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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「カネヅカ」

府中市「金塚」1
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1177179&isDetail=true)

 府中市是政6丁目、現在の多摩川通りとふるさと通りが交差する「郷土の森入口」交差点周辺に存在したといわれる塚が「金塚」です。
 『東京都遺跡地図』にも未登録であり、すでに消滅してしまっていることから正確な所在地も不明で、おおよその位置しかわからなくなっている塚です。

 私が最初に府中市内の古墳を巡ったのは8〜9年ほど前になりますが、この時期には、金塚に関しては詳細も正確な所在地もわからないし、だいたい古墳じゃないんだし、ここは潔くパス!という感じでスルーしてしまっていました。
 それが、何年か経ってこの塚の周辺の戦後の空中写真を眺めていたときに、一体この形状はなんだろう?という興味深い地形を見つけました。

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年(1947)に米軍により撮影された、カネヅカの所在地周辺と推定される地域の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
 昭和60年に府中市教育委員会より発行された『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』の付図には、往時のカネヅカのおおよその所在地が記されているのですが、この付図と見比べて、位置的にかなり近いのではないかと想定される場所に塚のようにも見える円形の地形を見つけたのでびっくりしました。
 そして、興味深いのは、塚から西に向かって土手のような直線的な地形がまっすぐに伸びています。
 見つけた当初は「どういう地形だろう?」と不思議に思いましたが、しばらくして、この地形に心当たりがあることを思い出しました。
 この場所が金塚の正確な所在地かどうかは置いといて!とりあえずこの地形が金塚だと仮定して散策してみよう!ということで、よく晴れた日曜日に出かけました。


府中市「金塚」2

 府中市南町に所在する「府中市郷土の森博物館」を訪ねました。
 この博物館は、広大な敷地が公園として整備されていて、歴史的な建物なども数多く保存されています。
 実はこの博物館の敷地内に、直線的な地形について心当たる場所が存在します。


府中市「金塚」3

 画像は、府中市郷土の森園内に保存された、多摩川の旧堤防です。
 多摩川は水防困難な川といわれ、洪水と氾濫を繰り返していましたが、明治43年(1910)の洪水以降は治水三法の制定、河川土木技術の導入により連続堤防が建設されてきています。
 府中市を流れる多摩川では昭和15年(1940)前後に新堤防の建設が始まっており、それ以前の旧堤防は連続した堤防ではなく、「ナミヨケ」とも呼ばれる洪水の流れと勢いを弱めるための不連続堤防だったそうです。
 私はこの時、郷土の森博物館を訪れるのは3回目でしたが、それまで不覚にも多摩川の旧堤防の存在は流してました。
 やはりどうやら、空中写真の直線的な地形はこれですね(にやり)。。。


府中市「金塚」4

 保存された旧堤防の最も東側、先端の部分です。
 あの、空中写真の先端の円形の地形が塚であれば、この先に存在するはずです。
 ちょうど、堤防の先端が博物館の敷地の端になっていて、フェンスで仕切られています。
 たまたま円形に草が茂っていただけで、塚じゃなかったのかな?
 それともやはり、削平されてしまったのでしょうか。。。


府中市「金塚」5

 旧堤防の先端からさらに東側、郷土の森の敷地の外は駐車場となっています。
 塚が存在したとすればこのあたりではないかと思われますが、痕跡はみられません。


府中市「金塚」6

 さて、残念ながら塚は開発により削平され、消滅してしているようです。
 それ以前に、空中写真の円形の地形が「金塚」であったのかどうかについても不明で、真相はわかりません。
 
 ただし、周辺には様々な形で金塚の名称が残されているようです。
 府中用水の一流路である「新田川」にはかつて「金塚橋」と呼ばれる橋が架けられてており、この橋の由来碑が、是政6丁目の路傍に設置されています。
 この由来碑によると(『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』にも記されていますが)、橋の名称は小字の「庚塚(かのえづか)に由来しており、塚は「かのえづか」が訛って「かねづか」になったものといわれています。つまり、この塚は庚申塚だったのではないかと推測されているようです。塚が庚申塚であれば、当然ながら庚申塔が存在したのではないかと思われますが、この庚申塔の所在も残念ながら不明です。。。


府中市「金塚」7

 金塚は、公園の名称にも残されているようです。
 画像は「金塚桜公園」です。
 小川が流れる、牧歌的で素敵な公園です。。。


府中市「金塚」8

 なんと!公園内には塚状の築山が造られています。
 往時の金塚を意識したものなのでしょうか。


府中市「金塚」9

 金塚の周辺は、昭和30年代までは牧場だったそうです。
 そこには、多摩川から取水した農業用水路が崖線の湧水を含みながら流れており、この水路は生活用水としても利用されたそうです。
 公園内には、この用水を分水するイメージでつくられたという円筒分水が見られます。
 もはや私には前方後円墳にしか見えません。(ああ〜!あるはずのない造り出しが見える。。。)

<参考文献>
府中市教育委員会『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』
現地説明板
現地由来碑


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  1. 2020/03/31(火) 23:00:54|
  2. 府中市/その他の古墳・塚
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「殿山横穴墓群」

「殿山横穴墓群」

 さて、今回は世田谷区大蔵5丁目に所在する「殿山横穴墓群」です。

 この横穴墓群は平成27年(2015)6月16日、東京外かく環状道路建設現場において斜面の掘削中に2基の横穴墓が発見され、世田谷区教育委員会により調査が行われました。そしてその後、さらに15基の横穴墓が発見され、東京都埋蔵文化財センターにより発掘調査が行われました。
 これにより2度にわたる現地説明会が行われたわけですが、私は残念ながらどちらも参加できず、説明会終了後に遠方から観察しました。笑。

 この地域の横穴墓の大半は、標高31~35m前後のTP(東京軽石)層に築造されていることから、この場所に横穴墓が存在することは想定されなかったそうです。しかし、この「殿山横穴墓群」は、近接する横穴墓群よりも10~15mも低い、標高20m前後に築造されており、これまで認識されていた立地条件からは大きくかけ離れた選地が行われているそうです。
 この場所の横穴墓の存在を想定できなかったということを世田谷区の学芸員の先生が悔しそうに話されていたのが、今でも記憶に残っていますが、ひょっとして破壊されずに保存された可能性があったかもしれない訳で、残念です。。。
 17基確認されたこの横穴墓群のうち、15基については復元可能とするための3次元データが取得され、道路に影響のない3号墓1基が保護されているそうです。

 今後どういった方法で公開されるのか、とても楽しみですね。。。

<参考文献>
東京都埋蔵文化財センター『世田谷区 殿山横穴墓群(第2次調査)』


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  1. 2020/03/30(月) 20:44:49|
  2. 世田谷区/殿山古墳群
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「大蔵古墳群」

「大蔵古墳群」2

 「大蔵古墳群」は、世田谷区大蔵4丁目に所在する古墳群です。
 これまでの調査により3基の古墳が確認されており、『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号33番に登録されています。

 「1号墳」は、昭和34年(1959)5月に大場磐雄氏により発掘調査が行われています。
 この調査の正式な報告書は刊行されていないようですが、当時の記録によると、かなり破壊が進んでいだとされるこの古墳の墳形は円墳で、旧地表面を掘り窪めた半地下式ともいうべき位置に、凝灰質軟砂岩の切石を積み上げて構築した、複室構造の横穴式石室が確認されているようです。
 昭和50年に刊行された『世田谷区史料 第8集 考古編』にある、その後の昭和43年(1968)に行われた調査の記録の中で、「今回の調査では1号墳の主体部は緑地として保存する地域にはいるので敢て再発掘せず…(後略)」と書かれています。おそらくは現在の世田谷区立総合運動場の陸上競技場南側の緑地内のどこかに埋葬施設が残されているのかもしれません。

 画像は、この緑地内の様子です。
 このどこかに1号墳が埋もれている、という目で見ると、地膨れのごとき高まりもすべて怪しく見えてしまいますが、残念ながら1号墳の正確な所在地はわからなくなっているようです。


「大蔵古墳群」3

 この高まりなんてどうかな?


「大蔵古墳群」1

 唯一おおよその位置がわかっている、野球場のピッチャーマウンドの真下に残されているといわれるのが「大蔵2号墳」です。
 この古墳は、調査当時に畑地として使用されていたことから墳丘がほぼ削平されれおり、わずかな地膨れを残すのみとなっていたようです。露出する古墳の石室が見出されたものの、発掘期間の制約のため石室全体の発掘は行われず、露出部分の計測のみが行われています。石質は凝灰岩で、長さ4.8m、奥壁の幅1.85m、羨門部の幅1mで、床には長さ5~20cmほどの河原石が敷き詰められています。
 江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の大蔵村の条には、「塚三ヶ所 一は岡本村境にあり、村民持、山の内にて二間四方許、一は愛宕社の傍にあり、又一も此辺にあり、耕作の障になりしとて近き頃崩したれば、古瓦の如く損たるもの出しと云り」と記されています。
 このうち、愛宕社の傍にあったという塚が1号墳で、耕作の邪魔になって削平された塚が2号墳であろうとされているようです。


「大蔵古墳群」5

 「大蔵3号墳」は、調査により周溝が確認されており、径約29mの円墳であるとされています。この古墳も正確な所在地はわからなくなっているようです。
 このあたりかな。


「大蔵古墳群」4

 案外、高まりではなく窪みになっているこの辺だったりして。。。

 この大蔵古墳群については、報告書が刊行されていないため、古墳の正確な位置を示す分布図が存在しません。
 最後までどこに古墳があるのかわからず、しまいには野毛古墳まつりで世田谷区の学芸員の先生に直接お聞きしたのですが、やはり古墳の位置はわからなくなってる、ということでした。
 私は学芸員のT先生のファンでした。野毛古墳まつりの古墳解説や発掘調査の発表会などで、いつも抜けの良い声と巧みな話術で、集まった人たちの前で古墳の解説をされていました。とても楽しませていただきました。
 おそらく、本日で引退されるのではないかと思います。長い間お疲れ様でした。

 3基ともに古墳の痕跡を見ることはできませんでしたが、いつの日かこの大蔵古墳群の調査が行われる日を待ちたいですね。。。

<参考文献>
東京都世田谷区『世田谷区史料 第8集 考古編』


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  1. 2020/03/29(日) 22:26:08|
  2. 世田谷区/大蔵古墳群
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「庚申塚(供養塚)」

供養塚(大ヶ谷戸庚申塔)1

 画像は、町田市鶴間5丁目所在の「庚申塚」です。
 国道246号線と戸塚道が交差する、大ヶ谷戸バス停のところに小さな塚が残されていて、庚申塔が祀られています。


供養塚(大ヶ谷戸庚申塔)2

 この塚、昭和の時代までは今の面積の4倍ほどの敷地があり、国道246号線から塔の正面に向かって幅1mほどの参道があったそうです。そして、この後ろに1mくらいの土盛りがあり、その上に石塔が地震で崩れたのか石塊が十個位あり、この塚は地元の旧家では「供養塚」と呼ばれていました。
 天明の大飢饉の時に江戸から逃げ出してきた行路病者の行き倒れをここに埋めて碑を建てたという伝承が残されています。また、村内にあった庚申講が、庚申の日にお祭りをしたとも伝えられており、「庚申塚」とも呼ばれています。


供養塚(大ヶ谷戸庚申塔)3

 分かれ道となっているY字路の間の三角地にある庚申塚が、どういうわけか私はとても好きで、さらにそのY字路に塚があって、塚の上に庚申塔が祀られていると、これはもう景観としてたまらないのです。
 真剣に景観の良い庚申塚を追い求めた時期もあって、いっそ『庚申塚なう』とか立ち上げちゃおうかなとも思いましたが、今のところ実現していません。笑。

 画像は、高さ92cm、幅39cmの角型の庚申塔です。


「辻の道祖神」1

 おまけ。
 町田南つくし野郵便局隣の駐車場にある道祖神の石碑です。
 車の駐車場ですので当然舗装されているわけですが、石碑の場所だけ未舗装で、塚状に盛り上がっています。これもまたたまらない景観なのです。。。


「辻の道祖神」2

 道祖神を南西から。

<参考文献> 
井上茂留『鶴間郷土誌』


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  1. 2020/03/28(土) 23:52:03|
  2. 町田市の古墳・塚
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「鶴間の大塚」

鶴間の大塚1

 画像は、町田市鶴間3丁目に所在の「鶴間の大塚」を西からみたところです。
 『東京都遺跡地図』には、町田市の遺跡番号697番に登録されています。

 この鶴間の大塚は、学校道という道に面した、広さが百八十平方メートルほどの大きな塚です。高さは5メートルほどもあり、塚の上には雑木や2、3本の若木の松があります。昭和の時代までは山桜の古木が一本あり、かなり遠くからでも目立つ存在であったようです。
 この塚について書かれた古文書などもなく、また由来を知る人もいないことから、塚がどうして造られたかについてはわからないようです。
 果たして、何を目的に造られた塚なのでしょうか。。。


鶴間の大塚2

 南から見た鶴間の大塚です。
 とても大きな塚が良好に残されています。

 地元の人には、丸山台地の下を通っている鎌倉古道は軍用路であることから、この広い原に物見台を造っ他のだという説、また室町時代、禅秀の乱で瀬谷原が戦場となり、その戦死者を葬った塚であるという説もあるようですが、真相はわかりません。近くに土を掘った場所がないことから、塚を掘ると何百の白骨が出てくるという話もあるようです。


鶴間の大塚3

 塚の頂部には御嶽信仰の石祠が建っていますが、これは明治の中頃に村の人が火難盗難除を祈るために奥多摩の御嶽神社に頼って御嶽講を作り、そのお札の鎮座場所として作ったものであるといわれ、この塚の造成とは無関係であるとされています。


鶴間の大塚4

 塚には「一里塚 鶴間」と刻まれた石碑が建てられています。
 井上茂留著『鶴間郷土誌』には「瀬谷、相沢にあり、町田市の木曽に今日残っている塚を正しく一里塚と認めた場合、この説を採るのが一番信憑性があるのではないだろうか」と、この鶴間の大塚は一里塚である可能性が一番高いのではないかとしているようです。。。

 一里塚か~。。。

 一里塚であれば、道の反対側にも対になって塚があったのではないかと思われますが、明治から昭和初期の古地図を見てもそれらしき痕跡は見当たりませんし、戦後の空中写真を見ても、広大な農地にポツリと1基、この鶴間の大塚が存在するのみです。
 本当にこの塚が一里塚なのかどうかはまだよくわかりませんが、今後の調査の進展をも守りたいところですね。。。

<参考文献> 
井上茂留『鶴間郷土誌』
町田市文化財保護審議会編『町田の民話と伝承 第一集』
現地説明板


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  1. 2020/03/27(金) 19:52:10|
  2. 町田市の古墳・塚
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「町田市 簗田寺境内の正体不明の塚」

簗田寺

 今回は、町田市忠生にある「簗田寺」の探訪の記録です。
 簗田半兵衛正勝が開基となり寛永6年(1629)に創建、鐡春(万治2年1659年寂)が開山したと伝わる、由緒あるお寺です。


簗田寺の塚

 さてこのお寺、町田市内を散策した一日の終わりの夕暮れ近くに訪れました。
 特にお目当の古墳や塚があったわけではなく、通りすがりにふらりと立ち寄ったのですが、境内に正体不明の塚状の高まりを見つけてびっくり。
 画像が、その塚です。
 たくさんの板碑が建てられているようですが、何らかの供養塚でしょうか?
 立地的に古墳ではないと思うのですが。。。


塚上の板碑

 塚上に立つ板碑群。


説明板

 塚があるのは「龍王ケ池」と呼ばれる池の南西側です。
 簗田寺のHPを見ても、この塚については特に何もふれていないようです。

 塚の東側には町田市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。

町田の民話と伝承
      地頭旗本・簗田氏の墓
 木曽村・山崎村の地頭だった簗田氏の祖は、代々織田氏につかえ、特に桶狭間の戦いの第一の功労者として名高い家柄である。織田氏が滅びたあと、文禄四(一五九五)年に簗田半兵衛正勝は、徳川氏の家臣になった。二代将軍秀忠、三代将軍家光につかえ、武蔵国多摩郡木曾村・山崎村に知行地四〇〇石を賜り地頭になった。没年承応元(一六五二)年。
 家督は長女の婿半兵衛直次が継いだ。直次は幕府の御納戸番の頭、女院付などの要職を歴任し、寛文六(一六六六)年には従五位下隠岐守に任ぜられ、簗田隠岐守直次を名乗る。知行地もしばしば加増されて一五〇〇石、他に廩米(幕府の蔵に貯えられていた米)二〇〇俵余の待遇を得た。没年天和三(一六八三)年。
 以後、直次のあと、淡路守直秀、主殿直治と二代つづくが、元禄九(一六九六)年に主殿の死を最後に簗田氏は断絶した。主殿に継子がいなかったためである。
 東向山簗田寺の山寺号は、梁田家の菩提所という意味と、かつて「東香堂」及び「東岳寺」という寺がありその寺史をふまえて、真東を向く谷戸の地形により寛永六(一六二九)年に名付けられたものである。本堂の裏には開基簗田半兵衛正勝夫婦を供養する大五輪塔と大宝篋印塔の墓碑があり、旗本家の墓塔としては異例の大きさ、建立した隠岐守の隆盛がしのばれる。
      龍王池の伝説
 むかし、東向山簗田寺の本堂裏には大きな淵があり、龍王池と呼ばれた。池の主は大蛇で、暴風雨や雷鳴が轟くときには姿を現し、柚子村別所(現・八王子市)の長池との間を行き来した。ある日、大蛇は片目の老女に身を変じ、「当山にはそのうち、”大徳”が出現し、きっと衆生を救済するであろう」と里人に告げ、ふらりふらりと東の方へ立ち去った。それからの龍王池は、次第に小さくなってしまったという。
(町田の民話と伝承第二集・町田市文化財保護審議会編から)
二〇〇〇年三月 町田市教育委員会


 説明板にも、特に塚については何も書かれていないようです。
 開創にまつわる伝説のある龍王ヶ池の淵にある塚ですから、何かしらの言い伝えが残されているのではないかと思うのですが、とりあえず今のところは塚の性格については何もわかりません。
 いつもであればお寺の方にお伺いしてみるところなのですが、日も暮れかけていたし、疲れ切って足もつりかけていたし、そのまま帰ってきてしまったんですよね。(まったくしくったぜ。。。)

<参考文献> 
町田市文化財保護審議会編『町田の民話と伝承 第二集』
現地説明板


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  1. 2020/03/26(木) 23:55:36|
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「調布市内の正体不明の塚 その2」

調布市佐須町の正体不明の塚1

 さて、前回に引き続き、今回も調布市内で見かけた正体不明の塚です。
 画像は、調布市佐須町4丁目の、僅かに残された畑地の一角に残された塚状の高まりです。
 周辺を自転車で走っていて偶然に見かけて、「怪しい!」と感じてすぐに見に行ってみたのですが、案の定、祠が祀られているわずかな高まりを発見!笑。
 「ニヤリ」と不敵に微笑みながらバシャバシャと写真を撮りまくったわけです。
 
 この周辺には古墳の存在はなく、立地的には古墳である可能性はあまり感じられません。
 ただし、やはり祠が祀られている塚ということで興味があって、何の塚なのか色々と図書館で調べてみたのですが、残念ながら最後までわかりませんでした。(実は私は、ちょっと前に引っ越していて東京都民ではなくなってしまっています。都内の図書館へ調べ物をしに行くのはちょっとハードルが高いので、正体のわからなかった塚はわからないまま載せる方向に転換しています。。。)


調布市佐須町の正体不明の塚2

 塚の北側には、狭いながらも舗装された道路が東西に走っています。 
 画像は、北側の道路から撮影した塚の様子です。


調布市佐須町の正体不明の塚3

 塚の上に祀られた、小さな石の祠です。
 地方の農村を歩けば、こうした小さな塚はちょいちょい目にするのですけどね。
 農作業をしている人が周辺にいれば、塚についてお聞きしてみるところなのですが、何度通っても誰もいなかったのです。。。


調布市佐須町の正体不明の塚4
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1178106&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年(1947)8月1日に米軍により撮影された、調布市佐須町4丁目周辺の空中写真です。
 このあたりもわずかながら農地が残されている地域ではありますが、終戦後はバッチリ農村なんですよね。東京はここ100年も経たないうちにあっという間に家だらけになっちゃったんですよね。

 ちなみに画像の真ん中の小さな木立が、祠のある場所であると思われます。
 おそらくこの頃から、今よりはもう少し大きな(?)塚の上に祠が祀られていたのかなと妄想しますが、塚の名称や由来等についての詳細はわかりません。(別に名称などないのかもしれませんが。。。)


 なんか。。。「桜と古墳」をテーマに、満開の桜と古墳の写真を撮りに行きたいなあなどと妄想してましたが、そういう状況でもないようですよね。みなさん、どう過ごしておられるんでしょうかね。
 去年は群馬に遠征したんですけどね。今年はちょっと無理かなあ。。。


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  1. 2020/03/25(水) 21:44:50|
  2. 調布市/その他の古墳・塚
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「調布市内の正体不明の塚 その1」

調布市入間町の正体不明塚1
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1178051&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年に米軍により撮影された、調布市入間町1丁目周辺の空中写真です。
 とりあえず、終戦後のこの地域はまだ農村だったんだなあとしみじみ思います。
 今でもわずかながらの農地が残されている地域ではありますが、この時代はほとんど畑しかありませんね。
 なぜこの画像を取り上げたかというと、中央に塚ではないかとも考えられる影が見えるのです。
 そしてさらには、画像の右端にも塚ではないかという形状の影が見られます。
 一体なんだろう。。。


調布市入間町の正体不明塚2
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=430009&isDetail=true)

 同じく国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和38年に国土地理院により撮影された、調布市入間町1丁目周辺の空中写真です。
 1枚目の画像から16年が経過して、少しづつ民家が増えていますね。
 中央の塚も右端の塚も、まだ健在です。


調布市入間町の正体不明塚3
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=999335&isDetail=true)

 今度は、昭和50年(1975)に国土地理院により撮影された、同地域の空中写真です。
 さらに22年が経過して、かなり宅地化が進んでいる様子が伺えます。
 中央の塚が残されているのかどうかは少々わかりにくいのですが、少なくとも塚の場所に建物は建てられていないようです。右端の塚は、残されているのかどうかよくわかりません。。。


調布市入間町の正体不明塚4

 画像は、最新のGoogleマップの同地域の画像です。
 右端の塚らしき地形は無くなってしまったようなのですが、中央の塚はまだ残されているように見えます。
 さて、現在どうなっているのか、いよいよ現地を訪れた時の画像です。


調布市入間町の正体不明塚5

 画像が、空中写真の中央に見えていた塚の様子です。
 現在は入間地域福祉センターの駐車場の北西角に所在します。

 この塚、人為的に造られた何か由来のある塚なのか、図書館等で調べても最後までわかりませんでした。
 (わからなかったから今まで公開しなかったわけなのですが。。。)
 福祉センターの単なる築山なのかもしれませんし、農地だった頃の残土の山であった可能性も考えられます。
 逆に、福祉センターの建設の際にも壊さずに残した、とも言えるかもしれませんし。。。

 特に説明板の類も見当たらないようです。
 一体なんの塚なんだろう。。。


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  1. 2020/03/24(火) 20:57:17|
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「当麻東原古墳(たいまあずまはらこふん)」ー相模原市指定史跡ー

「当麻東原古墳」1

 「当麻東原古墳」は、相模原市南区当麻に所在する古墳です。
 古墳は、JR相模線原当麻駅の南西約400メートルほどの田名原面の西縁辺部にあり、崖下西方に展開する谷原古墳群や東南方の横穴墓群を見下ろす位置にあります。
 画像は当麻東原公園のようすで、右側に見える植え込みの中に古墳は整備、保存されています。


「当麻東原古墳」2

 当麻東原古墳は昭和63年(1988)に発掘調査が行われています。
 調査当時、墳丘の約1/3は破壊されていたようですが、直径16m、高さ3mの円墳であることがわかっており、7世紀代に築造された古墳であると推定されています。
 古墳の北方からは集落が発見されており、5棟の住居と当麻東原古墳は7世紀前半のどこかで共存した可能性があるそうで、同時期の古墳と集落が近接して確認されたことはとても珍しく、価値のあることです。


「当麻東原古墳」3

 古墳の様子。
 墳丘状に大きな板石が敷かれていてこの上に登れるようになっているのですが、板石の周囲の盛土が流失して板が浮き上がってしまっており、石室の石材らしき河原石が顔を覗かせています。


「当麻東原古墳」4

 古墳には「当麻東原古墳」という石碑が建てられており、次のように刻まれています。

 当麻東原古墳
     相模原市指定史跡名勝天然記念物
            平成元年二月三日指定
 当麻東原古墳は、相模川左岸に築かれた河原石を積み
上げた横穴式石室をもつ円墳です。墳丘の規模は直径十
六メートル・高さ約三メートルで、墳丘の周囲には幅二
メートルの溝が巡っています。埋葬施設である石室の中
からは装身具や武器具などの副葬品が四百点余り発見さ
れています。
 本古墳は、当麻谷原古墳群と並び古墳時代後期の七世
紀代に造られたもので、相模川低地に生産活動の場をも
った集団の長の墓と考えられます。また昔から「馬塚」
や「名馬塚」という名で伝承され、長く保存されていま
した。
 高塚古墳が少ない相模原市にあって、良好な状態で残
っており、かつ当地の古墳時代の姿を伝えるものとして
貴重であるため相模原市指定史跡名勝天然記念物に指定
されました。
         平成二年三月
           相模原市教育委員会


 相模原市内の古墳や塚は、今回の当麻東原古墳でとりあえずひと段落。
 神奈川県内では、座間市や海老名市、厚木市や伊勢原市、秦野市等々、まだまだ見学した古墳は少なくないのですが、とりあえずこれ以上南下はせず、次回から東京都内の古墳や塚に戻ります。。。

<参考文献>
相模原市『相模原市史 考古編』
現地説明板


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  1. 2020/03/23(月) 19:28:24|
  2. 相模原市の古墳・塚
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「当麻谷原古墳群」その2

田名向原遺跡公園

 前回に引き続き「当麻谷原古墳群」の探訪の記録。今回は後編です。

 前回は、南区当麻の東側の支群を中心に取り上げましたが、今回は中央区田名塩田3丁目に所在する西側の支群を中心に紹介しようと思います。
 この西支群の一部は「田名向原遺跡公園」として整備、保存されています。早速見学してみましょう!


当麻谷原古墳群12号墳と14号墳

 公園内の様子です。
 古墳公園らしい、いい感じです。
 画像の左側に半分ぐらいみえているのが12号墳。右側が14号墳です。


当麻谷原古墳群12号墳

 画像は谷原12号墳。
 この古墳は平成6年(1994)、この遺跡公園の北方60メートルの地点で発掘された円墳を移築・復元したものです。
 この古墳は石室が良好に残されており、人骨は残されていなかったものの、石室には、壁際に遺体を取り囲むように置かれた大小6点の直刀や鉄鏃などの武具、また装身具の玉類や耳飾りは頭の位置周辺から出土しています。公園内にはほかに、13号墳と14号墳の2基が保存されています。


当麻谷原古墳群12号墳と少女

 同じく12号墳。
 この日は、青い眼をした子供たちが大勢で楽しそうに古墳を見学していました。
 これまでの私にとっての古墳探訪とは、だーれもいないところで独りで見学して、独りで写真を撮っているようなイメージでしたが、例えば最近は、遺跡の現地説明会などにも多くの人が参加するようになってきたりと、状況が変わってきましたよね。ましてや近年、海外から日本を訪れる観光客が増えている中で、海外の方が日本の古墳に興味を持って見学しているというシーンはなかなか感慨深いものがあります。
 女の子たち、楽しそう。笑。


当麻谷原古墳群12号墳石室

 石室内部の様子。
 半地下式の河原石積横穴式石室で、少し胴張り気味の奥部から羨門に向かってすぼまっており、羨道部の床は玄室よりも高くなっています。石室の全長は6.2メートルを測ります。


当麻谷原古墳群13号墳

 谷原13号墳の跡地の様子。
 調査当時、すでに墳丘は削平されて存在しませんでしたが、石室の位置と周溝が確認されており、現在は現地保存された上で古墳の位置が表示されています。周溝外径20メートルの円墳です。


当麻谷原古墳群14号墳

 谷原14号墳。
 1969年の県道拡張工事で消滅したとされていましたが、発掘調査により周溝と石室の残存部が確認されて、現地保存されています。復元される周溝外径は約20メートルの円墳です。


住居状遺構

 公園内に復元された住居状遺構です。
 約2万年前の後期旧石器時代の住居跡と推定される遺構を復元したものです。


復元住居

 復元された縄文時代中期の竪穴住居の様子。
 これは火災には気をつけたいですね〜。。。


復元住居内部

 住居状遺構内部の様子。


田名向原遺跡旧石器時代学習館1

 公園の東側、県道を挟んだ向かい側には「史跡田名向原遺跡旧石器時代学習館」という施設が存在します。田名向原遺跡のガイダンス施設として造られて平成21年(2009)にオープンした学習館で、旧石器時代を中心とした施設ですが、もちろん、当麻谷原古墳群についてもふれられています。


田名向原遺跡旧石器時代学習館

 学習館内部の様子。
 古墳から出土した遺物も展示されています。


田名向原遺跡旧石器時代学習館3

 画像は、遺跡公園内に移築・復元された「谷原12号墳」から出土した副葬品です。


田名向原遺跡旧石器時代学習館4

 同じく12号墳より出土の直刀や刀子、鍔も展示されています。

 相模線は単線で列車の本数が限られていますし同じくバスの本数も限られているので、この場所を訪れるには、車を所有していないと少々しんどいかもしれませんね。
 当時私は「ブロンプトン」という折りたたみ自転車で移動していました。最寄りの駅までは電車で移動して、そこから折り畳み自転車を組み立てて目的地に向かうわけですが、この遺跡公園の見学後は当麻東原古墳へ向かい、段丘を上がる長い急坂を漕いで上がって、足が終わることとなります。。。とほほほ。笑。

<参考文献>
相模原市『相模原市史 考古編』
現地説明板


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  1. 2020/03/22(日) 23:57:41|
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