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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「首塚」と「胴塚」

小金井市「神明社」

 これまで、府中市内の古墳や塚を探訪する中で、「分倍河原の合戦」について触れてきました。この合戦は元弘三年(1333)五月、新田義貞と北条幕府との戦いで、新田軍に軍配が上がり幕府は倒れます。(府中市内には「首塚」、「胴塚」、「耳塚」、「三千人塚(石仏塚)」 といった、分倍河原の合戦に関係する伝承が残る古墳や塚が、今も残されています。)そしてその後、20年の時を経た正平七年(1352)二月、「金井原合戦」が起こります。
 建武(1334〜1338)の頃、南朝と北朝がそれぞれ天皇を主張して、二人の天皇が生まれたことにより、天下を二分する勢力争いとなるわけですが、「金井原合戦」はこの南北の争いの中、両軍合わせて五万余騎のいくさで、戦死者は六百人超えたといわれています。

 画像は、小金井市前原町3丁目に所在する「前原神明宮」です。
 この神社の西方に、金井原合戦で戦死した武士を葬ったと言い伝えられる「首塚」、「胴塚」と呼ばれる2基の塚が存在したといわれています。


小金井市「神明社」

 前原神明宮境内のようすです。
 この神社の祭神は天照皇大神で、天正十三年(1585)八月二十一日、豊臣秀吉の時代の創祀と伝えられています。
 何か、首塚や胴塚に関する痕跡が残されていないものかと境内を散策しましたが、何も見当たらないようです。。。


小金井市「梶家墓所」

 梶家墓地です。この墓地にほど近い、野川を望む場所にかつて首塚と胴塚が所在したといわれています。 
 この2基の塚は昭和初期までは残されていたようですが、この頃にはどちらが首塚でどちらが胴塚なのか知る人もなく、このうちの1基は当時発掘が行われたものの何も出土しなかったともいわれています。
 塚には石塔が建てられていたということですが、この石塔は残されていないのでしょうか。


小金井市「梶家墓所」

 墓地内のようすです。
 立ち入ることはできないので、近くで確認することはできません。
 首塚、胴塚に関係する石造物が存在するのでしょうか。


小金井市「梶家墓所」

 同じく墓地内南側の石碑。
 まさかここが首塚の跡地では???


小金井市「梶家墓所」

 墓地内北側の石碑。
 帰宅してから画像を拡大してみてみましたが、詳細は分からず。
 首塚の石塔は残されていないのかもしれません。。。
 

小金井市「六角堂跡」

 戦前にこの一帯は買収され、モーリ農園という農場に転用されて、鶏舎が建つ囲いの中に塚はしばらく残されていたようです。しかしその後、開発により塚は崩され、この一帯は住宅地へと変わりました。
 地元の篤志家の中川春明氏が、野に果てた武士の菩提を弔うため、昭和初期に「新足神社」と命名した祠を建立して、毎年神主を招いて供養していたそうですが、戦後に土地所有者が変わったことにより取り壊され、跡地に六角堂が建てられたものの、このお堂も開発により取り壊されてしまったそうです。

 実は、古くからこの地に住む奥様に、「モーリ農園」を調べてみると何か分かるかもしれないよ、と教えていただき、また六角堂の跡地の場所も教えていただきました。長話におつきあいいただき申し訳なかったです。
 跡地は開発により宅地となっているようです。


小金井市「首塚跡地周辺」

 このあたりなんて、道が円形に左にカーブしていて、塚の跡なのでは?と妄想しましたが、気のせいですよね。。。


小金井市「野川」

 野川です。のどかでいい感じ。
 この川を望むどこかに2基の塚が存在したはずです。


「小金井市文化財センター」

 画像は、小金井市緑町3丁目に所在する小金井市文化財センターです。
 こちらに、首塚付近から出土したとされる蔵骨器が展示されているといううことで、早速見学に行ってみました。


首塚出土蔵骨器

 画像が、首塚の付近から出土したという蔵骨器です。
 鎌倉時代末期の13世紀後半から南北朝時代の14世紀前半のもので、小金井市の登録有形文化財となっています。
 蔵骨器は、火葬した人骨を入れて埋葬するための容器で、昭和10年頃、現在のわかたけ幼稚園の南側にあったモーリ農園から出土しています。出土地点はかつて中丸の首塚と呼ばれた付近で、掘り出したモーリ農園の経営者である毛利竜三氏は、ここを金井原合戦の戦死者の墓であると考え、六角堂を建設して供養してきましたが、昭和40年頃に六角堂が撤去されることになり、蔵骨器は小金井市に寄贈されました。
 蔵骨器は、愛知県知多郡知多町周辺の窯で制作された行基焼と呼ばれる焼き物と推定されており、窯印が二ヶ所に刻印されているそうです。
 この蔵骨器の存在により、「首塚」は少なくとも古墳ではなかったと考えられます。。。


「金井原古戦場の碑」

 小金井街道と霊園通りの分かれ道の三角地に、「金井原古戦場の碑」と小金井市教育委員会による説明板が設置されています。
 まるで塚みたいですね。
 説明板には次のように書かれていました。

 東京都指定旧跡
 金井原古戦場
        所在地 小金井市前原町一帯
           (小金井市前原町三丁目一番地
            前原坂下交差点)
        標 識 大正一五年四月
        指 定 昭和三〇年三月二八日
 金井原古戦場は、南北朝時代に起こった武蔵野合
戦の戦場のひとつで、北朝の足利尊氏と南朝の新田
義興・義宗兄弟の軍勢が激突した場所です。
 室町幕府の内部抗争に端を発した観応の擾乱の最
中、観応二年(正平六年)(一三五一)に北朝の足
利尊氏は、対立していた弟の直義を追討するため、
南朝に降伏する形で講和する「正平一統」を行いま
したが、翌年には南朝方の京都への進攻を機に、こ
の講和は破錠します。時を同じくして、新田義貞の
子、義興・義宗兄弟が、後醍醐天皇の皇子宗良親王
を奉じて、関東で挙兵します。観応三年(正平七
年)(一三五二)閏二月二〇日、新田兄弟は人見原
(府中市)から金井原にかけての一帯で尊氏の軍勢
と戦い、義宗が尊氏を打ち破ります。この時、尊氏
は石浜(台東区)まで敗走しました。この金井原の
地が、現在の小金井市前原町付近と考えられていま
す。
 昭和三四年、小金井市により、霊園通りと小金井
街道の交差点に「史蹟 金井原古戦場」碑が建立さ
レました。
 平成二八年三月 建設
               東京都教育委員会



「金井原古戦場の碑」

 金井原古戦場の碑です。

<参考文献>
皆木繁宏『小金井小次郎伝』
芳須緑『小金井風土記』
小金井市史編さん委員会『小金井市史 通史編』
小金井市史編さん委員会『小金井市誌 Ⅱ 歴史編』
小金井市史編さん委員会『小金井市誌 Ⅵ 今昔ばなし編』
現地説明板


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  1. 2019/12/16(月) 23:51:49|
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「小金井市№23遺跡(法印塚)」

小金井市「神明社」

 今回の『古墳なう』は、小金井市前原町4丁目に所在したとされる「法印塚」です。東京都教育委員会よりネットで公開されている『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』には小金井市の遺跡番号23番に登録されており、築造された時代不明の「塚」とされています。

 さて、この法印塚を語るには、前原町3丁目の神明社に隣接してあったという光明院に触れなければなりません。画像は現在の神明社です。
 光明院は現存していませんが、中世から近世にかけて大きな力を振るった修験道場であったといわれています。明治5年()に修験道は政府によって廃止され、神明社は光明院から分離して独立した神社となり、光明院の当主である良純は名を梶大学と改め、神明社の神官に任命されたそうです。
 地元の人たちは光明院の修行僧のことを「前原の法印様」と呼び、病気の平癒や揉め事の解決を願うときにはその祈祷にすがっていました。また、冬至には火渡りの業を行い、真っ赤に焼けた炭火の上を信者に裸足で渡らせて、身の安全を祈ったそうです。
 この法印様が亡くなると、信者たちが抱きかかえて運び、高さ3メートルほどの塚を築き、遺骸を埋葬したといわれています。


「小金井市№23遺跡(法印塚)」

 画像は、前原町4丁目の「いちょう公園」です。『東京都遺跡地図』に「小金井市№23遺跡」として記載されている地点、つまりは、法印様の遺骸が埋葬されたという「法印塚」の推定地とされる場所です。
 この一帯はかつては茅原で、雑木や赤松の森がところどころに黒ずんで見えるその間に、法印塚がありました。文化6年(1809)に、太田蜀山人が小金井に花見に来て帰りにこの道を通り、府中の鍵屋に泊まって、この法印塚について書き記しているそうです。


「小金井市№23遺跡(法印塚)」

 いちょう公園内部には土塁のような盛り土が見られます。「公園」と名付けられているものの、ちょっと不思議な空間が広がっています。これが何かの遺構なのか、ひょっとして法印塚が崩された際の残土なのか、ずっと疑問でした。
 『多摩地区所在古墳確認調査報告書』の「多摩地区所在の塚一覧」にこの塚が取り上げられており、「消滅」とされていますが、昭和34年(1959)には調査が行われているとあり、「径17〜18m、高2m」という規模まで記されています。ただし、「文献」の欄が空欄であることから報告書は刊行されなかったと考えられ、図書館で調べてみても詳細はわかりません。そこで、小金井市文化財センターを訪ねて学芸員の先生にお尋ねしてみたところ、ようやく詳細がわかってきました。
 現在の「イチョウ公園」と南側のエルフォレストマンションの敷地には戦時中から横河電気小金井工場が存在しており、戦後~昭和40年代末まではその建物を利用して慶應大学工学部の武蔵小金井キャンパスとなっていました。
 昭和40年代末のこの地域に詳しい学芸員の話として、当時すでに塚の痕跡は無く平らな土地だったということで、現在確認できる土地の起伏などは、遺跡とは関係のないものであるということです。
 ちなみに、『東京都遺跡地図』に塚の記号が記されている場所はこの「イチョウ公園」で間違いないようですが、正確な所在地はわからなくなっており、あくまで推定地とされています。


「小金井市№23遺跡(法印塚)」

 エルフォレストマンションの建物と建物の間に、塚状に盛り上がった地形が確認できます。居住者以外は立ち入り禁止であるため、敷地の外から見学するほかないのですが、ひょっとしたら何らかの事情でこの場所に残された法印塚の痕跡なのでは?と妄想していました。が、やはりこの高まりも塚とは無関係であるようです。
 昭和34年(1959)に行われたという調査の内容がわからないので塚の性格は不明ですが、立地から考えて古墳であった可能性は考え難いかもしれません。。。
 
<参考文献>
小金井市誌編さん委員会『小金井今昔ばなし』
芳須緑『小金井風土記』
皆木繁宏『小金井小次郎伝』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』


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  1. 2019/12/12(木) 23:04:14|
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「小金井市内の庚申塚」

寛政六年庚申塔

 小金井市貫井南町の「庚申塚通り」を東から西に歩くと、貫井南町4丁目11番の分かれ道のところで、この寛政六年庚申塔に突き当たります。この分かれ道を左に向かうと、国分寺薬師堂に通じる旧道です。
 庚申塔は、正面に「絶三尸罪」と刻まれた、庚申信仰を伝える希少なもので、左右の側面に道しるべが刻まれています。昭和48年2月には、小金井市の有形民俗文化財に指定されています。


寛政六年庚申塔

 塚の前には、小金井市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。

 寛政六年庚申塔
              高さ七十七cm
   市郷土資料
   指   定 昭和四十八年二月
 この庚申塔は、江戸時代後期寛政六年(一七
九四)に建てられました。正面に「絶三尸罪」
と刻まれ、中国の道教に由来する三尸説をあら
わしており、都内でも珍しく、貴重なものです。
三尸説とは、庚申の日の夜に人が眠ってしまう
と三尸という虫が体から抜け出し、天帝に罪を
告げ、その人が死ぬというものです。そこで、
更新の日の夜は、講中の仲間の人々が飲食を共
にし、眠らずに一夜を明かしたと伝えられてい
ます。
 側面に「右小川・すな川道、左こくぶんじ道」
という道しるべがあり、台座には「貫井村講中」
と刻まれています。
 平成九年二月二十八日
            小金井市教育委員会




寛政六年庚申塔

 庚申塔のようすです。
 石質が良くないためか、銘文はほとんど読めない状況です。
 塔の前にはいつもお供え物があり、地元の人に大切に祀られているようです。


庚申塚通り

 貫井南町4丁目16番の道路沿いには、「庚申塚通り」のプレートが設置されています。ここは、池の上通りと庚申塚通りの分岐点で、池の上通りは南へ向かうと府中に通じ、北に向かうと清戸(現在の清瀬市)に通じる古道です。
 この付近にも、かつては庚申塔が建てられていたようですが、残念ながら現在は撤去されており、この庚申塔が、小金井市文化財センターで12月25日まで行われている企画展「小金井の石造物」で公開されています。


庚申塔

 貫井南町4丁目16番の庚申塔です。
 「庚申塚通り」の名称が、どちらの庚申塔が由来となっているのかは不明ですが、ひょっとしたら両方なのかもしれません。
 最近、分かれ道に建てられた道しるべを兼ねた庚申塚にたまらない魅力を感じてしまっています。。。

<参考文献>
現地説明板


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  1. 2019/12/11(水) 04:35:33|
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「浄土古墳」ー昭島市指定史跡ー

「浄土古墳」ー昭島市指定史跡ー

 画像は、昭島市田中町2丁目と昭島市田中町2丁目の境となる、通称「浄土坂」と呼ばれる道です。多摩川の沖積面から、比高差約5メートルほどの拝島段丘の台地上へと通じる切り通しとなっている道路です。
 この周辺からは、計5基の古墳が発掘調査により確認されており、「浄土古墳群」と呼称されています。

 最初に発見された1号墳は、昭和50年10月の開発に伴う事前調査により確認されたものです。この古墳は、石室の遺存状況が極めて良かったことから昭島市により周辺294㎡が買収され、遺跡公園として整備されて、石室は原位置に保存されています。
 その後、昭和56年(1981)12月に行われた第二次調査により2号墳が、翌57年(1982)に行われた第三次調査により3号墳から5号墳の3基が確認されています。

 画像の「浄土坂」を登り切った西側に、「浄土古墳群1号墳」が保存されている史跡公園の所在地です。


「浄土古墳」ー昭島市指定史跡ー

 この地は古くから「浄土」という字名で呼ばれており、浄土寺という寺院の跡地であると推定されていました。
 江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の項には
浄土 田中村と犬牙せし地にあり、この所に古碑数十基あり、大抵断折して全形のもの少し、文字も??してさだかならず、其中永和四年・貞治元年、或は永享・延文等の文字みゆるものあり、土人の話に古こゝに浄土寺といへる台宗の古刹在しが、其廃跡ゆへに此名ありと云 
と書かれています。
 昭和50年に行われた最初の調査は、その浄土寺があったと推定される一角の宅地化に伴う寺院址存否の確認調査であ理、古墳は、すでに墳丘が削平されて平坦であったことから存在が予測されず、その試掘の際に予期せぬ古墳の発見となったようです。

 画像が、1号墳が保存されている遺跡公園です。


「浄土古墳」ー昭島市指定史跡ー

 この古墳の主体部は、地表面下に玉石を積んでつくった、「竪穴式石室的横穴式石室」と呼ばれるこの地域特有の終末期古墳です。主体部は、全長約6メートル、幅2メートルの長方形で、奥壁は凝灰岩砂岩の一枚岩です。
 石室の天井石の存在が疑問視されており、石材以外のものを使用した可能性があるようで、八王子市の船田古墳などに同様の可能性が指摘されていますが、あきる野市の瀬戸岡古墳群の中には蓋石をのせたものも存在しています。墳丘は低い封土の存在が考えられているものの、周溝等は確認されていないようです。築造は7世紀後半と推定されています。

 細長い河原石が積み上げられた側壁は5〜7段が残存していたそうです。
 石室は、石積みの上部が露出するような形で保存されたそうですが、現状は形状もよくわからない状況で、石材が散乱しています。これは、公園内の清掃が行われる際に、石材が公園の隅に打ち捨てられてしまったのだそうです。状況を知らない人が良かれと思ってしたこととは思いますが、なんとか復元して良い公開の方法がないものかと思います。。。


「浄土古墳」ー昭島市指定史跡ー

 これが取り除かれてしまった石材ですね。多分。。。


「浄土古墳」ー昭島市指定史跡ー

 公園内には「郷土古墳発掘時のようす」という説明板が設置されており、1号墳、4号墳、5号墳の主体部の形状を見ることができます。


「浄土古墳」ー昭島市指定史跡ー

 昭島市指定史跡 浄土古墳(1号墳)
 浄土1号墳は、「浄土寺址」と伝承されるこの地から、昭和50年(一九五七)に発見され、市史跡として埋蔵保存されている。石室は地表下につくられた、横穴式石室。
 規模は、長さ5m、床面の幅65〜100cm、胴張する平面形。奥壁は一枚石を用い、側壁は河原石が5〜6段、せりだし状に小口積され、入口も石でふさがれている。
 天井や周溝は不明であるが、低い盛り土があったと思われる。内部からは金銅製耳飾り一対が発見された。
 また、昭和56年(一九八一)には、周辺から4基の小石室が発見され、浄土古墳群と呼ばれている。この古墳群は、7世紀後半の築造とされ、類例はあきる野市瀬戸岡古墳群などにみられ、多摩地域の特徴的な終末期古墳である。
 平成18年3月 昭島市教育委員会


 石室の全長は、報告書では6メートル、説明板では5メートルになっているのですが、どちらかが間違いなのでしょうか。。。


昭島市「経塚下古墳」

 画像は、同じ公園内に移築された「経塚下古墳」が保存されている地点です。これは、昭島市教育委員会発行の『東京都昭島市田中町浄土古墳』という報告書の5ページに掲載の「遺跡測量図」に「経塚下古墳移築地」とはっきり書かれていますので、この場所で間違いないと思われます。
 ちなみにこの日は草ボウボウで、よくわかりませんでした。
 そしてもう1基、浄土古墳群4号墳もこの公園内のどこかに移築されているはずで、『昭島市浄土古墳群』には「4号墳を1号墳の東の空き地に移築した」とあり、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にも「公園に移築して保存」という記述が見られます。
 実は今年、東京都文化財ウィークの文化財講演会、「考古学からみた多摩川 中流域と昭島の歴史」に参加して、和田哲先生のお話を聞くことができました。和田先生もやはり、1号墳ともう1基、小石室を移築した、とおっしゃっておられました。それで、講演会終了後にこの場所を再訪してみたわけなのですが、やはりこの小石室の保存場所はよくわかりませんでした。。。

<参考文献>
昭島市教育委員会『東京都昭島市田中町浄土古墳』
昭島市教育委員会『昭島市浄土古墳群』
昭島市史編さん委員会『昭島市史』
昭島市教育委員会『考古学からみた昭島市』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
現地説明板


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  1. 2019/12/09(月) 23:46:12|
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「昭島市№21遺跡(広福寺台古墳)」

「昭島市№21遺跡(広福寺台古墳)」

 昭島市内には、前回の直刀出土地点とは別にもう1ヶ所、直刀の出土が伝えられる地点が存在します。『東京都遺跡地図』には昭島市の遺跡番号21番に登録されている古墳で、昭和53年に発行された『昭島市史』には「広福寺台古墳」の名称で紹介されています。

 『昭島市史』によると、ゴボウの収穫中に地下1.2~1.3mの位置に河原石を敷いた穴4個が発見され、その穴の一つに大石の置かれたものがあり、その大石の下に直刀一口を素焼きの茶碗2~3個があったそうです。茶碗は残念ながら捨てられてしまったそうですが、直刀は今も広福寺に保管されているそうです。出土地点は多摩川低地に突出する広福寺台のほぼ中央で、付近には縄文式土器、土師器、須恵器が散乱していたようです。
 『昭島市史』では、古墳であるという決め手には欠けるものの、経塚下古墳と比較したときに河原石積の小規模石室が想定できることから、墳丘の存在しない石室のみの古墳だったのではないかと推定しています。


「昭島市№21遺跡(広福寺台古墳)」

 古墳が存在する広福寺台を低地から見上げたところです。かなり段差があることがわかります。
 見学の際の表面観察では、古墳らしき高まりはやはり存在しないようでしたが、石室が発見された位置が地下1.2~1.3mという報告からすると、現在も地中に石室が残されている可能性は高そうです。また、古墳は1基のみでなく複数基存在する可能性も想定されますし、今後の調査の進展が楽しみな地域ですね。


「廣福寺」

 広福寺台古墳所在地の南東、昭島市福島町2丁目に所在する廣福寺です。
 最初にこの地域を散策した際に、このお寺に富士講碑が存在するということで、見学しました。


「富士講碑」

 富士講碑です。
 何かの本を読んで存在を知って、見学に立ち寄ったように記憶していますが、何の本だったか忘れてしまいました。。。

<参考文献>
昭島市史編さん委員会『昭島市史』
昭島図書館「ふるさと散歩道」『広報あきしま 48年7月号』


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  1. 2019/12/07(土) 21:51:02|
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「経塚下古墳」

「経塚下古墳」

 「経塚下古墳」は、昭島市宮沢町の拝島段丘上縁辺部に位置する古墳で、昭和51年(1976)7月~8月にかけて行われた「経塚下遺跡」の調査により発見された古墳です。『東京都遺跡地図』には、昭島市の遺跡番号46番に登録されている古墳です。

 この古墳は、墳丘はすでに削平されていたものの、築造当時には封土があったのではないかと考えられているようです。周溝が検出されなかったことから、規模については不明とされています。
 長径2.1m、幅40~60cmとかなり小形の竪穴式石室が検出されており、河原石積みで胴張りの形状は周辺の浄土古墳などと同様の終末期古墳でされています。側壁近くからは鉄鏃や刀子などが発見されており、この出土した五角形の鉄鏃から、古墳は7世紀後半に築造されたと推定されているようです。

 画像は、経塚下古墳の跡地周辺の様子です。残念ながら古墳の痕跡は何も見当たらないようです。


「経塚下古墳」

 古墳が所在する拝島段丘から、多摩川の沖積低地を見下ろしたところ。
 新奥多摩街道が切り通しとなっていて、かなり高低差があるのがわかります。

 多摩川中流域左岸の、昭島から調布あたりにかけての古墳の分布は、まるで崖から何十メートル以内というふうに、取り決めでもあったかのように段丘縁辺部に集中しています。そして、狛江市内に入ると、このルールの適用外であるかのように広域に古墳が分布するわけですが、これはとても興味深いです。。。


「経塚下古墳」

 昭島市郷土資料室で公開されていた、発掘当時の経塚下古墳の石室の様子です。


「経塚下古墳」

 道路工事によって消滅する運命にあったこの古墳の石室は、「浄土古墳」の史跡公園内に移築・保存されています。画像が、経塚下古墳の石室が保存されている場所です。つまりは、この史跡公園内に「浄土1号墳」、「同4号墳」、「経塚下古墳」の3基の古墳の石室が保存されているということになります。


「経塚下古墳」

 おそらくは、この経塚下古墳の説明板が設置されていたのではないかと推測されますが、残されているのは骨組みのみで、説明板自体は崩壊してしまったようです。
 
<参考文献>
東京都昭島市経塚下遺跡調査会『経塚下遺跡』
昭島市教育委員会『考古学からみた昭島市』


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  1. 2019/12/06(金) 23:14:41|
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「大神古墳」

「大神古墳」

 昭島市は、立川段丘、青柳段丘、拝島段丘という、多摩川に面する3つの段丘によって構成されています。昭島市内の古墳のすべては、このうち最も低位の拝島段丘面で確認されています。
 「大神古墳」は、昭島市大神町3丁目、拝島段丘の東端に位置する古墳で、平成7年(1995)7月のマンション建設における事前調査で発見されています。『東京都遺跡地図』には、昭島市の遺跡番号44番に登録されている古墳です。

 この古墳名となっている「大神」は、『日本霊異記』に登場する「鴨の里」に否定されているという、古代との関連が想定される地域です。戦時中には、土地所有者により直刀2振が発見された地域であり、この場所も石室などが発見される可能性が想定されていたようです。
 7月から本調査が行われると、やがて石室側壁が確認され、さらに内部の土が掘り下げられると直刀が発見されました。

 墳丘の規模は直径14mの円墳で、周囲に幅175cmの周溝がめぐらされていました。埋葬施設は河原石乱積みの胴張構造の横穴式石室で、太刀や鉄鏃、砥石などが出土しています。また、周溝から出土した土師器等によって7世紀前半に築造されたと推定されています。

 画像は、大神古墳の跡地周辺の様子です。古墳はマンション建設のため消滅しています。


「大神古墳」
 
 実は2年ほど前、michikusa520さんの「滋味コフン」というサイトで、古墳の跡地であるマンションの横に怪しいマウンドがあることが書かれているのを拝見しました。「しまった。ぼんやりしていて全然気がつかなかった。。。」と後悔しても後の祭り。すっと気になりつつもなかなか見に行くチャンスがなかったのですが、昭島市の文化財講演会に参加したのをきっかけに、その足で確認に行ってみました。
 「むーん、確かにある。」
 図書館で調べてもネットで検索しても何も出てこないので、土地の所有者かと思われるお宅で聞いてみたのですが。。。
 結論として、耕作に邪魔な石や残土を積み上げた山であるということでした。(がっくし。。。)


「大神古墳」

 JR昭島駅から徒歩5分。
 昭和町1丁目の昭島市郷土資料室では、大神古墳から出土した直刀が公開されています。


「大神古墳」

 大神古墳出土の直刀です。
 長さ2.35cmの玄室には扁平な河原石が敷き詰められており、その上から発見されたそうです。直刀の長さは92cmあります。
 大神古墳は、35cmの基準尺で整然と設計されていることがわかっており、被葬者はこの地域の有力者であったと考えられています。


「大神古墳」

 石室内から直刀が出土した状態の、発掘当時の写真が公開されていました。

<参考文献>
昭島市教育委員会・昭島市大神古墳発掘調査団『大神古墳』
昭島市教育委員会『考古学からみた昭島市』


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  1. 2019/12/05(木) 23:50:02|
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「直刀出土地点」

「直刀出土地点」

 昭島市内では、浄土古墳群(1〜5号墳)、経塚下古墳、大神古墳といった古墳が知られています。いずれもこれまで行われた発掘調査により確認された古墳ですが、他に田中町、大神町周辺では小さな古墳が点在した形跡が見られるようです。

 画像は、昭島市田中町2丁目の古墳推定地周辺のようすです。
 戦前の昭和15年(1940)、都道改修工事の際に直刀が出土したとされる場所ですが、残念ながらこの直刀はかなり腐食していてボロボロに崩れてしまい、現存しないようです。

 『東京都遺跡地図』の昭島市の遺跡番号21番に登録されている「広福寺台古墳」は、やはり直刀が出土したという古墳ですが、こちらは直刀が現存しています。『東京都遺跡地図』への登録は、この直刀が現存するか否かの違いによるものと考えられますが、田中町周辺に未発見の古墳が存在した可能性は高そうです。。。

<参考文献>
昭島図書館「ふるさと散歩道」『広報あきしま 48年7月号』
昭島市教育委員会『東京都昭島市田中町浄土古墳』


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  1. 2019/12/04(水) 23:27:34|
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「日吉神社の富士塚」

昭島市 「日吉神社」

 画像は、昭島市拝島町1丁目の「日吉神社」を南から見たところです。

 『東京都神社名鑑』によると、この神社の創建は村上天皇の天暦年間(947~957)といわれており、祭神は大山咋命、香山戸命、羽山戸命です。江戸時代の享保17年(1732)に大日堂が改修されており、寛保元年(1741)に山王社宗源の宣旨を賜い「山王大権現」の社号が許され、ついで嘉永4年(1851)9月1日に社殿再建の工事が行われています。延1732人の大工が動員され、470余両の総経費を支出して、翌年(1852)9月9日に現在の社殿が完成しています。
 赤坂の日枝神社と同様に、この日吉神社も「拝島の山王さん」と呼ばれて親しまれているそうです。
 赤坂の日枝神社には、一説には古墳が存在すると言われているようですが、この神社の境内には富士塚が所在します。
 「浄土古墳」、「大神古墳」、「経塚下古墳」といった昭島市内に所在する古墳と同様に、多摩川中流域左岸の拝島段丘縁辺部に所在するこの富士塚が、元々存在した古墳を流用して造られた塚である可能性はないのでしょうか。。。


昭島市 「日吉神社のフジ」

 この日吉神社とその周辺は文化財が盛りだくさんという状況で、いたるところに説明板が設置されています。画像は、東京都の天然記念物に指定されている「拝島のフジ」です。
 伝承によると、室町時代末頃にこの地に建っていた明王院の境内に自生していたといわれ、江戸時代初期に明王院が廃寺となった後はフジだけが残り、現在に至ったと伝えられています。


昭島市 「日吉神社のフジ」

 フジは推定樹齢800年ともいわれる巨木で、昭和31年の指定当時には根元の周囲が2.9メートルもあったそうです。


昭島市 「日吉神社のフジ」

 春になると、フジは紫色の蝶形の花が咲き誇ります。
 古来より自然暦として農作業や猟期の目安とされ、ホトトギスが来て鳴く木でもありました。
 画像は6年前の4月の終わりころに撮影した拝島のフジです。
 5月の半ばころなら満開だったかな。。。


昭島市 「拝島山大日堂」

 東京都の史跡として指定されている「拝島山大日堂」です。
 天歴六年(952)、玉川花井の島より大日如来の尊像が出現し、村人が拝んだことから「拝島」の地名が付いたと伝えられており、大日堂の創建も同年であるといわれています。


昭島市「おねいの井戸」

 画像は、拝島山大日堂境内にある「おねいの井戸」です。
 昭島市の旧跡に指定されているこのおねいの井戸、は拝島町にある有名な三つの井戸のひとつで、別名「お鉢の井戸 」、「お玉の井戸」とも呼ばれています。室町時代の末期、滝山城主北条氏照の重臣である石田土佐守 が大日堂に娘おねいの眼病の治癒を祈り、この井戸の水で眼を洗ったところ、治ったことが伝えられています。
 『新編武蔵風土記稿』には「拝島山大日堂は開基北条氏直の臣、石川土佐守なり、この人の娘七歳の時、眼病を患いて医療すれども効なし、因て此村なる辻堂の大日に祈誓して、扁眼をぞ助かりけるより、信心いよいよ厚く今の堂を創建せりと云」と記されています。


昭島市「おねいの井戸」

 井戸の内部のようすです。
 河原石を積み上げた感じがたまらないですね。笑。


昭島市 「日吉神社」

 日吉神社の二の鳥居です。


昭島市 「日吉神社の富士塚」

 富士塚の麓のあたりに、横穴式石室と見間違うような石積みが存在します。
 胎内洞窟かなとも思いましたが、よくわからず。これだけ多くの文化財に関する説明板が立ちながら、富士塚に関する説明板は残念ながら存在せず詳細のわからない富士塚です。。。


昭島市 「日吉神社」

 日吉神社社殿です。
 私はこの神社を三回ほど訪れましたが、いつも人が多い印象ですね。
 写真を撮るときは、人がいなくなるまで待ってます。笑。


昭島市 「日吉神社の富士塚」

 さて、いよいよ富士塚の登場です。
 画像は北東から見た富士塚のようすです。
 拝島段丘縁辺部に造られており、段丘下から見上げるとかなり大きく見えます。立地的に、元々存在した古墳を流用して築造したのではないかという気がしてならないのですが、発掘調査行われていないことから真相はわかりません。
 塚の裾部に大量の河原石が見られるのですが、どんな用途に使われたものか興味深いです。
 やはりこの富士塚は古墳で、まさか石室の石材なのでは。。。


昭島市 「日吉神社の富士塚」

 北西から見た富士塚。
 こちら側は、道路により少々削られているように感じます。


昭島市 「日吉神社の富士塚」

 南西から見た富士塚。
 特に祠や石碑のような存在は見当たらなかったのですが、塚はフェンスで覆われていて内部に立ち入ることはできないので、このあたりもよくわかりませんでした。富士講によって造られた富士塚ではないのかな?


昭島市「拝島大師南大門」

 画像は、日吉神社と並んでひときわ目立つ、同じ奥多摩街道沿いにある「拝島大師南大門」です。拝島大師は、天正6年(1578)創建といわれる天台宗の仏教寺院で、毎年正月の2日、3日に行われるだるま市でも知られる寺院です。


昭島市「拝島大師」

 南から見た拝島大師の様子。
 ピカピカの五重塔が建っています。
 最初に来た時もこんな風景だったかな?と思って調べてみたら、なんと今年、令和元年の建立であるようです。


昭島市「御地蔵尊」

 路傍の御地蔵尊。
 上宿の大曲がりに鎮座するお地蔵様と向き合い一対となって拝島宿の東と西の両端から宿場内を見守るために建立されたと伝えられ、この地蔵尊は西を向いています。
 明治17年の坂下大火と大正6年の下宿大火の際に、このお地蔵様は街や人々を守るために、火消しに空を飛び回ったという言い伝えが残されています。
 昭和30年代の道路整備により現在地に移動したそうです。


昭島市 「日吉神社」

 参道の二股に分かれた道の間に塚がありました。
 私はなぜか、こうしたY字路の間の塚がツボなのです。。。


昭島市 「日吉神社」

 塚上には多くの石碑が建てられているようです。。。


昭島市 「日吉神社」

 画像は、塚上に建てられている慶応元年の馬頭尊です。自然石の表面に「馬頭観世音」と、また「慶応紀元歳次乙丑中春吉日」と造立年月日が刻まれているようです。何かの生き物の頭部にしか見えませんね。。。

<参考文献>
昭島市史編さん委員会『昭島市史』
昭島市教育委員会『昭島市の文化財』
東京都神社庁『東京都神社名鑑 下巻』


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  1. 2019/12/03(火) 23:04:53|
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「庚申塚」

昭島市「庚申塚」

 画像は、昭島市田中町1丁目に所在する「庚申塚」です。
 きちんと土で盛られた塚が残されているという、貴重な庚申塚です。

 実は、この塚の100メートルほど西側に「田中の庚申塔と馬頭尊」が祀られているお堂があり、当初はここが庚申塚かと勘違いして向かっていました。到着直前、自転車でこの塚の横を通り過ぎたところで、「あーっ、塚がある!」と全力で急ブレーキをかけてしまいました。笑。

 盛り土が好きなんです。。。


昭島市「庚申塚」

 塚上に、地蔵尊や馬頭観世音の像と並んで庚申塔が建てられています。
 この笠付きの像塔は、元禄十四年(1701)辛巳一一月朔日と刻まれており、青面金剛、日月、三猿を配しています。青面金剛は六臂の合掌形で四手には剣、宝輪、弓、矢を持っています。


昭島市「田中の庚申塔と馬頭尊」

 庚申塚と同じ田中町1丁目に所在する「田中の庚申塔と馬頭尊」です。
 こちらには塚は存在しませんが、お堂の中に庚申塔と馬頭尊が安置されています。
 昭島市教育委員会により設置された説明板には次のように書かれています。

 田中の庚申塔と馬頭尊
 一面六臂の青面金剛童子を陽刻した庚申塔は、天明
元年(一七八一)に惣村中によつて造立された。二手
は合掌、二手で日、月を支え、二手で弓、矢を持つ。
足下には三猿が刻まれている。市内で九番目に古い。
 馬頭観世音の文字を陰刻した馬頭尊は、天保十二年
(一八四一)に田中村の人々によつて造立され、交通
安全の守護神として信仰された。市内では、三番目に
古い。
 この二つの塔は通称ぼたもち街道と呼ばれる古道に
あつたが、市道の格巾に伴い現在地に移された。
                昭島市教育委員会



<参考文献>
昭島市教育委員会『昭島市の社寺と石造遺物』
現地説明板


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  1. 2019/12/02(月) 23:58:52|
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