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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「石経塚」

「石経塚」

 画像は、昭島市中神町1丁目に所在する「石経塚」です。
 『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、塚は今も福厳寺の墓地の裏手の道路沿いに残されています。
 「石経塚」という名称からすると、石に経文を記して供養のために築いた江戸時代ころの塚かな?というイメージですが、この中神町の石経塚については、詳細はわかりませんでした。。。


「石経塚」

 塚上には「石経塚」と刻まれた石碑が建てられています。

<参考文献>
昭島市教育委員会『昭島市の社寺と石造遺物』


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  1. 2019/11/30(土) 01:44:14|
  2. 昭島市の古墳・塚
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「昭島市№32遺跡」

「昭島市№32遺跡」

 東京都教育委員会によりネットで公開されている『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』には、昭島市拝島町5丁目に「昭島市№32遺跡」という名称の塚が登録されています。
 画像は、この「昭島市№32遺跡」ではないかと思われる塚なのですが、あまり確信はありません。以前に職員らしき方に許可を得て見学させていただいたもので、『東京都遺跡地図』、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』ともに残存とされているものの、実際に現地で見学したところでは、直径2mにも満たない、「これが残存?」と思うような小さな塚でした。
 奈良時代か平安時代に築造されたと推定されており、土器が出土しているということ以外には情報がなく、ひょっとしたらかつては大きな塚が存在したのかもしれませんが、詳細はわかりません。塚上には小さな2基の石碑が建てられています。。。

<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2019/11/28(木) 22:49:46|
  2. 昭島市の古墳・塚
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「昭島市№37遺跡(経塚?)」

「昭島市№37遺跡(経塚?)」

 東京都教育委員会によりネットで公開されている『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』によると、昭島市宮沢町には「昭島市№37遺跡」という名称の塚が登録されています。画像はこの「昭島市№37遺跡」の所在地と推定される地点です。
 『東京都遺跡地図』では「消滅」とされており、実際に現地を訪れてみてもすでに塚を見ることはできませんが、跡地とされる地点にはわずかな地膨れがみらるのですが、これが塚の痕跡であるのかどうか、詳細は不明です。

 『多摩地区所在古墳確認調査報告書』の「多摩地区所在の塚一覧」の備考欄には「経塚という云い伝えあり。」と書かれているのですが、かつてはこの地域の北側が「経塚上」、南側が「経塚下」という小字名で呼ばれていたことを考えると、この場所に存在したという「経塚」が地名の由来である可能性も考えられます。

 南に270メートルほどの地点には「経塚下古墳」という7世紀後半の古墳の石室が確認されています。この場所に存在したという経塚が古墳であったという可能性も考えられるところなのですが、詳細はわかりませんでした。。。

<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2019/11/27(水) 23:07:20|
  2. 昭島市の古墳・塚
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「勝負塚」

町田市「勝負塚」

 今回は、ついに見学がかなわなかった塚、ということで、町田市下小山田町に所在する「勝負塚」です。
 『東京都遺跡地図』には、町田市の遺跡番号200番に登録されています。

 現在は、東京国際ゴルフ倶楽部の敷地内に取り込まれているようですが、戦前までは押沼という窪地に桑畑に囲まれて、直径約15メートル、高さ4メートルほどの大きな円墳状の塚が存在しました。戦後の農地改革の際には、塚を取り壊して畑にしようという話が持ち上がったようですが、「白い蛇と刀剣が出土する」という伝承により、塚は残されたそうです。
 その後、昭和35年(1960)に塚を含めた一帯がゴルフ場用地隣、塚の周辺が掘り起こされた際に鎌倉時代の人骨が出土しました。この付近一帯には古戦場の伝説や古道があることから、この人骨は元弘三年(1333)の新田義貞軍による鎌倉攻めの際のどちらかの犠牲者であり、勝負塚は戦死した兵を供養するために造られた塚であるというのが定説となっているようです。

 東京国際ゴルフ場は、この由緒ある塚を残すためにコースの造成計画を変更、コース脇の松林の中に残された勝負塚の塚上には「勝負塚」と刻まれた石碑が建てられているそうです。

 場所がゴルフ場ということで、塚を見学させていただくことはかないませんでしたが(飛んできたゴルフボールが当たったら怖いですしね。笑。)、勝負塚は、画像のどこかに残されているはずです。。。


町田市「勝負塚」

 東京国際ゴルフ倶楽部前の小公園には、「古戦場伝説と勝負塚」と書かれた説明板が設置されており、次のように書かれていました。

 古戦場伝説と勝負塚

伝説豊かな山里
 昭和30年代、この付近で刀傷を負った鎌倉時代の人間の頭蓋骨が
発見され、話題を呼びました。骨は付近一帯に昔から古戦場の伝説や
古道があることから、元弘三年(1333)の新田義貞軍による鎌倉攻
めの際のどちらかの犠牲者(比較的身分の高い武将)ではないかと言
われています。近くにはこのほか、供養塚、勝負塚、大将塚など幾つ
かの塚や、小山田小太郎隠れ穴、ひうち池などの伝説地が伝えられて
います。

新田義貞激戦の地
 鎌倉幕府滅亡時の戦いを記した軍記物語の太平記や梅松論には、新
田義貞軍は苦戦を強いられた分倍河原、関戸の合戦に相次いで勝利し
たあと、「関戸にて一日逗留ありて軍勢の着到つけられるに六十万
七千余騎とぞ記されけり。…ここにて軍勢を三手に別け…云々」と
あり、現在の多摩市役所付近(鐘掛け松の伝承地)で休憩して一夜を
明かし、ここで初めて大軍勢に膨れあがったこと、軍議を開いて翌早
朝からの進攻を三手に分けたことがわかります。そのうちの右翼隊(西
ルート)が小山田の現在地付近に進み、尾根の高台で、それを迎えた
幕府軍と激戦となったことが想像されます。

<参考文献>
町田市教育委員会『町田の民話と伝承 第一集』
現地説明板


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  1. 2019/11/26(火) 23:25:55|
  2. 町田市/その他の古墳・塚
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「野川の不動明王と庚申塚と一里塚」

国分寺市 野川の不動明王と庚申塚1

 野川は、国分寺市恋ヶ窪地域内の湧水に源を発する、国分寺崖線下の東、西元町地区等、数ヶ所から湧出する水を集めて、世田谷区内二子橋近くで多摩川に合流しています。
 三鷹市内では「出山横穴墓群」をはじめとする多くの横穴墓が、また世田谷区内では左岸に「砧中学校古墳群」や「殿山古墳群」が、また右岸には「喜多見古墳群」など多くの高塚古墳が造営されています。
 「野川」の名称の由来は不明であるようですが、「野の川」「武蔵野の川」という意味であると考えられているようです。
 
 画像は、国分寺市南町3丁目の野川沿いに所在する「野川の不動明王と庚申塚」です。


国分寺市 野川の不動明王と庚申塚2

 「庚申塚」と名のつくもので、実際に土で盛られた塚が存在する庚申塚は少なくなっているようですが、この場所にはちゃんと塚が存在します。植え込みに隠れて見えにくいですが、塚には天保三年(1832)の石橋供養塔が造立されています。
 石橋供養塔は、常に人に踏まれている石橋を供養する意味と、石橋を渡って村内に疫病や災いが入り込むのを防ぐ意味があるそうです。
 この塚の向かいの、野川に架かる不動橋は以前は石橋でしたが、この供養塔が造られたころに石橋になったのではないかと考えられているようです。


国分寺市 野川の不動明王と庚申塚3

 右側の庚申塔は、延享二年(1745)二月十八日の記念銘があり、造立者として国分寺村講中と11人の個人名が刻まれています。
 左側の不動明王碑は、村内に疫病や災厄が入り込むのを防ぐ意味で建てられたと伝えられているようですが、いつ誰が造立したのかはわからないようです。この石碑にちなんで、現在の橋の名称が「不動橋」となっています。


国分寺市 野川の不動明王と庚申塚4

 現在の「不動橋」の様子。小さな可愛らしい橋ですね。


国分寺市 一里塚跡1

 庚申塚の南側の国分寺街道添いには一里塚が存在したといわれています。この一里塚についてあまり詳しいことはわからなかったのですが、JR国分寺駅南口に設置された地図にはなんと、一里塚の位置が記されていました。


国分寺市 一里塚跡2

 一里塚の跡地周辺のようすです。痕跡は何も残されていないようですが。。。


国分寺市 一里塚跡3

 ひょっとしたらこの分離帯が一里塚の痕跡なのでしょうか?まさか。。。


国分寺市 一里塚跡4

 バス停も「一里塚」。


国分寺市 一里塚跡5

 交差点も「一里塚」。

<参考文献>
現地説明板


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  1. 2019/11/25(月) 03:19:38|
  2. 小金井市•国分寺市の塚
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「西ヶ原一里塚」ー国指定史跡ー

「西ヶ原一里塚」ー国指定史跡ー

 慶長9年(1604)2月。当時の江戸幕府により、江戸日本橋を基点とした全国の主要街道に一里塚が築かれました。現在の東京23区内では18ヶ所に一里塚が存在しましたが、開発に伴う道路拡張や工事などによりそのほとんどは消滅しており、現在、対になる形で残されているのは、西ヶ原と志村の2ヶ所のみです。

 画像は、北区西ケ原2丁目に所在する「西ケ原一里塚」です。
 右側に見えるのが北側の塚で、左側に見えるのが南側の塚です。南の塚は、「本郷通り」の中央分離帯の一部となって残されています。
 日本橋から数えると、日光御成道では追分一里塚に次ぐ二里目の一里塚です。大正11年3月8日には国史跡に指定されています。


「西ヶ原一里塚」ー国指定史跡ー

 画像は北側の一里塚。
 塚の上には大きな榎の木が植えられています。江戸時代のものは、残念ながら枯れてしまい、今は新たな榎の木が植えられています。塚上には、東京都教育委員会による「西ヶ原一里塚」と「二本榎保存之碑」という2種類の説明板が建てられています。
 説明板によると、都内の日光御成道は現在の本郷通が主要なルートにあたり、岩淵宿から船で川口宿に渡ると鳩ヶ谷・大門・岩槻の各宿場を北上して、幸手宿で日光街道に合流したそうです。将軍が日光東照宮に社参する際の専用街道として使用されたことからこの名称が定着しましたが、岩槻藩主の参勤交代や藩の公用通行路に使われ、「岩槻街道」とも称されました。


「西ヶ原一里塚」ー国指定史跡ー

 北側の一里塚を接写。
 日光御成道の一里目である「本郷追分」と北区赤羽西2丁目に所在したとされる三里目の「稲付」の一里塚は、どちらも消滅して既に存在しません。
 それだけに、この西ヶ原の一里塚が対になる形で2基ともに残されていることは、とても貴重な存在です。


「西ヶ原一里塚」ー国指定史跡ー

 南側の一里塚です。
 中央分離帯の一部が小高く盛り上がっています。


「西ヶ原一里塚」ー国指定史跡ー

 南の塚の前には、「二本榎保存之碑」と刻まれた大正5年6月の記念碑が建てられています。
 大正初期、この西ヶ原の一里塚と榎が東京市電の軌道延長路線上に位置したことから、工事に伴う道路改修工事により撤去されることとなったそうですが、渋沢栄一氏をはじめ東京市長、滝野川町長、地元住民らの尽力により保存されることとなりました。これを記念して、運動に参加した有志者により建てられたのがこの「二本榎保存之碑」です。


「七社神社」

 北側の塚の横には、同じ西ヶ原2丁目に所在する「七社神社」の、昭和9年(1934)造という大きな一の鳥居が建てられています。この道路が神社の参道なのですね。早速参拝に行ってみました。


「七社神社」

 七社神社の二の鳥居です。
 この神社の祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、天児屋根命、伊斯許理度売命、市寸島比売命、品陀別命(応神天皇)、帝中日子命(仲哀天皇)です。旧別当無量寺持であった寛政五年(1793)の火災により古文書類が焼失しており、創立年月日や由来についてはよくわからないようです。
 末社には神明宮、稲荷神社、熊野神社、菅原神社、三峯神社があり、天照大神を祭神とする神明宮は元々この地にあった神社で、七社神社の移転により末社となったものだそうです。江戸時代に西ヶ原村の鎮守だったという七社神社は、無量寺境内であった現在の旧古河庭園内にあったそうで、明治初年の神仏分離により現在地に移されたそうです。


「七社神社」

 拝殿。


「七社神社」

 境内の様子です。
 この神社の北西には、6基の古墳からなる「飛鳥山古墳群」が所在します。武蔵野台地の東端部をなす本郷台の崖線上に立地するこの神社にもかつて古墳が存在したのではないか?と妄想しましたが、古墳らしき痕跡は見当たらないようです。
 説明板によると、この境内から隣地にかけての一部は七社神社裏貝塚として知られた遺跡で、縄文式土器、弥生式土器、土師器などが出土しているようです。


「七社神社」

 元々この場所に祀られていたという神明宮の祠です。
 古墳の上に祀られていた、ということはなかったかな。。。


「七社神社」

 境内に設置された説明板には、「無量寺」とかつての七社神社が描かれた『江戸名所図会』が掲載されていました。

<参考文献>
現地説明版


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  1. 2019/11/22(金) 23:06:57|
  2. 北区/その他の古墳・塚
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「二ツ塚」

梅市「二ツ塚」1

 現在の青梅市駒木町、青梅市と日の出町の境にある、通称「二ツ塚峠」と呼ばれる古道の頂部には、その地名の由来ともなっている「二ツ塚」が所在します。『東京都遺跡地図』には未登録となっているようですが、この塚にまつわる悲しい伝承は現代にも伝えられており、塚は今も地元の人に大切に供養されているようです。
 今回は、この二ツ塚の探訪の記録です。

 画像は、JR青梅駅から徒歩30分ほどでしょうか?「長淵山ハイキングコース」の入口付近の様子です。ここから南に向かって、しばらく山の中を歩きます。


梅市「二ツ塚」2

 こーんな感じで、ハイキングコースというよりは獣道に近いような道を40〜50分ほど歩きます。

 私、古墳探訪はほとんど一人で歩き回っているのですが、この日は実は知人に付き合ってもらって二人で訪れました。この何ヶ月か前に、人気のほとんどないやはり青梅の山の中で、斜面を滑り落ちて酷い目にあったことがありました(まったくあの時は死ぬかと思いました。笑)。誰もいない山の中で怪我でもして動けなくなったらとビビってしまったわけですが、心霊スポットとしても取り上げられているこの二ツ塚が怖くなってしまったこともあったかもしれません。
 帰宅後に何日かして、「撮影した写真にオーブが写っていた」と知人から連絡が来て、後日、見せてもらいましたが、シャボン玉のような円形のオーブがたくさん写っていました。あれは一体なんだったんだろう。。。


青梅市「二ツ塚」3

 途中、倒木があって行く手を阻む感じ。


青梅市「二ツ塚」4

 途中、石がゴロゴロ落ちていて行く手を阻む感じ。


青梅市「二ツ塚」5

 途中、分かれ道が行く手を阻む感じ。


青梅市「二ツ塚」6

 左から来た道と合流。
 「二ツ塚峠」の文字が見えます。
 もうすぐかな?


青梅市「二ツ塚」7

 少し勾配が緩やかになってきました。


青梅市「二ツ塚」8

 少し視界がひらけてきた突き当たりに、それらしき塚が見えます。
 さらに近づいてみます。


青梅市「二ツ塚」9

 立て札が見えるし、きっとここだよ。
 やっと着いた。。。


青梅市「二ツ塚」10

 二ツ塚です。


青梅市「二ツ塚」14

 二ツ塚の由来を記した説明シートが置かれていました。
 これが、二ツ塚に残る悲しき伝承です。

 二ツ塚物語
旧二ツ塚の頂に、小さな二ツの塚があります。
桜の木の根元にあつて、今も花や水が供えられています。
今から何百年もの昔、
この峠の麓に貧しい母と娘が住んでいました。
不幸にして母親は、不治の病にかかりだんだん病も
悪くなり、死の近いことを悟っていました。
ある日のこと、見舞に来てくれた村人に、
母親はこんなことをお願いしました。
「わしはもうすぐ死ぬ。 わしは村の為に何の役に立つ事も
できなかった。だからわしを生きているうちに峠の頂に
埋めておくれ。死んだらこの峠を守るから」
それをきいていた娘は、母を思い、
「私を一緒に埋めておくれ」と涙ながらに頼みました。
しかたなく村人たちは大きな籠に母と娘を一緒に入れて
埋める事にしました。
村人たちは籠を峠の頂に埋め二ツの塚を作って
弔いました。
それ以来二ツ塚と呼ばれ、薄幸の親子を偲んで今も
掃除や土盛りをして供養をしているとのことです。

古の峠の道は変われども
塚となりてぞ今に残れる




青梅市「二ツ塚」11

 言い伝えが史実であるとすれば、塚の性格としては「入定塚」ということになるのかもしれませんが、h発掘調査が行われていないことから塚の性格はわかりません。。
 大きな塚の上にラクダのコブのような2つの小さな塚が乗っている、というかなり興味深い形状をしているようですが、悲しき母娘は今も旅人を見守っているのでしょうか。


青梅市「二ツ塚」12

 二ツ塚の頂部の様子です。
 大きな桜の木が植えられていて、2つの塚の間には石碑が建てられています。桜の木の根が露出してしまっているようすからすると、かつてはもう少し大きな塚だったのかもしれません。


青梅市「二ツ塚」15

 木の幹に取り付けられた木札に、歌が詠まれていました。


青梅市「二ツ塚」13

 帰りは「天狗岩」方向に山を下り、青梅市の郷土博物館を見学してから帰宅。
 それにしても、青梅市内には古墳は残されていないようなのですが、以前取り上げた「鎧塚」や「比丘尼塚」等々、山中に言い伝えの残る大きな塚が数多く残されていて、とても見応えのある地域でした。

 塚にまつわる伝承には、悲しいお話が多いですね。。。

<参考文献>
青梅市教育委員会『青梅を歩く本』
現地説明版


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  1. 2019/11/18(月) 23:37:33|
  2. 青梅市の古墳・塚
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「中宿塚古墳」と「飯田塚古墳」

狛江市「中宿塚古墳」

 今回は、狛江市中和泉に所在する「中宿塚古墳」の探訪の記録です。

 この古墳について、古い文献を調べてみました。
 昭和10年(1935)狛江村発刊の『狛江村誌』の著者であり、鳥居龍蔵氏の「武蔵野会」にも属していたという地元狛江市の郷土史家、石井正義氏は、昭和初年度に「狛江百塚は墳陵の一にして、此地国造国司の墳墓なり。九十九塚とも車塚とも云う。其の数多く故に百塚と呼称す」として『狛江百塚の記』という手書きの草稿をまとめています。そしてさらに子息である石井千城氏が昭和33年に補訂して、『狛江百塚』としてまとめられています。
 私はこの『狛江百塚の記』や『狛江百塚』の実物にはいまだにお目にかかったことがないのですが、昭和60年に狛江市史編さん委員会により発行された『狛江市史』で、この『狛江百塚』についてふれられており、この中に「中宿塚」の名称も見られるようです。

 その後、昭和35年(1960)に、狛江市内の古墳の分布調査が行われます。この際、当時残存する古墳の実測調査とともに隠滅した古墳の記録も取られており、この調査結果が、昭和54年(1979)に狛江市教育委員会より発行された『狛江市の古墳(Ⅰ)』に『狛江古墳群地名表』として掲載されています。
 「中宿塚古墳」は、この地名表の29番に記録されているようですが、当時既に古墳の現状は「平夷」とされており、形状も「不明」とされています。

 画像は、南東から見た現在の中宿塚古墳です。
 まだわずかに基底部らしき形状が残されており、この高まりが古墳であれば、立派に「残存」と呼んでも良い状態であると思われます。


狛江市「中宿塚古墳」

 当日は、土地の所有者の方にに許可を得て見学させていただきました。
 この地域の歴史を知る、御歳92歳という土地所有者のおばあさまにお話をお聞きできたのですが、昭和の時代には、狛江市や、大学の職員が見学に来ているそうなので、なんらかの調査が行われたのかもしれません。
 昭和35年の分布調査以降、この中宿塚古墳の名が文献に登場することはなく、多摩地区所在古墳確認調査団より発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にも未掲載で、『東京都遺跡地図』にも登録されていません。
 もちろん、古墳ではなく塚である可能性も考えられるところですし、このあたりは今後の調査の進展に期待ですね。


狛江市「中宿塚古墳」

 墳頂部の様子です。
 歩いてみると地面がフカフカしていました。おそらくは、農地として長年耕作が行われたためであると思われますが、墳丘上は平らにならされているようですし、長年、農地として使用されていたことこが、古墳の存在がいつしか忘れ去られてしまった要因なのかもしれません。


狛江市「中宿塚古墳」

 墳丘の南側には小さな祠が祀られていました。
 古墳との関連は不明ですが、もしかしたらかつて墳丘上に祀られていたのかもしれません。


狛江市「飯田塚古墳」

 この中宿塚と近接する場所には「飯田塚」という古墳が存在したといわれています。
 遺跡番号57番の「飯田塚古墳」とはまた別の、『東京都遺跡地図』には登録されていない古墳です。
 『狛江市農業協同組合史』によると、飯田塚は中宿塚古墳と南北に隣り合った場所に存在しており、塚のように小高くなっていたといわれています。この高まりはすでに消滅しているようなのですが、戦後の空中写真にはこの飯田塚と思しき地形が見られるようです。
  画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年(1948)3月29日に米軍により撮影された空中写真です。わかりやすいように周辺を切り取っています。
 もちろんこれが飯田塚である確証はありませんが、少なくとも民家であるようにも見えません。果たしてこの影が飯田塚古墳なのでしょうか。


狛江市「飯田塚古墳」

 画像の道路の左側が、空中写真に見える古墳らしき地点となります。
 現在もこの道路は、かつて存在した古墳を避けるかのように弧を描いています。

 訪れた日、おばあさまには農作業の手を休めて、貴重なお話をいただきました。
 楽しい時間をありがとうございました!

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市農業協同組合史編纂委員会『狛江市農業協同組合史』


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  1. 2019/11/16(土) 00:17:00|
  2. 狛江市/狛江古墳群(和泉)
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「土屋塚古墳」その2 ―狛江市指定史跡―

狛江市「土屋塚古墳」

 今回も引き続き、狛江市の古墳最新レポート!ということで、狛江市岩戸南1丁目に所在の「土屋塚古墳(駄倉明神塚古墳)その2」です。

 この古墳は過去に一度、平成24年(2012)9月11日の回で取り上げていますが、その後の平成26年に、個人所有であった墳丘の西側半分の敷地が寄付されており、狛江市の市有地となっています。これにより、繁殖してが西側の市道にはみ出した樹木は伐採。市道側の万年塀は撤去されて新たな擁壁が整備され、翌年には狛江市教育委員会による説明板が設置されています。

 画像は、北西からみた、整備後の土屋塚古墳です。


狛江市「土屋塚古墳」

 狛江市は、多くの古墳が密集して築造された地域であるといわれており、古くは「狛江百塚」とも呼ばれていました。現在残存する古墳は十数基を数えるほどになりましたが、本来は70〜80基ほどの古墳が形成されたと推定されており、古墳の位置や立地から、和泉支群、猪方支群、岩戸支群という三つの支群に分割できると考えられています。このうち、岩戸面で確認されている古墳は現状4基と比較的少数であり、このうちの1基が「土屋塚古墳」です。

 画像は、西から見た土屋塚古墳です。
 中央右寄りに、新たに設置された説明板も見えます。
 道路添いの塀が以前よりも低くなったので、見学しやすくなっていますね。
 何よりも綺麗になったし。笑。


狛江市「土屋塚古墳」

 狛江市教育委員会により設置された説明板。
 次のように書かれていました。

狛江市指定文化財(市史跡)
土屋塚古墳
指定年月日 昭和61年1月4日

 土屋塚古墳は、狛江古墳群のうち岩戸の地に残された数少ない
古墳のひとつとして、また墳丘の遺存状態が良好な古墳として、
昭和61年に市史跡に指定されました。
 平成16年には、墳丘の南側から東側にかけて発掘調査が行われ、
古墳築造の時期や当初の形態・規模が明らかになりました。直径
33メートル、高さ4.5メートルを測る円墳で東側に造り出し部を有し、
その外側に幅1.5メートルほどのテラスと幅10メートルほどの周溝が取
り巻くことが判明しました。
 周溝からは、もともと墳頂や墳端に並べられていた埴輪が、
周溝内に転落した状態で出土しました。これら埴輪は、製作技
法から上野(現在の群馬県)に拠点をおく工人集団が、この付
近で採取される粘土で製作したものと考えられます。また、河
内地方を起源とする装飾が施された朝顔型円筒埴輪や鳥付円筒
埴輪なども出土しています。造出部付近からは、土師器の大型
壺、高坏などが出土しており、造出部で墓前祭祀が行われたも
のと考えられます。
 土屋塚古墳は、出土遺物から5世紀第3四半期頃に築造され
た古墳と考えられます。多摩川流域では、5世紀に入ると、そ
れまで古墳が築造されなかった野毛(世田谷区)の地に、野毛
大塚古墳に代表される大型の帆立貝形古墳が築造されはじめま
す。これは畿内における王権の変遷と関連するものと考えられ
ますが、狛江の地でも、野毛地区の動向と連動して、5世紀半
ばから古墳の造営がはじまります。土屋塚古墳は、そのなかで
も比較的早い時期に築造された古墳で、帆立貝形を模した造出
部を有するなど、多摩川流域の古墳文化の動向や、当時の地域
間関係を知るうえで、大変貴重な古墳です。
平成27年3月
                    狛江市教育委員会



狛江市「土屋塚古墳」

 南西から見た土屋塚古墳の様子です。
 この古墳は平成16年(2004)、墳丘の東側にマンションの建設が計画されたことから、建設予定範 囲を対象に発掘調査が行われ、古墳の周溝が検出されています。
 ちなみに報告書には古墳の規模について、外径約55m、内径約36m、墳端テラスを含む墳丘は径約35.2m、高さは4.4mで、墳丘東側の造出部は幅4.4m、長さ2.2mと書かれています。報告書と現地の説明板で、微妙に規模についての数字が違っていることがあるのは、どうしてなんでしょうね?
 土屋塚古墳は5世紀半ばに築造された古墳ということで、狛江古墳群の中でも築造時期が比較的古い古墳であることがわかっています。


狛江市「土屋塚古墳」

 画像は、昨年の東京文化財ウィークの文化財めぐり「狛江の古墳を歩こう」に参加した時の土屋塚古墳です。学芸員の先生のお話を聞くチャンスはなかなかありませんし、私にとっては楽しいひとときです。
 当日は、参加した人たちが真剣にお話に聞き入っていました。


 いずれはこの土屋塚古墳も古墳公園として整備、公開される予定であると聞いています。
 急速に開発の進む狛江市内にあって、亀塚古墳、白井塚古墳、猪方小川塚古墳、そしてこの土屋塚古墳と、多くの古墳が保存、整備されて公開されていくようです。狛江市の文化財課の方々の尽力も大きいことと思います。
 2、3年後には、狛江の古墳の様相も大きく変わっていることと思います。
 心から楽しみにしています。。。

【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-54.html(土屋塚古墳―狛江市指定史跡―)

<参考文献>
狛江市教育委員会『土屋塚古墳発掘調査報告書』
狛江市教育委員会『市内遺跡発掘調査報告書Ⅴ』


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  1. 2019/11/14(木) 00:45:37|
  2. 狛江市/狛江古墳群(岩戸)
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「橋北塚古墳(三角塚古墳)」その2

狛江市「橋北塚古墳(三角塚古墳)」

 画像は、狛江市岩戸北3丁目の「橋北塚古墳」の所在地を南東から見たところです。
 『東京都遺跡地図』には、狛江市の遺跡番号25番に登録されている古墳です。

 この橋北塚古墳は、我が『古墳なう』でも過去に一度掲載しました。
 数年前までは、この場所にはかなり改変された墳丘が残存しており、周辺は宅地化が進んでいる中、この場所だけが深い竹藪となっていました。

 昭和35年(1960)に行われた狛江古墳群の分布調査において、東西径22m、南北径21m、高さは2.85~3mの墳丘が計測されており、この状況は近年まで大きな変化はなかったようですが、その後、平成27年から28年にかけて調査が行われ、周囲の駐車場も含めた古墳の敷地には保育園が建設され、その園庭として墳丘の一部が現状保存されています。


狛江市「橋北塚古墳(三角塚古墳)」

 橋北塚古墳は、確認された周溝から、外径約40m、内径約28m、幅約5mの周溝が取り囲む中にテラスを有する直径約26mの墳丘が存在したと推定されています。
 古墳が所在した場所の保育園の塀には、小さな説明板が設置されており、次のように書かれています。

三角塚園庭
三角塚古墳〈橋北塚古墳〉
 狛江には、5世紀の半ばから6世紀の半ばにかけて、60〜70基ほどの古墳が
築造されたと考えられ、橋北塚古墳(三角塚古墳)も6世紀前半に築造された古墳
であると考えられています。
 この古墳には、墳丘(ふんきゅう)に葺石(ふきいし)はなく、埴輪(はにわ)も
確認されていませんが、平成2年の調査において、古墳を取り巻く周溝(しゅうこう)
の一部が確認されています。墳頂(ふんちょう)付近に円礫(えんれき)が集中して
残されていることが確認され、古墳の主体部は、木棺(もっかん)のまわりを挙大
ほどの丸い石を集めて覆った礫槨(れきかく)であったと考えられています。



狛江市「橋北塚古墳(三角塚古墳)」

墳丘の北側の一部と南側の一部は削平されたようですが、主体部が存在する墳丘の部分が現状保存されているようです。また、保育園の地下には周溝も現状保存されているそうです。

 画像は、保育園の塀の奥に見える橋北塚古墳です。
 いや、古墳というよりは、墳丘上に生えている草ですね。草。


狛江市「橋北塚古墳(三角塚古墳)」

 北東から見た草。

【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-120.html(「橋北塚古墳」その1)

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
狛江市教育委員会『市内遺跡発掘調査報告書Ⅰ』
狛江市教育委員会『市内遺跡発掘調査報告書Ⅵ』


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  1. 2019/11/12(火) 23:21:50|
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