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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「稲荷塚古墳」ー世田谷区指定史跡ー

「稲荷塚古墳」1

 「稲荷塚古墳」は、世田谷区喜多見4丁目に所在する古墳です。

 砧中学校古墳群より低位の南側に広がる立川段丘上に、6世紀頃から展開する喜多見古墳群中の1期で、『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号26番の古墳として登録されており、現在は「世田谷区立稲荷塚古墳緑地」という史跡公園内に保存、公開されています。

 画像はこの、稲荷塚古墳緑地を西から見たところです。


「稲荷塚古墳」2

 画像の、円形の植え込みの中に古墳が保存されています。

 最初にこの古墳を訪れた時に設置されていた説明板には、次のように解説されていました。

世田谷区指定史跡(古墳)
稲 荷 塚 古 墳
所在地 世田谷区喜多見四丁目七番
指 定 昭和五十四年十一月三十日

 この古墳は直径約十三メートル、高さ約二、
五メートルの円墳で、周囲に幅約二、五メー
トルの周溝がめぐっている。
 長さ六メートルの横穴式石室は、凝灰岩切石
で羽子板形に築造されている。調査は昭和三
十四年と昭和五十五年に行われ、石室内から
圭頭大刀、直刀、刀子、鉄鏃、耳環、玉類、
土師器、須恵器が出土している。出土品は、
昭和六十年二月十九日に区文化財に指定され、
世田谷区立郷土資料資料館に展示されている。
 古墳時代後期七世紀の砧地域の有力な族長
墓と考えられる。
    昭和六十一年十一月
           世田谷区教育委員会




「稲荷塚古墳」3

 そして、最近建て替えられたらしき新しい説明板の解説は次のような感じ。

世田谷区指定史跡(古墳)
稲 荷 塚 古 墳
所在地 世田谷区喜多見四丁目七番
指 定 昭和五十四年十一月三十日

 この古墳は、直径約十三メートル、高さ約二、五メー
トルの円墳で、周囲に幅約二、五メートルの周溝がめ
ぐっています。
 埋葬施設は横穴式石室で、長さは六メートル、凝灰
岩切石を積み上げて羽子板状につくられています。発
掘調査は、昭和三十四年と昭和五十五年に行われ、石室内か
ら圭頭大刀、直刀、鉄鏃、耳環、玉類、土師器、須恵器
が出土しています。出土品は、昭和六十年二月十九日
に区文化財(考古学資料)に指定され、区立郷土
資料資料館に展示されています。
 古墳時代後期七世紀初めころの有力な族長墓と考え
られています。
    昭和六十一年十一月
               世田谷区教育委員会


 解説文がまったく同じではなく、ほーんのちょっとだけ変わっているところが面白いです。。。


「稲荷塚古墳」4

 植え込みの中に保存されている墳丘の様子です。
 葺石があったと推定されているようです。
 喜多見古墳群中、唯一横穴式石室が確認されている古墳ですが、喜多見古墳群中に多く見られる埴輪は、この古墳からは確認されていないようです。


「稲荷塚古墳」5

 画像は、世田谷区立郷土資料館にて展示されている「稲荷塚古墳」の墳丘の模型です。
 こうして見るとわかりやすいですね。


「稲荷塚古墳」6

 稲荷塚古墳からの出土品は、やはり世田谷区立郷土資料館で見ることができます。
 画像は、玄室の奥壁に沿って出土した「圭頭大刀」です。


「稲荷塚古墳」7

 土師器。


「稲荷塚古墳」8

 左から、耳環、練玉、ガラス小玉。
 別にわざわざ書かなくても、画像の中に書いてありますわな。。。


「稲荷塚古墳」9

 鉄鏃、鉄製刀子です。


 どうも、今のところ緊急事態宣言が解除される空気ではないようですね。。。

 このブログを見て古墳に興味を持つ人がいたらいいなあとか、見学の際に迷わず行けるようにこの『古墳なう』が役立てばいいなあとか気楽なことを思っていましたが、そもそも出歩くこともままならない世の中になるなんて、ほんの数ヶ月前までは想像もしませんでした(もっともわたしは昨年末にぶっ倒れて入院していましたし、生きているだけでマシかもしれませんが)。
 いずれ収束して元の生活に戻るというよりは、これをきっかけに世の中が色々と変わっていくのではないか?と思えてならないのですが、変化についていかなくてはいけませんね。。。

<参考文献>
世田谷区教育委員会・世田谷区遺跡調査会『喜多見古墳群 Ⅰ』
東京都教育委委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2020/04/30(木) 23:40:56|
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「天神塚古墳」

「天神塚古墳」1

 画像は、世田谷区喜多見4丁目に所在する「須賀神社」を東からみたところです。
 この神社の社殿の土台となっている高まりは古墳であるといわれており、『東京都遺跡地図』には「天神塚古墳」の名称で、世田谷区の遺跡番号24番の古墳として登録されています。

 神社の境内には世田谷区教育委員会による説明板が設置されていますが、これは区の指定無形民俗文化財である「須賀神社の湯花神事」の説明板で、古墳については特に何も書かれていないようです。

世田谷区指定無形民俗文化財
 須賀神社の湯花神事
伝承地 世田谷区喜多見四丁目三番二十三号     須賀神社
保持者 世田谷区喜多見四丁目三番二十三号 宗教法人須賀神社
指 定 昭和六十二年三月二十五日

 須賀神社は、承応年間(一六五二~一六五四)に喜多
見久大夫重勝が喜多見館内の庭園に勧請したのが始まり
といわれ、近郊では「天王様」とよばれ親しまれている。
 湯花神事(湯立)は、例大祭の八月二日に執り行われ
る。社殿前に大釜を据えて湯を沸かし、笹の葉で湯を周
りに振りかける行事である。この湯がかかると一年間病
気をしないといわれ、今日も広く信仰を集めている。
 湯花神事は浄め祓いの行事になっているが、湯立によ
って占いや託宣を行うのが本来の形であり、神意を問う
ことであった。
 素朴で普遍的な神事であったが、当区では唯一となり、
都内でも数少ない行事となった。
   平成十三年七月
                世田谷区教育委員会



「天神塚古墳」2

 南西から見た天神塚古墳の様子です。
 江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には、「前(第六天塚)ノ続ニアリ。高サ五尺許。塚上ニ天神・牛頭大王ノ小祠ヲ二ツタツ。東向。」と書かれています。

 同書が書かれた当時は祠が祀られており、高さは約1.5mということですので、現在よりは高さが残されていたようです。

「天神塚古墳」3

 南側から見た天神塚古墳。
 現在は、墳頂に須賀神社の社殿が建ち、墳丘の東側と南側は階段、西側は石垣、北側は石垣と道路により崩されています。古墳は神社の基壇のような状況になってしまっているので、知らなければ古墳であるとはわからないかもしれません。

 でもね、こう、ちょっと目を細めてみると、古墳が好きな人ならね。
 ちゃんと古墳に見えるんです。笑。


「天神塚古墳」4

 北西から見た天神塚古墳。


「天神塚古墳」5

 墳丘上の様子です。
 推定径約16~17m、残存墳丘の高さは1m前後で、円墳と推定されています。

<参考文献>
世田谷区教育委員会・世田谷区遺跡調査会『喜多見古墳群 Ⅰ』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
東京都教育委委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2020/04/29(水) 19:24:44|
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「第六天塚古墳」ー世田谷区指定史跡ー

「第六天塚古墳」1

 画像は、世田谷区喜多見4丁目に所在する「第六天塚古墳」を北西から見たところです。
 『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号26番の古墳として登録されています。

 喜多見古墳群中最も保存状態が良いとされている古墳で、墳丘は竹藪となっています。
 北側に世田谷区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。

世田谷区指定史跡(古墳)
第六天塚古墳
所在地 世田谷区喜多見四丁目三番
指 定 昭和五十七年三月二十三日
古墳時代中期(五世紀末~六世紀初頭)の円墳。
昭和五十五年(一九八〇)と昭和五十六年(一九八一)
の世田谷区教育委員会による。墳丘及び周溝の調査
によって、古墳の規模と埋葬施設の存在が確認され
た。
これにより本古墳は、直径二十八・六メートル高さ
二•七メートルの墳丘を有し、周囲に上端幅六•八~
七•四メートル下端幅五•二~六•七メートル深さ五十
八十センチの周溝が廻り、その内側にテラスを有
し、これらを含めた古墳の直径は三十二~三十三メ
ートルとなることが判明した。またこの調査の際に、
多数の円筒埴輪片が発見された。
埋葬施設は、墳頂下六十~七十センチの位置に、長
さ四メートル幅一•一~一•四メートルの範囲で礫の
存在が確認されていることから、傑標ないし礫床で
あると思われる。
なお同古墳については、「新編武蔵風土記稿 」による
と、江戸時代後期には第六天が祭られ、松の大木が
生えていたとの記載が見られる。
この松の木は大正時代に伐採されたが、その際に中
世陶器の壺と鉄刀が発見されており、同墳が中世の
塚として再利用されていたことも考えられる。
   昭和五十九年三月
  世田谷区教育委員会



「第六天塚古墳」2

 西から見た第六天塚古墳です。
 近世のこの土地は喜多見村字陣屋と呼ばれ、江戸時代初期に喜多見若侠守の陣屋(屋敷)の一隅として築山に用いられてきたと伝えられています。
 『四神地名録』には「華林院の傍に古墳と覚しき岳有り。しるしの松一本有りて、至而の老樹也。風土記郡のうちに墳有る事を記せり。若し是らの墳にゃ、穿て見度もの也。」とあり、『新編武蔵風土記稿』の喜多見村の項には、「第六天塚 字天神森ニアリ、則慶元寺ノ前ナリ、松ノ大樹アリ、塚ハ高サ八尺許。」と書かれています。
 大正年間に朽ちて伐採されたという松の大樹は樹齢数百年の大木であったようですが、これは墳丘の北側にあったようです。よく見ておけばよかったですね。。。
 画像の手前の道路にあたる、墳丘の西側には「あぜっぽり」と称する幅3~4m前後の空堀があって、戦後にそこを埋め立てて瓦礫を2m以上の厚さで入れて、周りの土地より少し高くして、現在の区道となったようです。
 平成5年(1993)にはこの区道で発掘調査が行われ、墳丘西側は大きく削られており、本来の墳丘は最大約7m西側まで存在していたことがわかっているようです。


「第六天塚古墳」3

 南西から見た第六天塚古墳。
 主体部は、ボーリング調査により、東西に主軸を持つ礫槨ないし礫床の存在が想定されています。


「第六天塚古墳」4

 墳頂部の様子。
 稲荷を祀るという木製の祠が現存します。これは、もともとは北西の墳端近くにあったものを移動したものだそうですが、少々朽ち果てた印象です。祠を移した際に、墳頂平坦部をならしたりすることはなかったようです。


「第六天塚古墳」5

 墳丘には思わせぶりな河原石が見られます。
 まだまだ不明な点も多い第六天塚古墳ですが、今後の調査の進展が楽しみでもあります。

 いつか、お天気の良い日に現地説明会とかあったらいいですよね。
 解説をゆっくり聞いて、石室を見学したりして。
 コロナ騒ぎが早く収まったらいいですね。。。

<参考文献>
世田谷区教育委員会・世田谷区遺跡調査会『喜多見古墳群 Ⅰ』
東京都教育委委員会『東京都遺跡地図』
世田谷区教育委員会『1993年度 世田谷区埋蔵文化財調査年報』


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  1. 2020/04/28(火) 18:00:36|
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砧中学校古墳群 その3「消滅古墳について」

砧中学校古墳群2号墳

 前回までに、「砧中学校古墳群3号墳」と「同4号墳」という、残存する古墳を取り上げましたが、ほかに砧中学校の敷地内からは、発掘調査により1・2・8・9号墳が確認されています。いずれも現在は墳丘は消滅しており、見ることのできない古墳です。

 「1号墳」とされたマウンドは、昭和23年(1948)に行われた体育館建設に伴う第一次調査により、後世に作られた築山であったことが判明しています。
 「2号墳」も同様に昭和23年(1948)に行われた体育館建設に伴う第一次調査により確認されており、径22mの方墳であることがわかっています。


砧中学校古墳群8号墳

 「8号墳」は、現在の体育館の位置にあった円墳で、直径13.5m、周溝を含めても19.2mという小円墳で、南西側にはブリッジを持つことがわかっています。埋葬施設は失われていましたが竪穴系と推定され、6世紀後半の築造と推定されています。
 画像は、世田谷区立郷土資料館にて公開されている8号墳の出土品です。
 すべて周溝内から採集されたもので、左から「須恵器広口壺」、「土師器甕」、「須恵器有蓋短頸壺」、「土師器坏」です。

 「9号墳」は直径9mの小円墳で、刀子が出土しています。
 8号墳に続く築造であると考えられており、埋葬施設の存在は確認されなかったものの、横穴式石室の痕跡が見当たらないことから、8号墳と同様に竪穴系の主体部と考えられているようです。
 このあたりにはかつて通称「首塚」と呼ばれる小塚があり、校舎建築の際に地ならしされたといわれています。
 古墳らしき出土品はなかったとされていますが、位置的にこの首塚は9号墳なのではないかとも考えられるのですが、真相はわかりません。。。


砧中学校古墳群5号墳

 現在の科学技術学園高等学校の敷地内で確認されたのが「5号墳」です。
 科学技術学園高等学校の敷地内なのですが、名称は「砧中学校古墳群5号墳」なんだなあと意味なく思いました。
 どうでもいいですよね。。。笑。
 一辺が17mの方墳であるとされています。


砧中学校古墳群6号墳

 現在の東京都市大学付属小学校の敷地内で確認されたのが「6号墳」です。
 昭和23年(1948)に、酒詰仲男氏と千歳中学校考古班により発掘調査が行われた古墳で、調査当時には高さ1mほどの墳丘が残されていたようです。
 砧中学校古墳群中唯一横穴式石室を持ち、切石積みの石室には6人が埋葬されていて、直刀、刀子、鉄鏃、耳環、ガラス玉、土師器、須恵器など、多くの副葬品が出土しています。


砧中学校古墳群7号墳

 「7号墳」の跡地周辺の様子です。
 全長65m、周溝を含めると76mという砧地域で最大の古墳で、昭和24年(1949)の発掘調査では前方後円墳とされていましたが、その後の昭和55年(1980)の調査で前方後方墳であると訂正されました。しかしその後、前方後方墳の根拠となった南側の周溝の再検討が行われ、この溝が平安時代の住居址を壊して構築されていることから、同時代以降であることが確実であり、本来の古墳周溝を中世の砦の一部とみられる濠として再掘削した可能性が高いことが判明しています。
 これにより、後円部側に弧を描く北側くびれ部の様相から、墳形は前方後円墳であるというのが定説となっているようです。
 後円部の中央からは粘土で包まれた木棺が埋葬施設として設けられ、小型鏡、直刀、刀子、鉄鏃、鉄斧、管玉、ガラス小玉や土師器が出土しています。


砧中学校古墳群 庚申堂1

 砧中学校古墳群は、国分寺崖線上の武蔵野段丘面の縁辺部に築造されています。古墳群の南側を東西に走る「世田谷通り」から、この崖線を上がることのできる階段が存在します。
 実はこの道は大穴なんです。。。


砧中学校古墳群 庚申堂2

 この台地上にはわずかながらの畑地が残されており、庚申堂が存在します。
 私は、この2〜3年ほどは庚申塔巡りも兼ねて古墳巡りをしていた部分があり、この場所は庚申堂を見学するために訪れて、ついでに古墳の写真も撮り直した感じなのです。
 この庚申堂は地元に暮らすわずかな人以外は誰も気がつかないような超穴場にあり、世田谷の成城とは信じられないような景観もあり、心躍るような場所だったのです。笑。。。


砧中学校古墳群 庚申堂3

 左が、享保7年(1722)10月9日の造立とされる庚申塔。
 総高81cm、塔身部62×29×20cm、青面金剛像と三猿の板状駒型庚申塔です。
 ブログ『ぼのぼのぶろぐ』さんによると、古い喜多見村の地図ではここに富士講の塔があったと書かれているそうです。富士塚が存在したのか真相は謎ですが、かつて存在した古墳に関係している気がしてならないですが。。。


砧中学校古墳群の畑

 わずかに残る畑地の一部が周囲よりもモリッと一段高くなっていて、まさか墳丘上を平らにならして畑にしている、残存する古墳なのでは??と疑った場所。敷地内に立ち入るわけにも行かなかったのでよくわかりませんが、こういう勘はたまーに当たるんですけどね。。。

<参考文献>
世田谷区教育委員会「附編2砧中学校4号墳第3次調査概報」『2012年度 世田谷区埋蔵文化財調査年報』
世田谷区教育委員会・砧中学校遺跡第7次調査会『砧中学校遺跡Ⅱ』
調布市教育委員会・調布市遺跡調査会『調布市飛田給遺跡』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
世田谷区教育委員会『世田谷の庚申塔』
現地説明板


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  1. 2020/04/27(月) 19:33:15|
  2. 世田谷区/砧中学校古墳群
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砧中学校古墳群 その2 「4号墳」ー世田谷区指定史跡ー

砧中学校古墳群4号墳1

 前回に引き続き「砧中学校古墳群」から、今回は「4号墳」です。
 最新の『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』には、3号墳が世田谷区の遺跡番号10-3番、4号墳が10-4番に登録されています。

 古墳は、砧中学校の南東角、校庭の南側に保存されています。
 古くは、江戸時代の地誌類に記述が見られ、『武蔵名勝図会』には、この4号墳を含む砧中学校古墳群について、次のように記されています。
『古塚 五ケ所。大蔵村の内にあり。同じく世田谷領にして、ここは荏原郡界に近し。塚の囲り二十間。高さ一丈或は九尺。村内の路傍に二ケ所あり。百姓屋敷内に一ヵ所ありしを掘り穿ちけるとき、その塚の内は石を以て畳みあげて、その内に壷一つ、刀剣一本錆び朽ちて細かに打ち崩れけり。また元の如く刀の折れは埋む。壺はいまに村長が家に所持す。』


砧中学校古墳群4号墳2

 画像は古墳の北側、校庭側から見た4号墳です。
 古墳群中、唯一原形に近い形で残されている古墳です。

 昭和17年(1942)から翌年にかけて発掘調査が行われており、昭和56年(1981)から翌年にかけても、校庭改修および擁壁工事に伴う発掘調査が行われています。
 最新の調査が平成25年(2013)に行われており、見かけの規模は南北約34m、東西約34m、高さ約1.9mを測り、本来の古墳の復元規模は直径約40mほどであると推定されています。
 昭和17年に調査された「粘土槨」とされる埋葬施設は痕跡すら残存しないことがわかっており、また追走の埋葬施設も確認されていないようです。


砧中学校古墳群4号墳3

 この4号墳に葺石や埴輪はなかったと判断されています。
 段築はなく、築造は5世紀前半と推定されています。


砧中学校古墳群4号墳4

 墳頂部の様子です。
 現在の平坦面は径約15mほどで、これはもう少し狭かったと考えられています。
 墳頂部はかなり削平を受けているようです。。。


砧中学校古墳群4号墳5

 4号墳の敷地内に、世田谷区教育委員会により設置されている説明板です。
 この説明板は現在も存在はするものの、風に晒されて文字が色褪せていて判読不能となっています。
 大きな四角い鏡が立っているのかと思いました。笑。。。


砧中学校古墳群4号墳6

 もう一つ大きな説明板が。
 この4号墳については

 「今見ることのできる唯一の古墳です。古墳の大きさは直径37メートル、高さ1.5メートルで、今は埋まっていますが、周りを幅5〜10メートルの周溝がとりまいています。1949(昭和24)年の発掘調査で中央部には粘土で包まれた木棺が埋葬施設として設けられ、直刀や土師器が出土しています。また、周溝からも祀りに使われた土師器が出土しています。」


 と書かれています。

 当日は、学校のスタッフの方に許可を得て見学させていただきました。
 ありがとうございました。

 次回、「消滅古墳」に続く。。。

<参考文献>
世田谷区教育委員会「附編2砧中学校4号墳第3次調査概報」『2012年度 世田谷区埋蔵文化財調査年報』
世田谷区教育委員会・砧中学校遺跡第7次調査会『砧中学校遺跡Ⅱ』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
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  1. 2020/04/26(日) 21:49:46|
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砧中学校古墳群 その1 「3号墳」


 古墳巡りを始めたばかりの頃の記事と写真が微妙だぜ!とずーっと思っていました。
 再訪した機会に画像を差し替えたりした古墳も過去にいくつかはあったのですが、もちろん放置になってしまっているものもあったりします。今回は、ずっと気になっていた「喜多見古墳群」と「砧中学校古墳群」の画像を差し替えよう!ということで、まずは「砧中学校古墳群3号墳」からいってみようと思います。


砧中学校古墳群3号墳

 この地域の台地は古多摩川により形成された3段の段丘面からなり、最も上段が下末吉段丘面、その下に武蔵野段丘面、さらにその下に立川段丘面となります。武蔵野段丘面と立川段丘面の境である国分寺崖線は通称「ハケ」と呼ばれ、砧中学校古墳群はこの国分寺崖線上に分布します。
 ちなみにこの周辺は古墳の密集地帯で、仙川を挟んだ南東には「大蔵古墳群」、「殿山古墳群」が、そして段丘を一段下がった立川段丘面には「喜多見古墳群」が所在します。また、崖線中腹には「上神明横穴墓群」、「不動橋横穴墓群」、「中神明横穴墓群」といった7世紀代の横穴墓群が所在します。

 というわけで、画像は「砧中学校古墳群3号墳」です。


砧中学校古墳群3号墳

 南東から見た砧中学校古墳群3号墳です。
 通称「一本松」と呼ばれたこの古墳は、戦後に土地解放されて開梱する際に、地境の印として残されました。
 その後、塚が崩れて木の根が露出したことから、昭和29年に保護のためにコンクリートで囲われたそうです。


砧中学校古墳群3号墳

 中学校の敷地の北側を東西に道路が通っているのですが、3号墳のあたりだけ狭くなっていて、古墳が保護されている様子が確認できます。
 古墳は発掘調査により周溝が検出されており、径32m、高さ1.3mの円墳であるとされていますので、実際かなり小さくなってしまっているわけですね。
 もちろんこうして残されたことに感謝です。。。


砧中学校古墳群3号墳

 北東から見たところ。

 次回、「4号墳」に続く。。。

<参考文献>
世田谷区教育委員会「附編2砧中学校4号墳第3次調査概報」『2012年度 世田谷区埋蔵文化財調査年報』
世田谷区教育委員会・砧中学校遺跡第7次調査会『砧中学校遺跡Ⅱ』
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  1. 2020/04/25(土) 20:27:48|
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「富士神社古墳」

文京区「富士神社古墳」0

 前回は、文京区本郷7丁目に所在したとされる「椿山古墳」を取り上げましたが、寛永5年(1628)にこの椿山の富士浅間神社から勧請したと伝えられる神社が、今回紹介する「駒込富士神社」です。
 この神社の社殿が鎮座する土台の高まりは古くから前方後円墳ではないかと考えられており、『東京都遺跡地図』には「富士神社古墳」の名称で、文京区の遺跡番号15番の古墳として登録されています。

 今回はこの、「富士神社古墳」の探訪の記録です。


文京区「富士神社古墳」01

 画像は、文京区本駒込5丁目にある「駒込富士神社」を南から見たところです。
 この神社の御祭神は木花咲耶姫命です。旧加賀前田候の邸内(現東京大学構内)に、駿河の富士浅間を勧誘して祀られてあったものを、寛永5年(1628)にこの駒込の地に遷座したものといわれています。
 元々氏子を有せず、山嶽崇拝の各種富士講信徒の信仰の中心であったが、時代の返還とともに昭和7年、駒込天祖神社氏子の地元有志を中心として神苑講を結成。戦後に至って富士講を新たに組織して維持団体となして、江戸七富士の一つとして富士社特有の祭礼や植樹など山上・山下の神苑の整備や社務所他、付属建物の改築に努め、天祖・富士二社一体の努力を重ね今日に至っています。
 古墳といわれる高まりが、一帯どんな状況になっているのか、早速まずは神社を参拝しましょう。


文京区「富士神社古墳」02

 画像が、南から見た「富士神社古墳」です。
 鳥居をくぐって参道をまっすぐに北に歩いてきたところです。
 はっきりとした高まりが見られますが、このマウンドが果たして古墳なのでしょうか。

 人類学・民俗学の先駆者である鳥居龍蔵博士は、昭和2年(1927)発刊の著書『上代の東京と其周囲』の「東京市内の古墳調査巡回の記」の中で、富士神社古墳の調査のようすを記しています。
 同書の70ページには
 それから駒込の富士前町にある富士神社に行つたが、神殿の鎮座して居る高地はこれも明らかに古墳である。此處の古墳を能く注意して見ると、寧ろ前方後圓式の瓢形を呈して居る。今境内にはこの古墳だけしか無いけれども、昔は此の周圍に陪塚として丸塚が存在して居つたものと見るべきである。恐らく後世之を取崩して仕まつたのであらう。兎に角殘つて居る古墳を見ると、相當に大きな古墳であつて、どうしてもさういふ丸塚が伴つて居つたものと見なければならぬ。
 と記されています。
 鳥居龍蔵博士は、富士神社が鎮座するマウンドは瓢形の前方後円墳であり、また周辺には円墳も存在するのではないかと推測していたようです。


文京区「富士神社古墳」03

 ちょっと角度を変えて、南西から見た富士神社古墳です。
 富士塚らしく、富士講に関係する石碑が多く見られます。
 この角度から見ると、円墳風にも見えます。


「富士神社古墳」04

 さらに角度を変えて、南東から見た富士神社古墳です。
 この角度から見ると、画像の右奥に、わずかに前方部らしき高まりが伸びているのが見えます。
 かなり後世の改変を受けてはいるようですが、前方後円墳の名残なのでしょうか。。。
 
 ちなみに、富士神社古墳から北に300メートルほどの文京区と豊島区の区境のあたりには、「駒込古墳」なる古墳が登録されています。鳥居博士も、この周辺に陪塚として丸塚(円墳)の存在を想定していたようですが、かつては多くの古墳が造られて、古墳群を形成していたという可能性もあるのかもしれません。
 ただし、学術的な調査により古墳が発見されたという事例は今のところ存在しないようです。


文京区「富士神社古墳」05

 全体像が見えるのはこの角度かなと思われます。
 おそらく画像の左側が後円部、右側が前方部ではないかと思われますが、真相はわかりません。草木が茂ってしまう前の、冬に行けばよかったと後悔。。。

 昭和42年(1967)に文京区役所より発行された『文京区史』には「これを古墳と断ずる積極的な手がかりはないと考えている」と書かれているのですが、『文京区の文化史と史跡』には「土の状態から見て盛り土らしく、しかも注意すると埴輪や土師器の小破片がその表面に見られることから、もと古墳であったことはほぼ間違いないであろう」とも書かれています。また、『古墳横穴及同時代遺跡探訪記』では「本郷台古墳」という名称で取り上げており、後円部上の社殿の裏側において、赤茶色の邰土の中に小石等が混じった焼物の破片が落ちており、平らな部分にはハケ目のようなスジが僅かに見てとれ、埴輪の破片なのかも知れないと推理しているようです。


文京区「富士神社古墳」06

 ちなみに『本郷區史』には、昭和12年以前の富士神社古墳の写真が掲載されています。
 現在の富士神社古墳の墳丘はかなりの急斜面で高さがあるように感じますが、昭和初期はまだ墳丘の斜面がなだらかで、前方後円墳らしき形状が残されていたようです。
 おそらくは、古墳の周囲で区画整理が行われるたびに削られて小さくなり、また社殿の改築のたびに改変されて現在のような形状になった、ということではないかと思われます。


文京区「富士神社古墳」07

 画像が埴輪の破片かどうかはわかりません(違うと思います)が、埴輪片の存在が事実であれば、当然ながら富士神社古墳は埴輪を伴うことになりますので、古墳で間違いないということになります。
 本郷の台地にも前方後円墳が存在したのですね。。。


文京区「富士神社古墳」08

 境内には、文京区教育委員会により説明板が設置されています。

 富士神社 本駒込五ー七ー二〇
 富士神社はもと、旧本郷町にあった。天正元年(一
五七三)本郷村名主木村万右衛門、同牛久保隼人の二
人が、夢に木花咲耶姫命の姿を見て、翌年駿河の富士
浅間社を勧請した。
 寛永六年(一六二九)加賀藩前田候が上屋敷(現東
京大学構内)を賜わるにあたり、その地にあった浅間
社はこの地に移転した。東京大学構内一帯は住居表示
改正まで本富士町といっていた。
 社伝によれば、延文年間(一三五六~六一)には既
に現在の社地は富士塚と呼び、大きな塚があったとい
われる。この塚は一説によると、前方後円の古墳とい
われる。
 富士神社の祭神は、木花咲耶姫命で、氏子を持たず
富士講組織で成り立っていた。
 山岳信仰として、近世中期頃から江戸市民の間に、
富士講が多く発生した。旧五月末になると富士講の仲
間の人々は、六月朔日の富士登拝の祈祷をするために
当番の家に集まり、祭を行った。そして、富士の山開
きには、講の代参人を送り、他の人は江戸の富士に詣
でた。富士講の流行と共に、江戸には模型の「お富士
さん」が多数出来た。文京区内では、「駒込のお富士
さん」といわれるここと、護国寺の「音羽の富士」、
白山神社の「白山の富士」があった。
ー郷土愛をはぐくむ文化財ー
                文京区教育委員会

               昭和五十六年三月月


文京区「富士神社古墳」09

 石段を登った墳頂部の様子です。
 現在の拝殿、本殿、奥殿は戦災により焼失しており、昭和36年に再建されています。この再建に伴い昭和35年に発掘された軒丸瓦を調査したところ、寛永期から寛文期(1624〜1673)のものであったそうです。この調査結果は、富士神社が寛永5年(1628)に椿山から勧請したとされる傍証となるようです。


文京区「富士神社古墳」10

 南西からの画像です。
 境内の奥が低くなっていますが、この奥の部分が前方部ということになるかもしれません。


文京区「富士神社古墳」11

 後円部上から前方部を見たところかもしれません。


文京区「富士神社古墳」12

 墳丘斜面には、富士山麓にある溶岩洞を模したとされる「胎内洞穴」が見えます。横にあるのは庚申塔かな?


「富士神社古墳」16

 南西から見た富士神社古墳。
 後円部(かもしれない)一角が倉庫により大きく削られています。


文京区「富士神社古墳」13

 南東から見たところ。
 前方部ということになるかもしれません。


文京区「富士神社古墳」14
 
 北東から見た富士神社古墳。
 左手前が前方部、右奥が後円部ということになるかもしれません。。。


文京区「富士神社古墳」15

 富士神社は元来氏子を有せず、各種富士講信徒の信仰の中心でしたが、時代の変換により、駒込天祖神社氏子の地元有志を中心にして、昭和7年に神苑講を結成。戦後に新たに富士講を組織して維持団体として、江戸七富士の一つとして富士社特有の祭礼や植樹、山上、山下の神苑の整備や社務所等の改築が行われています。

 富士神社の御朱印は、本駒込3丁目40−1の駒込天祖神社でいただきました。

<参考文献>
鳥居龍蔵「東京市内の古墳調査巡回の記」『上代の東京と其周圍』
文京区教育委員会『文京区の文化史と史跡』
文京区役所『文京区史』
文京区神社総代会『文京区神社誌』
東東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
竹谷靭負『富士塚考 続』
現地説明版


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  1. 2020/04/24(金) 20:43:08|
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「椿山古墳」

「椿山古墳」1

 「椿山古墳」は、文京区本郷7丁目の東大赤門内に存在したといわれる塚です。

 人類学・民俗学の先駆者である鳥居龍蔵氏は、大正5年(1916)に当時の東京市内に残存する古墳の巡回調査を行い、この椿山古墳も訪れています。
 昭和3年(1927)に発刊した著書『上代の東京と其周囲』の67ページ、「東京市内の古墳調査巡回の記」の中で、
 先づ第一に帝國大學の赤門内、史料編纂所の後ろにある所の椿山を見ることにした。これは丸塚であつて、大きさは日ヶ窪の古墳に似て居る。この古墳の上には椿の木が非常に繁茂して居る、如何にも椿山という名前に副はしい。其の中に古木も混ざつて居る。
 と記しています。
 鳥居博士は「椿山」は古墳であり、しかも墳形は丸塚、つまり円墳であると断定しています。
 しかし、埋葬施設などの遺構や出土遺物についての記載はなく、椿山が古墳であると断定できる

 その後、明治19年に発行された『東京人類学雑誌』には、この椿山の発掘の様子が記されており、
 次に古墳の事を述べて見ます。十八年の夏と私は記憶して居ります。丁度大學の夏休暇の事で福家梅太郎君は大學の赤門内にある椿山はどうしても古墳であるらしいと云はれ、終には豊城入彦命に関係の墓ではあるまいかと云はれました。兎に角掘つて見やうと云ふことになり總理に願つて掘る事に成りました。發掘中或日私は遺物發見の監督を仰せつかり、一日山の上に椅子を持ち出して見てゐました。がつひこゝからは何も出ませんでした。下の方から切石が二三個出ましたがこれは宮などの壇石と思はれるものでした。
 と書かれています。


「椿山古墳」2

 画像が、「椿山古墳」の跡地周辺の様子です。
 古墳らしき痕跡は全く残されていないようです。

 最新の『東京都遺跡地図インターネット提供サービス』では、この椿山は文京区の遺跡番号37番の「古墳」として登録されていますが、特に古墳に関係するような遺物の出土はなく、「宮などの壇石と思われるような切石が2、3個出た」という記述からすると、どうやらこの椿山は残念ながら古墳ではなく、何か宗教歴な目的で築造された塚だったのではないかとも感じさせます。。。


「椿山古墳」3

 椿山にはかつて駿河の富士浅間神社を勧誘して祀られていました。江戸時代には「富士山」、「富士塚」などと呼ばれていたそうです。駒込富士神社(富士神社古墳)は、寛永5年(1628)にこの椿山の富士浅間神社から勧請したという伝承が残されており、これがこの地域の「元富士町」という町名の由来ともなっているようです。
 その後、明治4年に本郷の富士山やその一帯は国に接収され、椿山の富士浅間神社は旧加賀藩邸の南西の一角に屋敷を構えた前田家の敷地内に移転しました。
 前田家が昭和3年に駒場へ移転したのちは、この富士浅間神社は元富士会という地元の町会の管理下に移されており、東大構内に残された椿山(富士塚)も、第二次世界大戦後の昭和49年(1974)には取り壊されてしまいます。
 というわけで、画像が現在の富士浅間神社です。


「椿山古墳」4

 富士浅間神社の祠です。
 唯一残された「椿山」の痕跡と言えるかもしれません。


「椿山古墳」5

 祠の東隣には「富士浅間大神」と刻まれた石碑が建てられています。


「椿山古墳」6

 画像は、東大キャンパス南にある竜岡門です。名称は門周辺の旧地名である「龍岡町」に由来するそうです。
 この竜岡門の周辺にもかつて古墳らしき塚が存在したという言い伝えがあるようですが、詳細は不明。正確な所在地や由来等まったくわかりませんでした。
 文京区内で学術的な調査により古墳であると断定された遺構は存在しないようですが、この地域には多くの塚の存在もあったようですし、とても興味深いです。

 次回、「富士神社古墳」に続く。。。

<参考文献>
有坂鉊藏「日本考古學懐舊談」『東京人類学雑誌』第38巻 第5号
鳥居龍蔵「東京市内の古墳調査巡回の記」『上代の東京と其周圍』
中里竜瑛『東大周辺むかしがたり』
東東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
東京大学埋蔵文化財調査室『経済学部学術交流研究棟地点発掘調査概要報告』


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「二つ塚」

「二ツ塚」1

 画像は、小平市上水本町2丁目の、旧鎌倉街道が玉川上水の緑地にかかる「鎌倉橋」を南から見たところです。

 この橋の西側あたりには、昭和の初期頃まで小さな塚が2基存在したといわれており、この橋の手前の地名は「二つ塚」と呼ばれていました。
 この二つ塚は、国分寺市のこの街道沿いの一里塚からちょうど一里の地点にあり、かつては旅人に道程を知らせた旧鎌倉街道十三塚のうちの一つであったといわれています。
 残念ながら、民家の敷地内にあった塚はいつしか開発により姿を消してしまったようですが、「二つ塚」の名称は地名に残されているようです。


「二ツ塚」2

 画像は立川バスの停留場に残された「二つ塚」。


「二ツ塚」3

 画像は道路の名称に残された「二つ塚」。
 「二つ塚」の文字の真ん中の「つ」が、「ツ」だったり「つ」だったり、まちまちですね。。。

<参考文献>
小平市史編さん委員会『小平市史 地理・考古・民俗編』
小平市教育委員会『郷土こだいら』
芳賀善次郎『旧鎌倉街道探索の旅 1 上町・山ノ道編』


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「荒幡富士」ー所沢市有形民俗文化財ー

「荒幡冨士」1

 画像は、所沢市荒幡に所在する「浅間神社」です。
 旧荒幡村の総鎮守であったというこの神社の祭神は木花咲耶姫命です。
 この神社の境内には、「荒幡富士」と呼ばれるとても大きな富士塚が所在します。


「荒幡冨士」2

 北から見た「荒幡富士」です。
 地元では通称「どろっぷじ」と呼ばれている富士塚です。
 説明板によると、旧荒幡村には昔から浅間神社のほかに、三島神社、氷川神社、神明神社、松尾神社の各社がまつられていましたが、明治5年の社格制定で浅間神社が村社に列せられ、三島神社以下は無格社となり、そこで村内の統一と民心の安定をはかるため、明治14年9月村内浅間久保にあった浅間神社を西ヶ谷松尾神社の地に移し、それと共に三島神社以下を浅間神社に合祀することになりました。そのため、浅間神社の傍にあったという信仰のシンボルである「荒幡富士」も移転構築することとなったそうです。
 その後、以前の塚の幾十倍も大きい富士塚が明治17年に起工し、同32年に竣工しました。これは村内の氏子・信者はもとより、近隣の村々の有志も加わって営々として築きあげたもので、かくて荒幡富士は村民の心の大きな拠り所となり、かつ近郷近在に誇る最大級の人工の富士となりました。


「荒幡冨士」3

 まずは塚の周りをぐるりと一周してみましょう。
 画像は、東から見た荒幡富士です。

 富士塚というと、富士講によって築造された塚、というイメージが強いのですが、この荒幡富士は少々趣が異なるようです。
 旧荒幡村には御嶽講や榛名講のような山岳信仰はいくつもあったようですが、富士講は存在しなかったようです。ただし、集落の中には小高い小山があり、そこには浅間様が祀られていたそうです。「元富士」と呼ばれ、字名も「浅間富士」がついた土地で、この小山が荒幡富士の原型なのだそうです。
 この「元富士」は、隣接するゴルフ場となりましたが、富士塚の移築の際には、当時の旧荒幡村民がバケツリレーで盛り土をして、大変な苦労の末に築造された富士塚であるてそうです。

 現在も、地元の人たちが年に2回草刈りをしていて、毎年7月1日の山開きの神事の際には、近所の幼稚園から園児たちも参加するそうです。地元の人に愛されている富士塚ですね。


「荒幡冨士」4

 画像は南から見た荒幡富士です。

 この時期、どういうわけか大きな富士塚が見たい!という気持ちが強くて、この荒幡富士や、横浜の「川和富士」、「池辺富士」なんかを見に行ったりしていました。
 「おおお〜、すげえ」って感動したい、みたいな。笑。
 とにかくデカいって素晴らしい。。。


「荒幡冨士」5

 南西から見た荒幡富士です。
 富士塚の手前にもう1基、小さな塚があるのがわかるでしょうか?
 ろくに調べもしないで行ってしまったのですが、いったいどんな意味の塚なんだろう?


「荒幡冨士」6

 小さな塚の様子。


「荒幡冨士」7

 小さな塚を西から。
 手前には明和6年の日待供養塔が。。。


「荒幡冨士」8

 画像は「猿田彦大神」の石碑と祠。

 この荒幡富士は、いつでも登拝が可能です。
 早速、富士塚に登ってみましょう。


「荒幡冨士」9

 登山道は「猿田彦大神」の祠の右側からジグザグにつけられています。
 画像は「一合目」と刻まれた合目石。ここから参道を登ると、二合目、三合目という具合に九合目まで存在します。


「荒幡冨士」10

 富士塚の頂上に祀られた奥宮。


「荒幡冨士」11

 画像は、荒幡富士保存会により設置された「展望図」です。
 これによると、実物の富士山が見られるようなのですが。。。


「荒幡冨士」12

 塚の頂上から見た風景。
 この日は、晴天にも関わらず富士山の方角に雲が多く、実際の富士山は見られませんでした。残念!
 標高にすると120メートル近くあるそうですが、周囲を360度見渡せる頂上での眺望は素晴らしいの一言に尽きます。


「荒幡冨士」13

 頂上から見下ろしてみたところ。
 高いですね〜。笑。


「荒幡冨士」14

 逆に、麓から見上げてみたところ。
 むしろ見上げたほうが、高さを実感できるかもしれませんね。。。


「荒幡冨士」15

 荒幡富士に向かう道すがら見かけた塚状地形。
 「おっ!」とびっくりして足を止めました。笑。


「荒幡冨士」16

 設置された説明板を見ると、ここは山口城というお城の跡で、土塁と堀跡残されているようです。
 昭和37年10月に埼玉県の文化財(旧跡)に指定されています。


「荒幡冨士」17

 南西から見た土塁の様子。
 第4号土塁から第2号土塁にかけてが最もよく残っているようです。
 

<参考文献>
有坂蓉子『ご近所富士山の「謎」』
埼玉県神社庁神社調査団『埼玉の神社』
現地説明版


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  1. 2020/04/21(火) 19:57:05|
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