており、旧来の「旧甲州街道」と新しい「新甲州街道(新道)」が並行に走っています。この一里塚の場所では、一番北側に現在の新甲州街道(国道20号)が走り、その南に並行して旧甲州街道があり、常久一里塚跡はそのさらに南側の品川道沿いに存在します。
 ということは、この品川道がかつての甲州街道だったというわけか?と意外な感じがします。


「甲州街道常久一里塚」

 跡地には、「史跡一里塚」と刻まれた石碑と、府中市教育委員会により説明板が設置されています。
 説明板には次のように書かれています。

 府中市指定文化財
  市史跡 甲州街道常久一里塚跡

    昭和五十九年一月二十七日指定

 一里塚は旅人に里程を知らせるため、街道の両側に
一里(約四キロ)ごとに築かれた塚で、わが国では江
戸時代になり制度として確立した。すなわち、慶長九
年(一六〇四)徳川家康は江戸日本橋を起点として東
海・東山・北陸の三道に一里塚を築かせ、それを全国
に普及させた。
 塚上には塚を固めるため、榎をはじめ松や欅などが
植えられ、これが旅人にとっては日ざしをさける木か
げの休所となった。
 この常久一里塚跡は、江戸初期に整備された甲州街
道の日本橋から七里のところに設けられた一里塚の跡
と伝えられているものである。府中市内では、このほ
か日進町一丁目の日本電気株式会社府中事業所内にあ
る一里塚跡が「市史跡 甲州街道本宿一里塚跡」とし
て府中市指定文化財となっている。

 平成十五年三月
              府中市教育委員会



<参考文献>
現地説明版


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  1. 2019/09/21(土) 23:24:18|
  2. 府中市/その他の古墳・塚
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「武蔵野市№2遺跡」

「武蔵野市№2遺跡」

 画像は、武蔵野市吉祥寺東町1丁目の武蔵野八幡宮を南から見たところです。

 この神社の御祭神は、誉田別尊・比賣大神・大帯比賣命で、桓武天皇の御代延暦八年坂上田村麿が宇左八幡大社の御分霊を祀ったと伝えられています。
 四代将軍徳川家綱の頃、「明暦の大火」の被害により、創建の地である本郷周辺の住民がこの地へと移住、寛文初年吉祥寺村開村により神社もこの地に遷座、以降村民の氏神様として尊崇されています。
 『東京都遺跡地図』によると、この神社の境内に「武蔵野市№2遺跡」の名称で古墳が1基、登録されています。武蔵野市内で唯一、古墳として登録されている地点です。


「武蔵野市№2遺跡」

 鳥居の左手前には、天明5年(1785)の「神田 御上水 井之頭辨財天」と刻まれた石碑と庚申塔が祀られています。
 道標は、井の頭の弁財天へお参りする人のために建てられたもので、台座を含めて約2メートルと道標としては大きなものです。
 元々は、この武蔵野八幡宮の対角にあったそうですが、大正時代の道路拡張により井之頭通りと吉祥寺通りが交差する旧大踏切際に、さらに昭和44年に武蔵野郷土館(現在の江戸東京たてもの園)へと移設され、平成20年9月8日に当初の場所に近いこの武蔵野八幡宮の境内へと戻ってきたそうです。
 私は、若い頃の何年かをこの吉祥寺で暮らし、この周辺もかなりうろうろしたものですが、全然知らなかったです。。。


「武蔵野市№2遺跡」

 武蔵野八幡宮境内の様子です。
 このどこかに古墳が存在するのでしょうか。

 昭和23年に武蔵野市役所より発行された『武蔵野史』には、社地に存在したという古墳と、出土した蕨手刀に関する記述を見ることができます。

 「(前略)たまたま昭和三年三月、社地地均し工事の際、社殿西側の大欅を掘りおこしたが、この時その根元から古刀一口を掘出した。これは同社に保存されてゐるが、實に立派な蕨手刀である。蕨手刀は奈良時代以前のもので、従來古墳から出土するものであるから、この社地には、もと古墳があつた、と考へて間違ひない。
 古墳の外形は、削平されて殘つてゐないが、恐らく丸塚であつたらう。その上に神社が祀られたものと考へてよい。神社は元來清淨の地に祀られるもので、古墳などは忌むのであるが、それと氣がつかずただ景勝の地であつたがために社地となつたものと思はれる。地均し工事の當時は「僅かに境内の築山位に考へられた程」(社掌小美野龜之助氏の言)低くなつてゐたので、封土はこれまでに幾度も削られたものであらう。
 蕨手刀の出土は、ここに古墳のあつたことの確證としてよいが、これには石室がなく卽ち無石室式の古墳で、武蔵野の古墳例にもれない。
 蕨手刀は柄頭が早蕨に似た一種の曲線をなし鐵製である。柄頭は別につけたものではなく、莖の末端が早蕨形に作られていて、長さの割合に幅が広いのが特徴である。柄には木質の被ひはなく、葛その他の料を以てこれを纒うたものと思はれる。蕨手刀の起源は印度に遡り、我が國へは支那から伝來したので、奈良時代に用ひられたものである。」(『武蔵野史』76〜77ページ)


 かつては、わずかながらも高まりが存在したようですし、蕨手刀が出土したという伝承からしても、かつて社殿西側に存在したという築山はやはり古墳だったのかもしれません。
 画像は、右側が現在の拝殿で、右側の建物は社務所です。『武蔵野史』の記述からすると、画像中央に見える木立のあたりが古墳の跡地となるようです。


「武蔵野市№2遺跡」

 この奥が古墳の所在地でしょうか。
 この場所は立ち入り禁止であるため、内部の写真は撮影できませんでしたが、現地で見学したところでは、古墳らしき高まりは見当たらないようです。


「武蔵野市№2遺跡」

 井の頭通りから見た、古墳の跡地と考えられる木立の様子。


「武蔵野市№2遺跡」
 
 画像は、武蔵野市境5丁目に所在する「武蔵野市立武蔵野ふるさと歴史館」です。平成26年(2014)12月14日に開館という比較的新しい郷土資料館です。
 ここに、武蔵野八幡宮から出土した蕨手刀のレプリカが展示されています。


「武蔵野市№2遺跡」

 画像が、武蔵野八幡宮の蕨手刀のレプリカです。
 現存長は63cm、最大身幅4.3cm、厚さ0.5cmで、解説文には、拝殿建立の際に「本殿裏より出土」とあり、「玉石で囲まれ、砂を敷いた個所から発見された。」と書かれています。製作年代は8世紀代と考えられています。

 蕨手刀は東北地方に多く分布しており、柄頭が蕨の若芽のように渦を巻くデザインから蕨手刀と呼ばれているそうです。

 ちなみに東京都内の蕨手刀といえば、台東区鳥越2丁目の鳥越神社に献納されているものを思い出しますが、この鳥越神社の蕨手刀は、周辺から発掘された可能性は高いと想定されているものの、確実に付近に古墳が存在していて、そこから出土した遺物であるという客観性にも欠けると考えられているようです。
 東北地方では、古墳や墳墓からの出土例が多いようですが、果たしてこの武蔵野八幡宮に古墳が存在したのか、またなぜ武蔵野の地に蕨手刀がもたらされたのか。真相は謎のままです。
 発掘調査が行われれば何かわかるのかもしれませんが。神様が住む場所ですし、なかなか難しいですよね。。。

【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-197.html(2014/02/06 「鳥越古墳」)

<参考文献>
武蔵野市役所『武蔵野史』
武蔵野市史編纂委員会『武蔵野市史』
現地説明板


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  1. 2019/09/18(水) 02:06:26|
  2. 武蔵野市の古墳・塚
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「旧陸軍調布飛行場 白糸台掩体壕」ー府中市指定史跡ー

「旧陸軍調布飛行場 白糸台掩体壕」ー府中市指定史跡ー

 前回に引き続き、今回も東京都内の掩体壕ということで、府中市内に現存する「旧陸軍調布飛行場 白糸台掩体壕」の探訪の記録です。

 この掩体壕は、甲州街道と西武多摩川線が交差する、甲州街道の南側に史跡公園として整備されて保存、公開されています。平成20年(2008)11月27日には府中市の文化財として指定されています。
 画像は、北西から見た白糸台掩体壕です。


「旧陸軍調布飛行場 白糸台掩体壕」ー府中市指定史跡ー

 南西から見た白糸台掩体壕です。

 敷地内に設置された説明板には、当時の様子がかなり詳細に書かれています。
 以下は、説明板に書かれている「調布飛行場」についての解説です。
 
調布飛行場
 調布飛行場は、昭和13(1938年)に東京府によって、東京府北多摩郡多磨村(府中市)・調布町(調布市)・三鷹村(三鷹市)にまたがる約50万坪の広大な土地に計画され、農地や寺院などの民有地を買収する形で進められました。昭和16(1941年)4月に官民共同の飛行場として設置されましたが、同年8月には陸軍専用の飛行場として使用されることになり、帝都防空の拠点として「飛行第244戦隊」が置かれ、三式戦闘機「飛燕」など多数の戦闘機が配備されました。戦争末期には、鹿児島県の知覧基地への中継点として、特攻隊の訓練も行われました。
 終戦後は進駐軍に接収され、飛行場西側の府中市域には、軍に野菜などを供給するための「調布水耕農場」が建設されました。その後、昭和39(1964年)の東京オリンピック開催に伴い、代々木にあったアメリカ軍居住用施設がこの地に移転し、「関東村」と呼ばれました。関東村は、昭和49年(1974年)12月にアメリカ軍より全面返還され、跡地には大学・病院・福祉施設などが建設されました。
 平成13年(2001年)には、「東京都調布飛行場」として正式開港し、現在は伊豆諸島方面への空の玄関口として小型機が運航されています。



「旧陸軍調布飛行場 白糸台掩体壕」ー府中市指定史跡ー

 三鷹市の掩体壕は内部が塞がれていましたが、この白糸台掩体壕は内部も見学することができます。画像は、柵の外から撮影した掩体壕内部の様子です。
 現代の感覚からすると、あまり良い材料が使われていないなという印象ですが、やはり物資が不足した戦争末期の築造ということもあり、粗悪な資材が用いられていたようです。

 以下は、説明板に書かれている「掩体壕」についての解説です。

掩体壕
 アメリカ軍による本土空襲の激化に伴い、残り少ない貴重な戦闘機を空襲から守り、隠しておくための格納施設が、全国の軍用飛行場周辺に作られました。この施設のことを一般的に「掩体壕」と呼んでいます。コンクリート製の屋根のあるものを「有蓋掩体壕」、周囲を土堤で囲ったのみで屋根がなく、上は木や草で作った覆いをかけたものを「無蓋掩体壕」と呼び、区別しています。
 調布飛行場周辺では、昭和19年(1944年)6月から9月にかけて、有蓋約30基・無蓋約30基、あわせて約60基の掩体壕が作られました。建設は陸軍と建設業者が中心となり、地元住民や中学生も作業に動員されました。
 有蓋掩体壕は、①饅頭のように土を盛り、よく固める ②その上に紙やムシロ、セメント袋などを敷き、柱や梁の部分は板枠で型をとる ③鉄筋を置いてコンクリートを流し込む ④コンクリートが固まったら、内部の土を掘り出して上にかぶせ、草木などで偽装する といいう手順で構築されたと考えられます。労力も物資も乏しい戦時下に、粗悪な資材を用いて、きわめて短期間のうちに造られたものである、といえます。また、こうして造られた掩体壕だけでは数が足りず、格納しきれなかった飛行機は、浅間山や多磨霊園、下石原八幡神社、調布市飛田給方面などの樹木の茂った場所に設けられた「分散秘匿地区」まで運ばれました。
 かつて全国に1000基以上作られたといわれる掩体壕ですが、その多くは既に取り壊され、現存しているものも、経年による劣化や開発工事などによって、消滅の危機にあるもが少なくありません。



「旧陸軍調布飛行場 白糸台掩体壕」ー府中市指定史跡ー

 背後から見た白糸台掩体壕。


「旧陸軍調布飛行場 白糸台掩体壕」ー府中市指定史跡ー

 画像は、説明板に掲載されていた、昭和20年3月撮影という無蓋掩体壕の写真です。
 格納されている戦闘機が「飛燕」でしょうか?
 まだまだカメラやフィルムが高価だった時代でしょうし、貴重な写真ですね。

 以下は、説明板に書かれている「掩体壕」についての解説です。

戦闘機「飛燕(ひえん)」
 「飛燕」は、旧陸軍の「キ61 三式戦闘機」の愛称です。川崎航空機製で、ドイツのダイムラーベンツの技術を元に、国産化した液冷エンジンを搭載した、スリムなデザインが特徴の戦闘機です。エンジン出力は、1,100馬力、最高時速590㎞/hで、旧陸軍の戦闘機の中では、速度性能と高空能力に優れており、昭和18年(1943年)に陸軍の主力戦闘機として正式採用されました。アメリカ軍のB29爆撃機による本土空襲が激しくなる中、迎撃が可能な数少ない戦闘機のひとつであり、時には敵機に体当たり攻撃を仕掛けることもありました。



「旧陸軍調布飛行場 白糸台掩体壕」ー府中市指定史跡ー

 説明板に掲載されていた、昭和20年10月撮影という有蓋掩体壕の写真です。
 こちらは終戦後ということになりますね。
 奥に見えるのが「キ-100(五式戦闘機)」、手前が「剣」です。
 プロペラを外された姿が痛々しいです。。。

 以下は、説明板に書かれている「旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕」についての解説です。

旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕
 終戦後、調布飛行場周辺の掩体壕も、多くは取り壊され、現在は三鷹市の都立武蔵野の森公園内に2基(大沢1号・2号掩体壕)、府中市内に2基、計4基の有蓋掩体壕が残るのみとなりました。そのうちの1基が、この旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕(以下、「白糸台掩体壕」といいます。)です。
 白糸台掩体壕は、旧所有者が繰り返し補修を行ってきたことから、これまで良好な状態で保存されてきました。府中市では、平成18年(2006年)の平和都市宣言20周年を機に、白糸台掩体壕の保存・公有地化を決定し、平成19年12月から平成20年3月まで、その構造などを確認するための調査を実施しました。その結果、戦闘機「飛燕」とほぼ同じ規格で造られていたことが判明したほか、排水設備や砂利敷き、誘導路、実際に機体を格納していたことを示す、タイヤの痕跡などが発見され、平成20年(2008年)に市の史跡に指定しました。その後、コンクリートや鉄筋の保存修理工事を経て、平成23(2011)年度に保存整備を実施し、平成24年(2012年)3月より一般公開を開始しました。
 終戦から長い年月が経過し、戦争の記憶が風化していくなか、戦争遺跡を文化財として保存・活用していく気運は全国各地で高まっています。戦争の悲惨さや平和の尊さを次の世代へと語り継いでいくための貴重な歴史遺産として、市民の皆様と共同で白糸台掩体壕を永く保存・活用していくため、今後ともご理解・ご協力をお願い致します。
平成24年3月 府中市教育委員会



「旧陸軍調布飛行場 白糸台掩体壕」ー府中市指定史跡ー

 白糸台掩体壕を見下ろしてみたところ。

 まずいなー。何度目をこすっても巨大な円筒埴輪片にしか見えなくなってきた。
 いよいよなんとかしないと。。。


「朝日町の掩体壕」

 残るもう1基は、朝日町の住宅地にひっそりと残されています。
 私有地内に所在するため遠方からの撮影です。

 この1基は以前訪れた時は草ボウボウの薮で、掩体壕自体はよく見えない、という状況だったのですが、「古墳なうで記事にして公開しよう!」と思い立って、最近あらためて見に行ってみたところ、綺麗に草が刈られていました。
 工場なのか民家なのか、掩体壕と建物が一体化しているように見えますが、いったい内部がどうなっているのかとても興味深いです。。。

<参考文献>
府中市文化スポーツ部ふるさと文化財課『旧陸軍調布飛行場 白糸台掩体壕』
現地説明板


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  1. 2019/09/17(火) 01:06:43|
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「掩体壕 大沢1号2号」

「掩体壕 大沢1号号」

 今回は久しぶりにちょっと脱線!
 東京都内に残る、掩体壕を紹介します。

 第二次世界大戦の戦況が悪化の一途をたどる昭和19年(1945)、アメリカ軍の本土空襲の本格化により、調布飛行場周辺にはコンクリート製の有蓋掩体壕約30基と、土塁と竹でコの字型に造った無蓋掩体壕約30基の合計60基が短期間に造られました。
 掩体壕とは、残り少ない戦闘機を米軍の空襲から守るためのもので、この掩体壕の中に戦闘機を隠しました。都内では三鷹市内に2基、府中市内に2基、練馬区内に1基が残るのみです。(ちなみに日本全国には約100基の有蓋掩体壕が残されているそうです。)

 三鷹市の2基は武蔵野の森公園内に整備、公開されています。
 画像は南側の1基、「掩体壕 大沢1号」です。


「掩体壕 大沢1号号」

 正面から見た大沢1号。
 入り口は塞がれていて、表面には当時掩体壕に格納された「飛燕」のイラストが描かれています。慎重に格納しないと翼の先っちょをぶつけてしまいそうですね。
 周辺には、当時の調布飛行場の門柱や高射砲陣地跡も残されているようですので、戦争遺跡巡りをしてみるのも良いかもしれません。。。


「掩体壕 大沢1号号」

 背後から見た掩体壕の様子。


「掩体壕 大沢1号号」

 敷地内に設置された説明板と、左側は「掩体壕に格納されていた戦闘機 飛燕」と称する、掩体壕に格納された状態の掩体壕と飛燕の、縮尺1/10のモニュメントが設置されています。

 以下、説明板に書かれている「調布飛行場」についてのついての解説です。

調布飛行場
 調布飛行場は、昭和13年(1938年)に、東京府北多摩郡調布町・三鷹村・多磨村(現在の府中市)にまがたる約50万坪の土地に計画され、畑・家屋・寺・墓地などを半強制的に買収して造られました。工事は、昭和14年(1939年)に東京府と逓信省航空局・陸軍省の予算で着工しました。基礎工事には府中刑務所の受刑者や中学生が動員されました。16年の4月には、南北方向に1,000mと東西方向に700mの2本の滑走路と格納庫などが完成しました。初め、予備国際飛行場と航空試験飛行場・陸軍訓練飛行場として使用するはずでしたが、陸軍が全面的に利用することになり、首都防衛のため、戦闘機「飛燕」を中心とした陸軍飛行部隊が配置されました。太平洋戦争の戦況が悪化する昭和20年(1945年)頃には日本本土空襲のため飛来する米軍のB29爆撃機や艦載機の空襲で、飛行場や近くの高射砲陣地が爆撃され死傷者が出ました。またこのころには、特別攻撃隊(特攻隊)の訓練と九州知覧基地への中継地にもなりました。戦後、飛行場の西側の一部には、「進駐軍」(アメリカ占領軍)が消費する野菜を栽培する「水耕農場」が建設されました。
 現在では伊豆大島・新島・神津島への空の玄関口として小型機が運行されています。調布飛行場の周辺には、戦時中に利用していた門柱・掩体壕・高射砲台座などが市民団体の努力で残されています。



「掩体壕 大沢1号号」

 掩体壕と飛燕のモニュメント。

 以下は、説明板に書かれている「飛燕」についての解説です。

掩体壕に格納されていた戦闘機「飛燕」
 「飛燕」は川崎航空機製で、ドイツのダイムラーベンツの技術をもとに、国産化した液冷エンジンを搭載した戦闘機です。
 エンジン出力は1,100馬力で、最高時速590km/hで飛行でき、航空能力に優れ昭和18年(1943年)に陸軍の主力戦闘機として正式採用されました。調布飛行場には、首都防衛のため「飛行第244戦隊」に「飛燕」が配備されました。昭和20年(1945年)、B29爆撃機による本土空襲が激しくなるなか果敢に迎撃しましたが、物量に勝る圧倒的なB29爆撃機の攻撃で戦死者が出て、あまり戦果を挙げることができませんでした。最後は、「体当たり」戦術で抵抗しました。戦況がますます悪化するなか、「本土決戦」のため貴重な飛行機を温存するため「掩体壕」に格納されるようになりました。
 また鹿児島県知覧町の「特攻平和記念館」には、当時の飛燕が保存されています。



「掩体壕 大沢2号号」

 画像は北側の1基、「掩体壕 大沢2号」です。

 こちらにも説明板が設置されていますが、内容は大沢1号の説明板と同様のものであるようです。
 以下は、説明板に書かれている「掩体壕」についての解説です。

掩体壕
 「掩体壕」とは、軍用機を敵の空襲から守るための格納庫で、目的は「本土決戦」に備えて、残り少なく貴重な飛行機を温存するためでした。
 太平洋戦争における戦況が悪化する昭和19年(1944年)頃から、コンクリート製掩体壕約30基(有蓋)と土嚢で造ったコの字型の掩体壕(無蓋)約30基の約60基が短期間に造られました。建設は主に陸軍と建設会社があたり、地元の植木組合や中学生も大勢動員されました。
 掩体壕と飛行場は誘導路で結ばれ、飛行機にロープを結びつけて人力で運びました。調布飛行場周辺には、武蔵野の森公園内の2基と府中市に2基の掩体壕が残っています。武蔵野の森公園の掩体壕は戦争の記憶を残す証拠とし、「平和への語り部」として保存しています。



「掩体壕 大沢2号号」

 西側の路上から見た「掩体壕 大沢2号」です。
 ふと、1号とは向きが逆なんだなあと思います。

 滑走路に向けて整然と並べてしまうと上空からバレてしまうから?なのかもしれませんが、当時の分布図を見ると掩体壕の向きはまちまちで、特に滑走路に向かって造られているわけではなさそうです。


「掩体壕 大沢2号号」

 府中市側にある、武蔵野の森公園サービスセンターには、飛燕のプロペラの実物が展示されています。
 このプロレラ、現在の三鷹市大沢総合グラウンドでなんと、平成21年に発見されたものなのだそうです。平成21年ってたったの10年前ですからね。びっくりしてしまいます。
 そういえば以前、足立区内の古墳巡りの際に、大戦中に撃墜されて墜落したB-29のものであるというタイヤが、農地の片隅にポツリと置かれているのを見学したことがあるのですが、この武蔵野の森公園周辺には草っ原みたいな敷地が残されているし、まだ何か出てくるかも知れませんよね。出てこないかな。。。


「飛ぶ飛行機」

 公園内にちょっとした築山があって、遠方には味の素スタジアム が見えていて、お、「これは滑走路とスタジアム」の良さげな写真が撮れるかな?とパタパタと登ってみたのです。
 ふと、隣の男性は、反対方向にカメラを構えているんだなあと思ったその瞬間。背後から、ぶうううううんと飛行機が飛んできました。


「飛ぶ飛行機」

  戦時中もね。きっと生還した飛燕がこんな風に飛行場に帰ってきたんじゃないかと思うんです。国を守るために命を懸けて戦った人たちが、今の日本を取り巻く状況を見たら、どう思うんだろう。。。


「飛ぶ飛行機」

 スタジアムと飛行機。


「飛ぶ飛行機」

 もうすぐ地面だ。


「飛ぶ飛行機」 

 無事に着陸!

 ここは、出山横穴墓群からは目と鼻の先ですしね。
 龍源寺の近藤勇の墓や、近藤勇生家跡、古民家や水車などもあって、見所は満載だと思います!
 
 次回、「白糸台掩体壕」に続く。。。

<参考文献>
武蔵野の森 公園サービスセンター『掩体壕』
現地説明板


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  1. 2019/09/16(月) 03:41:49|
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「浅間神社」

「浅間神社」

 府中市若松町には、古くから「浅間山」と呼ばれる丘陵が存在します。
 この浅間山は、前山・中山・堂山という三つの小さな峰からなり、現在は「浅間山公園」として整備されています。海抜80mと、周囲との標高差は30mほどしかない小さな丘陵ですが、多摩川対岸の多摩丘陵と同様に、古多摩川やその他の河川により周囲が削り取られ、ここだけが独立丘として残ったものと考えられています。
 古くは、近くに人見村があったことから「人見山」と呼ばれており、『新編武蔵風土記稿』によると、平地に突出して塚のような形状であったことから「人見塚」とも呼ばれていたようです。また、堂山と呼ばれる丘の頂上に浅間神社が祀られたことから、「浅間山」と呼ばれるようになっなったともいわれています。

 画像は「堂山」と呼ばれる丘陵を南東から見たところです。


「浅間神社」

 実は、この場所を訪れてから5年近く経ってしまいました(『古墳”なう”』というタイトルどうなのよと)。
 府中市内の古墳や史跡をめぐって散々自転車で走り回った後の夕方、「浅間」の文字が心に引っかかって、なんとな〜く立ち寄りました。もはや足がパンパンで、「くわー!これからこの石段を登るのかョ!」と少々怯みましたが、「いや、浅間神社だし何かあるかもしれないし、写真を撮るなら今がギリギリだし!」と考えて、必死で登りました。笑。

 画像が、石段を登りきった丘陵の頂部で見た光景です。
 「げ。古墳みたいな塚がある。。。」と疲れが吹っ飛びました。


「浅間神社」

 南から見た塚の様子です。
 富士塚というよりも「浅間塚」ということになるでしょうか。

 この浅間神社の祭神は、木花開耶姫命が祀られています。
 毎年4月には、この神社のお祭りが行われているそうです。


「浅間神社」

 この丘の南西方面は分倍河原、北西方面は人見ヶ原と呼ばれる、南北朝時代に足利尊氏と新田義興・義宗兄弟の軍が両朝の命運をかけて戦った古戦場で、周辺地域には、「首塚」や「胴塚」といった合戦の戦死者を祀った塚も数多く存在したようです。深読みすると、ひょっとしたらこの浅間塚も、元々は何か別の由来のある塚を流用した可能性も考えられるかも知れません(古墳を流用した可能性はあまり感じられませんが)。

 当然ながらこの後はどんどん日が暮れて、真っ暗な中を中央線方面まで自転車で帰りました。冬は、暗くなると急に体感温度が落ちるので、自転車はなかなか厳しいのですが、最近はあまり無理はしていません。。。

<参考文献>
現地説明板


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  1. 2019/09/14(土) 23:29:59|
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「駄倉塚古墳(役場前古墳・駄倉1号墳)」その2

「駄倉塚古墳」

 画像は、狛江市中和泉1丁目所在の「駄倉塚古墳」を北東から見たところです。
 『東京都遺跡地図』には44番の古墳として登録されています。

 この古墳は、以前にも一度取り上げていますが、今年の6月頃、「松原東稲荷塚古墳」と「飯田塚古墳」の現況を見学に行った際にこの古墳にも立ち寄りましたので、最新画像ということであらためて紹介しようと思います。

 この駄倉塚古墳は、平成5年(1993)の発掘調査により周溝が確認され、直径40m前後の円墳であると推定されています。周溝からは円筒埴輪が出土しており、5世紀後半の築造と推定されています。
 6月半ばの写真ですので、かなり緑豊かな古墳となっていますね。。。


「駄倉塚古墳」

 駄倉塚古墳は、小田急線狛江駅から徒歩約2分ほどという駅前古墳で、墳丘の南側には隣接して大きなビルが建てられており、今思うとよく残されたものだと感心してしまいます。
 この記事を書いていて気がついたのですが、そういえば説明板が見当たらなかったなあと。ひょっとしてビルの内側とかにあったのかな。。。


「駄倉橋の親柱」

 かつては、この古墳のすぐ横に六郷用水が流れていて、「駄倉橋」という橋が架かっていたそうです。古墳の南側、バス通り沿いの歩道にい「だくらはし」と刻まれた親柱が残されています。

 駄 倉 橋 跡
 六郷用水に架かる駄倉橋がここにありました。
 駄倉橋は、何度か掛け替えられましたが、明治42年
に造られた橋はアーチ橋で、「めがね橋」と呼ばれ人々
に親しまれました。
 六郷用水は、慶長2年(1597)から16年かけて徳川
家康の命により代官小泉次大夫末次によって造られた
灌漑用水路で、多摩川の五本松上流辺りから取り入れ
大田区まで全長約23kmに及びます。
 この辺りの六郷用水は、昭和40年に埋め立てられ、
同時に駄倉橋も道路下に埋め立てられました。
 「だくらはし」と刻まれた親柱がその名残をとどめて
います。



【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-61.html(2012/09/28 「駄倉塚古墳」)

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市文化財調査報告書 第16集 狛江市埋蔵文化財調査概報Ⅱ』


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  1. 2019/09/12(木) 23:35:51|
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「兜塚古墳」ー東京都指定史跡ー

「兜塚古墳」ー東京都指定史跡ー

 画像は、狛江市中和泉3丁目にある「兜塚古墳」を西から見たところです。
 『東京都遺跡地図』には、狛江市の遺跡番号55番として登録されている古墳です。

 この古墳は、昭和35年(1960)に調査にが行われており、径37m、高さ5mの規模の円墳と考えられていました。その後、昭和51年(1976)の調査では、東西径34m、南北系36m、高さ5mであるとされており、この26年間で墳丘は若干小さくなっているようです。
 その後、さらに詳細な調査が行われ、周溝外端まで含めた規模は径約70mとされています。ただし、墳丘南東側の等高線が西側に屈曲することから、帆立貝型前方後円墳の可能性もあるようです。
 「兜塚」という古墳の名称からして、帆立貝型前方後円墳という墳形が現実的なのではないかと思われるのですが、このあたりは、今後の調査の進展により、さらにはっきりしてくると思われます。


「兜塚古墳」ー東京都指定史跡ー

 この古墳は、昭和50年(1975)2月に「東京都指定史跡」に指定され、狛江市により公有化が進められました。周辺は閑静な住宅街として開発が進み、その一角に残されたこの古墳は史跡公園として整備、保存のうえ公開されています。
 ちなみに、公園の入り口の扉はいつも閉じられているようですが、施錠されているわけではなく、いつでも自由に見学して構わないそうです。

 早速、公園内に入ってみましょう。


「兜塚古墳」ー東京都指定史跡ー

 公園を入って左側(西側)には、「都史跡 兜塚古墳」と刻まれた石碑と、狛江市教育委員会により説明板が設置されています。
 説明板には次のように書かれています。

東京都指定史跡
 兜塚古墳
      所在地:狛江市中和泉三ー七四九
      指 定:昭和五〇年二月六日
 兜塚古墳は、昭和六二年(一九八七)と平成七
年(一九九五)に行われた確認調査により、墳丘
の残存径約四三m、周溝外端までの規模約七〇
m、高さ約四mの円墳と考えられます。周溝の一
部の状況から、円墳ではなく帆立貝形の古墳の
可能性も指摘されています。墳丘の本格的な調
査を実施していないため主体部などは良くわかっ
ていませんが、土師器や円筒埴輪が出土してい
ます。円筒埴輪の年代から六世紀前半の築造年
代が考えられています。
 兜塚を含む狛江古墳群は南武蔵で最大規模の
古墳群と推定されていますが、墳丘の形状を留
めているのは僅かで、本古墳は良好な状態で遺
存している貴重な古墳といえます。狛江古墳群
では二ヵ所の主体部が発掘調査され、神人歌舞
画像鏡、鉄製刀身、玉類、金銅製馬具などが出土
した亀塚古墳が有名です。亀塚古墳は五世紀後
半から六世紀初頭ころの狛江古墳群の盟主墳と
考えられますが、兜塚古墳は亀塚古墳の次世代
の盟主墳と考えられています。
平成二二年三月 建設
             東京都教育委員会



「兜塚古墳」ー東京都指定史跡ー

 画像は、兜塚古墳を北西から見たところです。
 狛江市内に残存する古墳の中では、おそらく一番保存状態の良い古墳です。
 どの角度から見てもきちんと円形に見えるという円墳が、東京都内では少ないのです(帆立貝型前方後円墳かもしれませんが)。


「兜塚古墳」ー東京都指定史跡ー

 接写。
 こうして近寄ってみると、古墳の大きさが感じられますね。

 私は、こうした古墳公園が大好きで、野毛大塚古墳なんかは心の底から落ち着くのですが、この兜塚の公園にもゆっくりと腰を下ろせるベンチがあるといいなあと思っているというたわ言。。。


「兜塚古墳」ー東京都指定史跡ー

 墳頂部の様子です。
 さすがにある程度の広さがありますね。


「兜塚古墳」ー東京都指定史跡ー

 墳頂部には三角点の標石が置かれています。
 確か、ここが狛江市内で最も高い場所だとお聞きした記憶があるのですが、ちょっと記憶がおぼろげになってきています。。。


「兜塚古墳」ー東京都指定史跡ー

 墳頂部から北側を見下ろしてみたところです。
 かなり高さがあるのがわかります。
 周溝の痕跡らしき形状が見られます。


「兜塚古墳」ー東京都指定史跡ー

 公園を出て、南西角から見た兜塚古墳の墳丘です。


「兜塚古墳」ー東京都指定史跡ー

 南東から見たところ。
 この素晴らしき古墳が、後世に残されることを祈ります。。。

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅱ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
狛江市教育委員会『兜塚古墳発掘調査報告書』


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  1. 2019/09/09(月) 00:34:53|
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