
「町田市№259遺跡」は、町田市小野路町に所在する遺跡です。
この遺跡については、昭和63年(1988)発行の『東京都遺跡地図』、平成8年(1996)発行の『東京都遺跡地図』、またネットで公開されている最新の『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』ともに、「遺跡の概要」の欄に「丘陵斜面 包蔵地・古墳?」と書かれています。
ただし、平成7年(1995)に発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では、「多摩地区所在の塚」の項で取り上げられており、墳丘は「消滅」と記されています。
画像の坂道を上がった丘陵頂部の周辺が、№259遺跡です。
古墳らしき塚の所在地は不明で消滅に至った経緯も不明と、まったく詳細がわからないのですが、何か痕跡は残されていないものでしょうか。。。

道路を登りきったあたりに、さらに丘陵頂部へ登る小道があったので、登ってみました。
古墳、あるかな?

丘陵頂部の様子。
ものすごい藪になっていたので、突入はしませんでした。
所在地は「丘陵斜面」ということですので、この藪の中ではないのかな、と思いますが、東側の切り通しとなっている道路により削られていたとしたら、もはや跡形もないかもしれませんね。

さらに西側には怪しげな高まりが!
人工的に築造された塚ではなく、大木の存在による高まりなのかもしれませんが、古墳の残骸であるようにも思えます。むむむ。わからない。。。

塚の横には祠が置かれていました。
かつて塚上に祀られていたものが、地震か何かで倒れちゃったのかな?
結局、この塚以外に、古墳ではないかと疑いたくなる地形は確認できず、東京都遺跡地図で「古墳?」とされている塚の痕跡は確認できませんでした。
それにしてもこの地域は急な坂ばっかりで、この頃は小さな折り畳み自転車で走っていたので足はパンパン、気持ちは折れまくって、もうグダグダです。
<参考文献>
多摩考古学研究会「東京都町田市けぞう谷遺跡出土遺物について」『多摩考古15』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2019/10/27(日) 23:42:32|
- 町田市の古墳・塚
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画像は、町田市木曽西4丁目に所在する「木曽一里塚」を南東からみたところです。
野津田町所在の「小野路の一里塚」とともに、町田市内に残る2基のうちの1基で、昭和44年(1969)には町田市の史跡として指定されています。
現地には町田市教育委員会により説明板が設置されており、次のように書かれています。
町田市指定史跡
木曽一里塚
所在地 町田市木曽西四丁目一四番
指 定 一九六九年(昭和四十四年)九月二日
徳川家康は秀忠に命じて慶長九年(一六〇四)に、
日本橋を基点に東海道、東山道、北陸道に一里塚
を築かせ全国に普及させた。その後、付属の街道
である脇往還なども整備された。一里塚は旅行者
の目印として一里(約四キロメートル)の間隔で
道の両側に築かれた塚で、木陰で休憩がとれるよ
うに、榎や松が植えられた。
町田市内には、木曽町、小野路町に一里塚が残
っている。元和三年(一六一七)に徳川家康の遺櫃
が駿河の久能山から日光東照宮へ移されたとき、
東海道の平塚から、厚木、座間、木曽、小野路、
府中と通過した。この道は、後に御尊櫃御成道
(ごそんびつおなりみち)と呼ばれた。一八世紀に
なると関東各地から相模国大山阿夫利神社へ参詣
する大山講が盛んになり、この道も大山道として
利用され、木曽と小野路は宿場町として栄えた。
木曽の一里塚も小野路と同じく道の両側にあった
が、現在は西側のものだけが残り、塚の上には武
蔵御嶽山の大口真神の小祠がある。
二〇一一年二月設置
町田市教育委員会

塚上には「一里塚」の石碑が建てられています。。。

塚の上には御岳の小祠があり、毎年四月には代参の二人が御岳講に出かけているそうです。以前は東側にも塚があったといわれていますので、一里塚であることは間違いないものと思われますが、御岳塚も兼ねているという、実はなかなか変わり種の塚なのかもしれません。
<参考文献>
忠生村村誌編さん委員会『忠生村誌』
現地説明板
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- 2019/10/24(木) 01:38:59|
- 東京の一里塚
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これまで、東京を中心に都心部の古墳や塚を巡ってきました。
言わずと知れた大都会である東京、特に23区内では、すでに多くの遺跡が開発により消滅しています。
江戸期から昭和にかけての地誌類や伝承、地名などから、かなり多くの塚の存在を確認することはできるのですが、残念ながら所在地がまったくわからず、痕跡を見つけることができなかった古墳や塚は少なくありません。
そんな中、失われた古墳や塚の正確な位置を知る手がかりとしてお世話になったのが、明治以降に作成された古地図や、昭和の空中写真です。特に戦後の空中写真は、まだ開発が進む以前の東京の地形を詳細に見ることができ、多くの塚の位置や形状を知るうえで役立ちました。
今や、地域の図書館に足を運ばなくても、ネットで各年代の空中写真を閲覧することができるようになりましたし、便利な時代ですよね。
そんな中、一体この形状はなんだろう?と不思議に思いながらも、正体の分からなかった地形も少なからず存在します。最初の画像も、そんな中の一つです。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1179130&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年(1947)9月8日に米軍により撮影された東京西北部の空中写真です。わかりやすいように周辺を切り取っています。
画像の中央に、まるで前方後円墳を思わせる形状がはっきりと写っています。場所は新宿区市谷本村町5丁目42番地、靖国通り沿いの合羽坂下交差点の北側で、現在は中央大学法科大学院の1号館が建っている場所です。
これ、空中写真を眺めていて偶然見つけたのですが、最初は、「マママママジかよ」とびっくりしました。
『東京都遺跡地図』で確認してもこの場所に古墳は登録されていないようなのですが、南に200mほどの「三栄町遺跡」や「荒木町遺跡」からは発掘調査により埴輪片が出土しており、古墳の推定地とされています。
ひょっとしたらこの地形も前方後円墳の残骸なのかもしれないし…」と半信半疑ながらも調べてみました。

画像は現在の中央大学法科大学院です。
おそらくは、このあたりに前方部が存在したはずです。
段丘の裾のあたりで、周辺は一段高くなっているのですが、中央大学の敷地は削られてしまったのか平らに整地されています。

後円部にあたるところは防衛省の敷地内で、かなり高くなっています。
やはり古墳らしき形状は存在しないようです。
もしこの場所に前方後円墳が存在したのであれば、例えば「××塚」や「××山」などの名称で呼ばれていたとか、また遺物の伝承や祟りの言い伝えのようなものが残されているのではないかと考えましたが、区内の図書館で調べたところではうまく見つけることができませんでした。
最終的に、新宿歴史博物館を訪ねて、学芸員の先生にお聞きしたりと色々調べてたのですが、防衛省の敷地は『東京都遺跡地図』では新宿区の遺跡番号61番の「市谷本村町遺跡」として登録されています。発掘調査も行われており、『尾張藩上屋敷跡遺跡』の名称で報告書が刊行されています。
古墳らしき地形に近いところでは「第5地点」として発掘調査が行われており、これはちょうど後円部の東側の、後円部に重なるか重ならないか、というあたりです。
この調査では、残念ながら古墳に関係する遺構はまったく検出されず、また遺物も採集されなかったようです。
やっぱり古墳じゃないのかな?
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=694946&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和11年(1936)6月11日に陸軍により撮影された同地点の空中写真です。こちらもわかりやすいように周辺を切り取っています。
実は国土地理院ウェブサイトを後日よく見てみると、先の写真よりも11年も古い、昭和11年の写真も公開されているのです。笑。
この時期には、前方後円形の地形は見られないようなので、やはり昭和22年の地形は古墳ではなく、この時期にたまたまなんらかの築山が存在したのか、上空からの光景が偶然前方後円墳のように見えただけなのかもしれません。
結論として、昭和22年の空中写真を見てびっくりして、ワリと一生懸命調べてしまったものの、古墳でもなんでもなかったという、慌て者の私でした。(とほほほ。。。)

画像は、中央大学西側の「合羽坂」です。
この地域の低地は江戸時代には水田地帯で、大小多くの池があったそうです。その池に住むカッパが夜の坂に出てきて通行人を驚かせたことから、カッパ坂と名付けられ、後に「合羽」の字を当てたそうです。
ただし、これは実はカッパではなくカワウソで、ケロリとしてとぼけているカワウソから、架空のカッパが生み出されたものと言われているようです。
『新撰東京名所図会』には「合羽坂は四谷市片町の前より本村町に沿ふて仲之町に上る坂路をいふ。昔時此坂の東南は蓮池と称する大池あり。雨夜など獺しばしば出たりしを、里人誤りて河童と思皮脂より坂の呼名となりしが、後転じて合羽の文字を用ひ来利子といふ。」と書かれています。
ニホンカワウソはすでに絶滅種となっているようですが、渋谷川では明治の始め頃にカワウソがとれたという記録があるそうです。
都内にカワウソなんて、今となってはまったく信じられませんが、栃木県那須町や対馬では目撃例もあるようですし、どこかで生き残っていてくれたらいいなああと切に思います。

坂の上には「合羽坂」の石碑が。
<参考文献>
芳賀善次郎『新宿の散歩道』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
東京都埋蔵文化財センター『尾張藩上屋敷跡遺跡 Ⅲ』
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- 2019/10/19(土) 23:31:04|
- 新宿区の古墳・塚
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「岩戸小川塚」は、狛江市岩戸南2丁目に所在したとされる古墳です。現在は削平されて存在しない古墳で、『東京都遺跡地図』にも未登録となっています。
この古墳は、昭和35年(1960)に当時の狛江町全域で行われた古墳の分布調査時に把握されており、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている『狛江古墳群地名表』には124番の無名の円墳として紹介されています。同書にはこの古墳の当時の現状について「平夷」とあり、また「規模・その他」の項には「台地の南側縁辺寄り」とのみ書かれており、この時点で古墳はすでに削平されて詳細はわからなくなっていたようです。
その後、昭和51年(1976)の調査の際には「現存しない古墳」の項に「1976年の調査時点で現存していないが、その存在が確認できるもの」として「岩戸小川塚古墳」の名称で取り上げられており、「1975年、多摩病院の建設により壊滅した」と書かれています。その後の、平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団により発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にはこの古墳は取り上げられず、『東京都遺跡地図』にも未登録となっています。
画像は現在の多摩病院です。この周辺のどこかに古墳の痕跡が残されていないものでしょうか。

画像は、多摩病院の北側に隣接する岩戸地域センターです。一説には、この岩戸地域センターの場所は塚の所在地であったといわれているようです。
この場所が岩戸小川塚の所在地であるかどうかはわかりませんが、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている『狛江古墳群地名表』には、多摩病院周辺に何基かの無名の古墳の記載が見られます。かなり多くの古墳の存在が存在したのかもしれません。

ちょっと気になったのがこの場所です。岩戸地域センターの東側には、まるで建物の建設時に削り残されたかのような塚状の地形が存在します。
この地形が古墳の残存部分であるのか、それとも単なる築山なのかはよくわかりませんが、とても興味深い形状です。
狛江古墳群中、岩戸の支群に残存する古墳は「土屋塚」と「橋北塚」の2基のみで、和泉や猪方の支群と比べると少ない数となっているようですが、江戸時代の地誌『武蔵名勝図会』では、和泉村、猪方村の塚の数を9基としているのに対して、岩戸村では11基の塚についての記述が見られるようです。つまり、この岩戸面にも当初はかなり多くの古墳が築造されたのではないかと考えられます。
ただし、岩戸地域では、塚の多くが六郷用水に沿うように存在することから、用水を掘った際に出た残土を積み上げた塚であると伝えられてきたようです。岩戸地域の古墳が消滅するスピードが和泉や猪方と比べて速かったのだと仮定すると、岩戸の塚は残土を積み上げたもので、古墳ではないとするこの伝承も一因となっているのかもしれません。。。

築山の南東側には、ひょっとしたら古墳を崩した時に出てきた石材じゃないの?と疑ってしまいたくなるような巨石が置かれているのですが、いや、すべて私の妄想かもしれません。。。
一説には、この多摩病院の付近には、「関下稲荷」と呼ばれる、かつて西組の家々がまつっていたという講中稲荷の祠が鎮座する塚があり、この塚は「大山」と呼ばれていたといわれています。その後の開発により宅地造成工事が行われることとなり、塚は崩されて稲荷は岩戸稲荷に合祀されたようです。
この「大山」は多摩病院の東側にあったといわれているようなので、岩戸公民館の地点の塚とは別物と考えられますが、かつての岩戸小川塚の墳頂部にも稲荷祠が祀られていたといわれており、第二次大戦中にはこの塚の下に防空壕を掘って避難したという伝承も残されています。岩戸小川塚と大山が同一の古墳であるという可能性も考えられるのかもしれません。
<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
狛江市農業協同組合史編纂委員会『狛江市農業協同組合史』
狛江市(企画財政部市史編さん室)『岩戸の民俗』
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- 2019/10/17(木) 23:07:53|
- 狛江市/狛江古墳群(岩戸)
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狛江市岩戸北に所在したとされる古墳が「野屋敷塚」です。
この古墳はすでに墳丘は消滅して存在せず、伝承のみに残されているという古墳で、『東京都遺跡地図』にも未登録となっています。
古くは、59基の古墳が記載されていたという『狛江百塚』に記述があり、「わずかにその形をとどめていた」と記されています。その後、昭和35年(1960)に当時の狛江町全域で行われた古墳の分布調査でもこの古墳は把握されており、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている、分布調査により作成された「狛江古墳群地名表」には、121番に「野屋敷古墳」の名称で取り上げられています。
問題なのがこの野屋敷塚の所在地なのですが、昭和35年の地名表には岩戸1300番地とあり、「中央電力研究所内 台地中央」とされています。しかし、その後の昭和51年(1976)の調査では、岩戸1349番地と記されており、昭和60年(1985)に発行された『狛江市史』には岩戸北4-5と書かれています。
昭和35年調査時の地名表にある所在地の記載の誤りについては、昭和51年調査時の地名表で訂正されているようですし、昭和51年調査の「岩戸1349番地」と昭和60年の『狛江市史』の「岩戸北4-5」は同一地点を指していると思われますので、この野屋敷塚の正確な所在地については、昭和51年の地名表に記載されている表示に信憑性があるように思います。ちなみに『狛江市の古墳(Ⅰ)』の42ページに掲載されている古墳の分布地図にも、野屋敷塚の位置は1349番地あたりに記されているようです。
画像は、旧番地の岩戸1349番地周辺のようすです。古地図と照らし合わせたところでは、画像の右側あたりが野屋敷塚の所在地となりますが、すでに宅地化が進んだこの地域に古墳の痕跡は見られません。
残念ながら、野屋敷塚は消滅してしまっているようです。

念のため、中央電力研究所も訪れてみました。
ぐるりと周囲を一周してみましたが、見渡したところでは古墳の痕跡は残されていないようです。
やはり、昭和35年の地名表の岩戸1300番地の(中央電力研究所内 台地中央)は誤りなのかもしれません。

画像は、野屋敷塚の跡地に近い、岩戸北4丁目に所在する「伊井出森稲荷」です。
この稲荷は「曽我稲荷」とも呼ばれて親しまれており、個人持ちの稲荷ではあるものの、地元の五軒屋組の家々から厚く信仰を寄せられている稲荷です。平成8年に現在地に移されて境内地はかつてよりもかなり狭くなったようですが、昭和の時代までは隣接するマンションの敷地にあり、広い境内地に祀られた社殿は小丘上に祀られていたといわれています。
この小丘が古墳であった可能性も十分に考えられそうなのですが、当初は、かなり近い位置に存在したと考えられる「野屋敷塚」とこの稲荷の関連を考えましたが、どうやらこの社殿が鎮座していたという「小丘」は野屋敷塚とは異なる地点となるようです。

現在の伊井出森稲荷の祠のようすです。
この稲荷の所有者宅には、この家に嫁いできたツルさんという霊感の強い女性がおり、幼少の頃から人の見えないものが見える人であったそうです。
この家に嫁いできてから不思議な夢をみて、伊井掃部頭ゆかりの稲荷を祀るようになり、これ以降、稲荷は伊井出森稲荷と呼ばれるようになりました。ツル氏は明治期から大正初期にかけて、多くの人の身の上相談を受けながら盛んに占いや祈祷を行い、俗に「岩戸の稲荷様」と呼ばれるようになったそうです。
特に占いは大変よく当たると評判だったそうですが、ご縁があれば私もみてもらいたかったです。。。
<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市農業協同組合史編纂委員会『狛江市農業協同組合史』
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- 2019/10/15(火) 23:18:53|
- 狛江市/狛江古墳群(岩戸)
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今回は、甲州街道の四里目にあたる、杉並区下高井戸1丁目に所在したとされる「下高井戸一里塚」です。
この一里塚は、すでに塚は削平されて消滅、石碑や標柱なども残されていないようですが、甲州街道沿いの歩道に杉並区教育委員会による説明板が設置されています。
甲州道中一里塚跡
江戸時代、五街道のひとつであった甲州道中
(街道)は、江戸日本橋を起点として、内藤新宿、
高井戸、府中、八王子、甲府を経て上諏訪に至
り、つぎの下諏訪で中山道に合するようになっ
ていました。
この街道を利用した諸大名は、信州高嶋藩、
同高遠藩、同飯田藩の三藩でした。また甲府に
は、江戸幕府の甲府勤番がおり、幕府諸役人の
往来もありました。
この場所の前方、高速道路下に、日本橋から
数えて四里目(約十六キロメートル)を示す
「一里塚」がありました。
当時の旅人はこの「一里塚」を見て、道程を
知り、駄賃などの支払いをしました。
塚は五間(約九メートル)四方、高さ一丈(約
三メートル)を基準として土を盛り上げて築き、
榎が植えてありました。
昭和五十四年四月一日
杉並区教育委員会

説明板から察するに、画像のあたりに一里塚が(少なくとも2基のうちの1基が)存在したのではないかと思われますが、所在地は現在の甲州街道のど真ん中で、さらには首都高速4号新宿線の高架が走っており、一里塚の痕跡はまったくないようです。
大阪の方で、立体交差の高架の下に、崩されずに残されている古墳の写真をネットで見たことがあるのですけどね。
なかなか難しいですよね。。。
<参考文献>
現地説明版
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- 2019/10/10(木) 00:03:02|
- 東京の一里塚
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画像は、世田谷区松原1丁目に所在する「神道扶桑教」本部(大教庁)を南から見たところです。この神道扶桑教の教会内には、「松原のお富士さん」と呼ばれる富士塚が所在します。

鳥居をくぐって、南から見た境内のようす。
左に見えるのが本殿で、右に富士塚が見えます。
この神道扶桑教は、江戸時代に庶民の間でブームとなった富士講の流れをくむ宗教団体で、明治15年(1882)に明治天皇の勅裁により国家公認の教派神道の一派となり、昭和27年(1952)に包括宗教法人となっています。
当初は、芝区神明町(現在の港区浜松町)に華頂宮旧邸を移築して本殿風に改修し、そこに富士塚を造って教会としましたが、その後、世田谷区松原の現在地に移設。当時、富士塚もこの地に移設されており、高さは約10メートルもある大きなもので、地元では「松原のお富士さん」として知られた存在であったようです。
しかしその後、昭和20年(1945)5月の東京大空襲によりすべて焼失。平成29年(2017)7月9日に、平成の富士塚として復興開山されています。

画像が平成の富士塚「松原のお富士さん」です。
現地の説明板には次のように書かれています。
松原のお富士さん
神道扶桑教富士塚 松原富士遺構
神道扶桑教の起源は元亀三年(一五七二)富士道開祖藤原東覚角行師が
戦国乱世の荒廃した世を救うため「天地平安 萬人安福」を真願として
富士道を開かれたことに遡ります。角行師が御神威を篭めて謹製奉願した
ご神鏡は富士講により代々受け継がれ此処、扶桑教太祠に奉斎されています。
江戸時代には全国各地に多くの富士講が組織され富士山への登拝修行が行われ
ました。明治時代に入り初代管長宍野半が多数に分立していた富士講を統合し
「富士山 日本」を意味する「扶桑」を教団名として明治十五年(一八八二)に
明治天皇の勅裁を賜り「神道扶桑教」を特立いたしました。
当初、扶桑教富士塚は芝神明町(現港区浜松町)に建立されました。
その後、太祠の移転とともに大正八年(一九一九)この地に移設。高さ約10mほどの
立派な富士塚でしたが昭和二十年(一九四五)五月二十五日の東京第三次大空襲に
より羅災し本殿他境内建物が全焼したため、現在は富士山内外八海八大龍神宮
を合わせ斎っています。
廻りに建つ石碑は芝神明町より移設したものです。
神道扶桑教 全国富士講睦

正面から見た松原富士。
表面は富士山の黒ボク石(溶岩)でおおわれており、祠が祀られています。

ちゃんと胎内も設けられています。
う〜ん。いつもながら横穴式石室にしか見えない。。。

境内には、芝神明町から移設されたという多くの石造物が残されています。
<参考文献>
現地説明板
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- 2019/10/09(水) 02:25:17|
- 世田谷区/その他の古墳・塚
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画像は、調布市緑ケ丘1丁目に所在する「下仙川村弁天庚申塚」を南東から見たところです。
「仙川一里塚」の石碑が建てられている、甲州街道の「仙川駅東」交差点から北方に200メートルほど進んだ仙川のほとりの、白百合学園通りのY字路の角に所在します。
庚申祠建立委員会により設置された説明板には次のように書かれています。
下仙川村辨天坂 庚申塚(塔)の由来
所在 緑ケ丘1−1
この庚申塔は、今を遡る三百年程前の宝永元中年(一七〇四)、
武蔵国多摩郡下仙川村宅添の現在地に、村人によって建立されました。
往時は、六十日ごとにめぐってくる庚申の日に、講中の人びとが宿の
当番の家に集まって、飲食を共にして眠らずに過ごすという庚申待ちの
風習がありました。この民間信仰が、仏教の守護神である青面金剛と
結びつき、病魔を払い悪疫を防ぐために村の辻々に塔が建立されたと
云い伝えられています。
石塔の正面に青面金剛の姿と三匹の猿が刻まれ、台座に寄進者九名の
名前がありますが、風化してはっきり読み取れません。
この希少な石塔を露立するに忍びず、ここに祠を建立し先人の風習を
構成に伝承するため、町内各位にご協賛をいただきました。
当時主(浜島和男氏)のご厚意ご協力に対し感謝申し上げます。
平成十七年(二〇〇五年)十二月
庚申祠建立委員会

都内の古墳を散策するにあたって、古墳であるか否かに関わらず「××塚」と塚の名がつくものはひと通り巡ってみているのですが(その存在に気がついた塚のみに限りますが)、分かれ道の小さな塚の上に庚申塔が祀られた「庚申塚」に愛おしさを感じるようになってしまいました。
この下仙川村辨天坂庚申塚は、塚状の高まりは存在しませんが、段丘下に存在していることから、背後の丘が塚のように見えて風情を感じてしまいます。笑。

この庚申塚の東方数十メートルほどの地点には「控塚」と呼ばれる塚があったといわれています。この塚には「みたかきちじょうじへの道」と刻まれた、宝暦4年4月15日建立の道標が立てられていたといわれており、元桜金属の工場があったところが所在地であるということですが、現在はスーパーマーケットとその駐車場の敷地となっており、残念ながらこの道標も塚も失われているようです。。。
<参考文献>
調布史談会『調布市談会誌 第4号』
現地説明版
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- 2019/10/08(火) 01:24:52|
- 調布市/その他の古墳・塚
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今回は、世田谷区給田3丁目に所在したといわれる「新一里塚」の探訪記録です。
この一里塚は、明治3年(1870)に内藤新宿を基点として甲州街道に築造されたという新一里塚で、世田谷区と調布市の市境に近い旧甲州街道沿いの民家の敷地内に、里程標と世田谷区教育委員会による説明板が建てられています。
説明板には次のように書かれています。
里 程 標(新一里塚)
銘 文
(正 面)内藤新宿より三里 品川県
(左側面)内藤新宿より三里 品川県
(背 面)明治三庚午八月 武蔵国多摩郡給田村
(右側面)内藤新宿より三里 品川県
年 代
明治三年(一八七〇)
伝 来
甲州街道には、江戸時代日本橋を基点とした一里塚が、四キ
ロメートルごとに築かれていた。
この里程標は、明治三年に内藤新宿(現新宿御苑内にあった
高遠藩内藤家下屋敷)を基点とした甲州街道に建立された新一
里塚で、記録によれば芝生に覆われた三メートル位の塚の上に
建てられてあったという。
この標石は、上馬一丁目の前田鉄郎氏によって保管されたの
ち、昭和五十一年十二月、同氏から世田谷区立郷土資料館に寄
贈された。その後、同五十九年二月、元位置に近い現在地に復
元した。
碑文にある「品川県」とは、明治二年布告された「府県施政順序
規則」により荏原郡、豊島郡の半分および多摩郡の一部を含めた
地域をいう。なお荏原郡の一部であった現世田谷区の旧井伊領
は「彦根藩」、後に「長浜県」と名付けられたが同五年には東京府
となり品川県はなくなった。
昭和六十年三月
世田谷区教育委員会

民家の門前に建てられた「里程標」と説明板です。

以前、渋谷区幡ヶ谷で発見された、新一里塚の里程標の石碑を紹介したことがありますが、やはりこの碑にも「明治三庚…」と刻まれていましたので、同時期に造られたもので間違い無いようです。。。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-633.html (2016年10月30日号「笹塚」その1)
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-806.html (2017年11月17日号「笹塚」その2)
<参考文献>
現地説明板
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- 2019/10/06(日) 23:29:12|
- 東京の一里塚
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府中市と国立市の境となる、府中市日新町5丁目の住宅街の一角には、1基の塚が残されています。府中市の所有となっている塚の敷地はフェンスで覆われて保存されており、塚上には大きな榎が植えられていて一里塚のような様相を呈していますが、敷地内には説明板や標柱等は存在せず、『東京都遺跡地図』にも登録されていないようです。
画像の、民家と民家の間に見えるフェンス内に、この塚は所在します。
昭和60年に府中市教育委員会より発行された『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・ 堰・橋の名前』の「塚」の項には、この塚は「新一里塚」という名称で掲載されており、「昔の甲州街道ぞいにある塚、榎の大木がある。日本電気構内にある一里塚跡からみて、一里としては距離が短いので”半里塚”かともいう」と書かれています。
「半里塚」とは初めて聞く名称ですが、果たしてここがかつての甲州道中で、半里塚が存在したのでしょうか。

東から見た塚の様子です。
フェンスで覆われた三角地となっている敷地内はわずかに塚状に盛り上がっているようです。
昭和44年(1969)に発行された、原田重久著『国立歳事記』に、この塚に関する記事を見つけることができました。
谷保田圃の、府中市四谷寄りー本宿用水の南側に、一筋の里道が東西に走っている。この道端に榎塚がある。
慶長年間(1596ー1615)時の幕府が始めて江戸から甲州への道路を作ったときは、府中市分倍から谷保田圃の中を通り、西方に至って多摩川を渡り、日野万願寺に抜けていた。
榎の木のある塚は、一里塚の名残りである。三十六町を一里とした道程は、一里塚が目安になっているが、これは、道の両側に各一基ずつ築かれ、その中間に半里塚があった。
これが定められてから九十年ほど後の貞享年中(1684ー88)に、道筋が一部改められた。これは、府中六所宮(大国魂神社)の前を通って、本宿、谷保、立川柴崎に至る段丘上のコースをとっている。現在のハケ上の道がそれである。
現在の甲州街道は、このあと更に道筋を北方に移したいわゆる新道だ。
一理又は半里毎に塚をつくり、そこに榎の木を植えたのは、榎という植物が長期繁茂し、風雪に堪え得る性質をもっていたからだろう。また、旅人が、遠方からこれを眺めて、旅程を按配するに好適な巨樹となったからでもあろう。(『国立歳事記』67~68ページ)
最初に江戸から甲州への道路を造った当時は、多摩川に近い段丘地帯に集落が点在していたことから、ハケ上、ハケ下を縫って、江戸から甲州方面に通じていたそうです。
ということは、この塚が一里塚(半里塚)出会ったとして、「新一里塚」という名称が適当なものであるかはちょっと微妙ですね?
フェンスの内部の様子です。草が生い茂っていてわかりにくいのですが、わずかながらの高まりを見ることができます。
猿渡盛厚著『武蔵府中物語 下巻』610ページには、この塚についての記述が見られ、「本宿南新田にある一本榎塚の如きは、ただ一基のみではあるが、一里塚 としてはっきりした口碑もなく、疑わしいから、それと定めがたい」と書かれています。
また、平成24年度の第1回府中市文化財保護報告会では、委員から「古墳の可能性はむしろ無いですか。こんな位置では無いのでおかしいですか」という意見が出ており、事務局は「可能性もあるかとは思っておりますが」と答えているという様子が議事録に記載されているようです。
この周辺の低地では今のところ古墳は発見されていにようですが、多摩川の対岸である日野市内の低地では、「落川・一の宮遺跡1号古墳」なる六角形墳が確認されています。
果たしてこの塚が古墳である可能性もあり得るのでしょうか。

南東から見た「新一里塚」。
榎の木の存在からして、見た目はとっても一里塚っぽいです。

『国立歳事記』に掲載されていた、往時の一里塚。
昭和の中頃までは、大きな塚が残されていたようです。
それにしても、こんな塚がひっそりと残されているあたりは、東京もまだまだ捨てたもんじゃないですよね。。。
<参考文献>
原田重久著『国立歳事記』
猿渡盛厚『武蔵府中物語 下巻』
府中市教育委員会『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』
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- 2019/10/03(木) 23:43:35|
- 東京の一里塚
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