FC2ブログ

古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「市ヶ尾横穴古墳群」ー神奈川県指定史跡ー

「市が尾横穴墓群 A群」1

 今回は「市ヶ尾横穴古墳群」の探訪の記録です。

 市ヶ尾横穴古墳群は、横浜市青葉区市ケ尾町に所在します。
 鶴見川上流域である市ケ尾周辺にはかなり多くの横穴墓が築造されたようですが、この市ケ尾横穴古墳群はその代表的なもので、昭和32年(1957)に神奈川県の史跡として指定され、昭和58年にA群、平成6年にB群の保存整備が実施され、「市ケ尾遺跡公園」として保存、公開されています。

 昭和8年(1933)と昭和31年(1956)に行われた発掘調査により、前庭部と呼ばれる横穴墓の入口前の広場部分から刀・土器類などの遺物が発見されており、ここで死者を祀る儀式が行われていたのではないかと考えられています。
 19基の横穴内部の構造にはいろいろな形式がみられ、時代とともに次第に変化していった様子もうかがえるようです。


「市が尾横穴墓群 A群」2

 画像は、「A群」と呼ばれる支群の様子です。
 6世紀後半から7世紀後半にかけて造られたという計12基の横穴墓から成り立っています。


「市が尾横穴墓群 A群」3

 それぞれの横穴が様々な形で保存されているのが面白いのですが、A-1号横穴は蓋してあるような感じです。
 ちなみにA-2号横穴も似た感じ。。。


「市が尾横穴墓群 A群」4

 A-3号横穴はこんな感じ。
 やはり横穴は塞がれていますが、A-1号となちょっと違う感じです。
 ちなみにお隣のA-4号横穴の前庭部からは、須恵器の甕の破片が並べられたような状態で出土しているそうです。


「市が尾横穴墓群 A群」5

 A-6号横穴。
 ここはガラス越しに内部を見学できるようになっています。


「市が尾横穴墓群 A群」6

 A-8号横穴。
 ここは開口した状態で公開されており、横穴内部に入ることができます。


「市が尾横穴墓群 A群」7

 A-8号横穴を内部から見たところ。
 アーチ状をしているのがよくわかりますね。


「市が尾横穴墓群 A群」8

 「立ち入り禁止」の看板が設置されていて、入ることのできない横穴もありました。
 崩落の危険があるのでしょうか。。。


「市が尾横穴墓群 A群」9

 A-12号横穴。
 ここもガラス越しに内部を見学することができます。


「市が尾横穴墓群 A群」10

 A-12号横穴内部の様子。
 ちゃんと内部には照明が取り付けられていて、明るく照らされるようになっています。


「市が尾横穴墓群 B群」1
 
 さて、ここからは「B群」に移ります。
 B群はA群から南へ約40メートル離れた丘陵西側斜面に造られており、計7基の横穴墓から成り立っています。
 6世紀後半から7世紀後半にかけて造られたことが明らかになっており、それぞれの横穴入口部の前面には、比較的狭い前庭部がほぼ平坦に造られていることがわかっています。


「市が尾横穴墓群 B群」2

 同じく、角度を変えて見たB群の様子。


「市が尾横穴墓群 B群」3

 B-2号横穴は内部に入って見学することができます。
 このB-2号とB-5号横穴からは、横穴の各部から装身具、土器などの豊富な副葬品が出土しており、当時の葬られた人々の姿をそのままうかがい知ることができます。


「市が尾横穴墓群 B群」4

 B-2号横穴内部の様子。
 棺座、玄室と羨道の間には間仕切りの段がみられます。


「市が尾横穴墓群 B群」5

 内部から見たところ。
 都心部とその周辺で、石室や横穴の内部に入って見学することができる古墳は多くはありませんので、貴重ですね。。。


「市が尾横穴墓群 B群」6

 B-4号横穴は、玄室内部の床に十文字の排水溝がつくられているそうなのですが、ガラス板の汚れがバリバリに固まっていてよく見えないという残念な状況。古墳あるあるですね。。。


「市が尾横穴墓群 B群」7

 B-7号横穴は、蓋の部分に解説が書かれていました。
 玄室内部の床は羨道よりも一段高く、周囲には排水溝が設けられているそうです。


 他に「C群」としてもう一箇所、横穴が存在したはずなのですが、2度も訪れていながら2度ともすっかり存在を見落としました。目につかなかったわけですから、整備されて公開されているような状況ではないのかもしれませんが、これはいつかまた訪れるチャンスがあったら、その日までの宿題ということで。。。

<参考文献>
現地説明板


人気ブログランキングへ

  1. 2020/05/29(金) 00:07:49|
  2. 横浜市の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4

「稲荷前古墳群」ー神奈川県指定史跡ー

横浜市「稲荷前古墳群」1

 今回は、横浜市青葉区大場町に所在する「稲荷前古墳群」です。

 この古墳群は、昭和42年から同44年にかけて発掘調査が行われています。
 同じ丘陵上から前方後円墳、前方後方墳、方墳、円墳などの様々な形状の10基の古墳と9基の横穴墓が発見されたことから、「古墳の博物館」とも呼ばれました。

 画像は、この稲荷前古墳群の所在地を南西から見たところです。
 現在は、この丘陵上に15、16、17号墳の3基の古墳が保存、公開されており、昭和45年に神奈川県の史跡に指定されています。


横浜市「稲荷前古墳群」2

 古墳の所在する丘の前には、「県史跡 稲荷前古墳群」と看板が設置されています。
 なんと、ここには駐車場が完備されていて、無料で車を止めて古墳を見学できるという、都心部では希少な史跡なのです!


横浜市「稲荷前古墳群」3

 前方後方墳である16号墳の墳丘が、木立の間にチロっと見えていますね。笑。

 早速、丘の上に登ってみましょう!


横浜市「稲荷前古墳群」4

 16号墳です。
 左手前が前方部、右奥が後方部となります。

 15~17号墳の3基の古墳は昭和57年に保存整備事業に伴う発掘調査が行われており、その結果、この16号墳は前方後方墳と呼ばれる珍しい墳形の古墳であることが判明しています。そして、この前方後方墳は、正方形をした2つの墳丘を撥形をしたくびれ部で連結しているという、かなり特異な形の古墳であることがわかっています。
 規模は、全長37.5m、後方部幅15.5m、前方部幅14.0m、くびれ部幅10.0~11.5mを計ります。周囲には、幅1.2~1.4mを測る周溝が確認されています。


横浜市「稲荷前古墳群」5

 北から見た16号墳です。
 浜田普介氏による「前期前方後円墳と円墳」という論文の中では、この16号墳を「前方後方形周溝墓」とも呼称しています。
 果たして、当時に築造に関わった人たちにとってこの古墳は「前方後方墳」なのか、それとも「双方墳」なのか、はたまた「前方後方形周溝墓」なのか、興味の尽きないところです。。。


横浜市「稲荷前古墳群」6

 墳丘上で見た16号墳。
 前方部から後方部を見たという状況でしょうか。


横浜市「稲荷前古墳群」7

 逆に、後方部から前方部を見たところ。
 奥に小さく見えるのが17号墳です。


横浜市「稲荷前古墳群」8

 17号墳です。
 調査の結果、16号墳と同様に大量の盛土で造られている方墳であることがわかっているそうです。


横浜市「稲荷前古墳群」9

 15号墳です。

 16号墳の北側に隣接している古墳で、調査時にすでに墳丘の大部分が削平されていたものの基底部が残存しており、一辺約12mを測る方墳であることがわかっています。つまりは、現在見られる墳丘は復元されたものとなるようです。。。
 周溝の切り合いにより、16号墳より新しい時期に造られたことがわかっています。

 ちなみに実はですね、最初にこの古墳群を訪れたのは9年前になります。
 真夏に訪れたのがよくなかったのですが、なんと巨大なスズメバチがこの15号墳の上空をず〜っと旋回していて、まったく近寄ることができません。
 それでも写真を撮りたかったので恐る恐る近づいてみると、スズメバチがぶわーっと降下してくるので慌てて逃げる、ということを3〜4回繰り返してですね。最後に意を決して15号墳に早足で近づいて行くと、怒ったスズメバチがすごい勢いで襲いかかってきて、もはや命からがら泣きながら逃げ出した(大人なのに)、ということがありました。
 「もうここは『古墳なう』には掲載しない!」とすっかりあきらめていたのですが、1年半ほど前、今度は真冬に訪れて、ゆっくりと写真を撮ることができました。

 ま、私ってヒマなのかもしれませんよね。。。

<参考文献>
浜田普介「前期前方後円墳と円墳 ー川崎・横浜市域を例としてー」『川崎市市民ミュージアム紀要 第13集』
現地説明板


人気ブログランキングへ

  1. 2020/05/27(水) 01:17:14|
  2. 横浜市の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3

「赤田2号墳」

横浜市「赤田2号墳」1

 横浜市青葉区あざみ野南3丁目の赤田西公園内には、「赤田2号墳」という名称の古墳が復元、公開されています。
 今回は、この復元古墳の探訪の記録です。


横浜市「赤田2号墳」2

 画像は、復元された赤田2号墳を南から見たところです。
 この古墳がかつて所在した荏田周辺は古くは赤田と呼ばれ、起伏に富んだ丘陵地帯で、縄文時代から中世までの集落や古墳・横穴墓など14カ所の遺跡があり、昭和60年から63年にかけて発掘調査が行われました。

 赤田2号墳は自然地形を利用して築かれた古墳で、規模は径約20mの円墳で、北側と南西側から周溝が検出されています。石室は、泥岩の切石を用いた両袖型の横穴式石室で、玄室は床面が3つに区切られて川原石が敷かれていました。遺体はこのいちばん奥に安置されていたようで、この部分は一段高く川原石の下には泥岩の切石がきれいに敷かれていたそうです。


横浜市「赤田2号墳」3

 画像は、これも復元された埋葬施設の様子です。

 この古墳は本来はこの場所から東へ410m、北へ310m、標高56.8mの丘陵上にあったそうですが、これは現在のあざみ野南1丁目あたりであると思われます。石室はGRTにて造形保存復元して、墳丘を調査結果に基づいて復元されたそうです。

 調査の結果、玄室の中からは耳環、勾玉、管玉、切子玉、棗玉等の首飾り、鈴釧(腕輪)、太刀・鉄鏃等の武器、刀子(ナイフ)、須恵器の𤭯、坏が出土しました。墳丘からは須恵器の堤瓶、甕の破片、北側の周溝からは土師器の坏が出土しており、墓前祭が行われたと考えられています。


横浜市「赤田2号墳」4

 この古墳の築造は6世紀後半と推定されており、この地域の横穴式石室の中でもっとも古いもののひとつです。
 古墳は1号墳から4号墳まで4基が調査されており、2号墳の南側斜面には42基の横穴墓があり、同じ場所に古墳と横穴墓が造られていることは、古墳と横穴墓の被葬者の関係を知るうえで貴重です。

<参考文献>
現地説明板


人気ブログランキングへ

  1. 2020/05/25(月) 21:45:07|
  2. 横浜市の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「荏子田横穴 (かんかん穴)」ー横浜市指定史跡ー

横浜市「荏子田横穴墓」1

 今回は、横浜市青葉区荏子田1丁目に所在する「荏子田横穴」の探訪の記録です。

 別名「荏子田かんかん穴」とも呼ばれているこの横穴は、早渕川上流南岸の丘陵西斜面に位置しており、古墳時代後期から奈良時代にかけての有力者の家族墓と考えられています。平成5年11月1日には横浜市の史跡として指定されています。
 画像の丘陵斜面が「荏子田朝日公園」として整備されており、2基の横穴が保存、公開されています。


横浜市「荏子田横穴墓」2

 画像が「荏子田朝日公園」です。
 階段を登った奥に、2基の横穴墓が保存されています。

 私の持論として、古墳の見学は、草ぼうぼうになって墳丘が見えなくなってしまう可能性のある夏よりも冬がいい!と思っていますので、この荏子田横穴も寒さのピークである2月に訪れたのですが。

 衝撃の結果は。。。


横浜市「荏子田横穴墓」3

 なんと!公園内の芝はきちんと刈られているにも関わらず、古墳を保護するためにフェンスで覆ってしまったことが仇となり、フェンスの内部のみが草ぼうぼうという信じられない状況。横穴内部はまったく見ることができません。

 いや、こういうことって意外とあるんですよね。。。がっくし(´⊿`)


横浜市「荏子田横穴墓」4

 この横穴は、昭和3年に学会に紹介され、その後の昭和31年には発掘調査が行われています。
 現地説明板によると、1号横穴は内部が切妻造りの家型にかたちづくられ、天井部と壁面には、家屋内部を表した柱・棟木・束柱・桁などが浮き彫りに表現されているそうです。これは、当時の有力者居宅を表現したものとみられ、7世紀前半に造られたものと考えられています。

 切妻造りの家型の内部が遠くからでも見られたらと思ったのですが、写真に収めるのはどうにも無理と判断。
 せめて横穴の様子だけでもということで、斜面を無理やりよじ登って斜め上から撮影しました。
 内部の様子までは写りませんでしたが、これが1号横穴です。


横浜市「荏子田横穴墓」5

 画像が、2号横穴と思われる横穴。
 2号横穴は規模が小さく、7世紀後半に造られたものと考えられているようです。

 田園都市線沿線は見逃している塚も多々あるので、また遊びに行けたらいいなあとも考えているのですが、とりあえずはこれまでに見学した古墳の写真を更新していく方向です。

 次回、「赤田2号墳」に続く。。。

<参考文献>
現地説明板


人気ブログランキングへ

  1. 2020/05/24(日) 23:28:40|
  2. 横浜市の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

「恩田富士」

恩田富士1

 画像は、横浜市青葉区しらとり台に所在する「神鳥前川神社(しとどまえかわじんじゃ)」です。

 祭神は日本武尊、弟橘姫尊というこの神社は、文治元年(1185)3月、武蔵国桝形城主稲毛三郎重成の創建であるとされ、白鳥前川社と称したが、何時の頃よりか白鳥を転じ神鳥と書き、之を「シトト」または「シトトリ」と呼び今日に及んでいるそうです。明治43年12月23日に、無格社神明社(祭神伊弉諾尊、伊弉冊尊)を合祀しています。
 この神社には「恩田富士」と呼ばれる富士塚が存在します。


恩田富士2

 神鳥前川神社社殿の様子です。
 恩田川左岸の台地縁辺部にあり、対岸には「北門古墳群」が存在するという、立地的には古墳が存在してもおかしくないような場所ですね。
 社殿の左側に富士塚が所在します。


恩田富士4

 画像が、現在の「恩田富士」です。
 この上恩田富士の北西に所在したという「上恩田富士(六角富士)」と「下恩田富士(榎が丘富士)」が合体して移築されたそうですが、何とも愛おしい姿にびっくりしてしまいました。笑。
 現在の恩田富士の周囲には多くの石碑が存在しますが、これらはかつて上恩田富士や下恩田富士に置かれていたものが移されているものであるそうです。


恩田富士3

 富士塚を接写。
 以前に、三鷹市中原3丁目所在の中嶋神社の富士塚を取り上げたことがあります。
 この中嶋神社の富士塚も塚自体がコンクリートで固められているという、なかなかに異形の富士塚でしたが、この恩田富士は丸石のコンクリート固めという、とても可愛らしい富士塚ですね。。。


上恩田富士塚1

 実は、神鳥前川神社を参拝する以前に、「上恩田富士(六角富士)」の跡地とされる場所を見学していました。
 この富士塚については、「恩田メモ」という郷土研究サイトにとても詳しく書かれています。
 同サイトによると、宅地造成が行われる以前は、この地域を南北に縦断していた鎌倉路または登戸道と呼ばれた道沿いに筋塚があり、昭和49年(1974)ごろには開発により破壊され、消滅したようです。


上恩田富士塚2

 六角形という、とても興味深い形状であったこの上恩田富士なのですが、残念ながら塚の痕跡はまったく残されていないようです。
 ただし、跡地付近には、塚にあったという9基の石碑が並べて保存されています。  
 開発が進んだ地域の一角に民家が存在しない更地があって、その片隅に石碑が集められているというかなりシュールな状況ですが、なぜこういう状況になっているのか、それも興味深いです。。。

<参考文献>
有坂蓉子『富士塚ゆる散歩』


人気ブログランキングへ

  1. 2020/05/22(金) 20:12:46|
  2. 横浜市の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

「山田富士」ー横浜市地域史跡ー

都筑区 山田富士1

 今回は、横浜市都筑区に所在する「山田富士」を紹介します。

 この富士塚はその名の通り、「山田富士公園」として整備、保存されています。
 横浜市営地下鉄グリーンライン北山田駅を降りて北西方向を見上げると、もう丘の上に大きな富士塚が見えています。
 早速丘の上に登ってみましょう!





都筑区 山田富士2

 山田富士公園内の山道を登ると、すぐに富士塚は見えてきます。

 江戸時代の地誌、『新編武蔵風土記稿』には、「太子堂山、北ノ方ニアリ、此山ニ富士塚トテ高サ、十丈ハカリアリ、又半腹ニ至リテ、太子堂ヲ建ツ、五間二二間、南ニ向エリ、太子ハ木ノ立像、長一尺ハカリ、村内長泉寺ノ持」と書かれています。この時期、江戸時代の文政年間(1818〜1830)には高さ30メートルほどの塚があり、かなり知られた存在であったようです。




都筑区 山田富士3

 見えた〜。笑。これが山田富士です。

 現在の都筑区や青葉区周辺地域では富士信仰が盛んであったそうですが、この富士塚も、富士信仰に基づき富士山の山容を模して築かれた塚です。黒ボク(富士山から取り寄せた溶岩)や石碑類は見られないようです。

 富士講は、富士の八百八講といわれるほど多くの講が結社されましたが、この山田富士の講である山眞講と、富士信仰に関わる行事は早い時期に絶えてしまっているようです。




都筑区 山田富士4

 山頂部の様子です。

 頂上には噴火口に模した穴が造られています。

 ちなみに、噴火口の縁で写真を撮っているおじさまと30分以上立ち話をしましてですね(私もおじさまですが)。笑。それで、川和富士や池辺富士も見に行きたい!という気持ちになって、この山田富士を訪れてから3日後に見学に向かったというわけなのです。。。




都筑区 山田富士5

 頂上から見た街の遠景。

 川和富士、池辺富士、山田富士と合わせて「都筑三大富士」と呼ばれているそうです。

 確かに、どれも見事な富士塚ですよね。。。




都筑区 山田富士6

 西側から見た山田富士の様子です。

 犬がいい味を出しています。笑。。。

 この富士塚は実際の富士山同様に美しい裾野をひき、コニーデの形状を示しています。
 登拝口は、東側の緩やかな道を御殿場口、南側の急な勾配の道を吉田口としています。前者の登り口を数歩登った場所には、かつて胎内道が穿たれ、仏がまつられていました。
 また後者の脇には須走りが模作されています。それぞれの登り口から頂上のお釜までの間には石塔が点在していたそうです。




都筑区 山田富士7

 この山田富士の脇にももう1基の小さな塚があり、いくつかの石造物が祀られています。

 「川和富士」の際にもふれましたが、これも「大山小山の構成」ということになるのでしょうか?
 このあたりはまだよくわからないままです。。。

<参考文献>
現地説明板


人気ブログランキングへ

  1. 2020/05/20(水) 15:17:20|
  2. 横浜市の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「池辺富士(富士塚古墳)」

池辺富士1

 前回に引き続き、今回も横浜市都筑区に所在する富士塚、「池辺富士」です。

 この一帯のニュータウン計画により富士塚の周辺は農業専用区に指定されているそうです。農地として拓けた中に富士塚がボコッと一際目立っているので、すぐわかります。
 寛政8年(1796)築造という古い塚です。周辺には川和富士、山田富士や新池辺富士、荏田富士といった多くの富士塚が存在しますが、周辺の富士塚が移築されたり公園化されているのに対して、この池辺富士は場所も形もほとんど変わっていないようです。
 ちなみにこの富士塚の”池辺”とは、「いけべふじ」ではなくて「いこのべふじ」と読むらしいです。
 通常の地名は「いけべ」でも構わないらしいですが、いやいや、こういうのは「いこのべ」でこだわろうよ!と私は思いますが、オヤジですかね。。。


池辺富士2

 鳥居です。
 おそらくこれが二の鳥居ではないかと思います。
 近年まで欠損していたようですが、新しい鳥居が建てられたようです。


池辺富士3

 今、この記事を書いていて気がついたのですが(今更かよという感じですが)、有坂蓉子著『ご近所 富士山の「謎」』の189ページに、この池辺富士について、「浅間神社 通称:富士塚古墳」と記されています。
 「古墳の可能性があったのか!!!」とびっくりしてそのまま後ろにひっくり返りましたが、この塚については富士塚であると思い込んでいてあまり深く追求していませんでした。このあたりは、のちに何か判明した際には追記しようと思います。。。


池辺富士4

 参道を登ります。
 真夏に訪れるとちょっと厳しい状況かも。


池辺富士5

 山頂の石祠と水盤の様子です。


 この日は、この池辺富士の見学後に川和富士を巡りました。

 都筑区から青葉区周辺の富士塚は、なぜかキュートで可愛らしく見える富士塚が多いです。
 黒ボクや石碑が存在せず、塚の周りを取り巻く螺旋道が丸見えな姿は、なぜかたまらないものがあります。(いよいよ変態レベルかな。。。)

<参考文献>
有坂蓉子『富士塚ゆる散歩』
有坂蓉子『ご近所 富士山の「謎」』


人気ブログランキングへ

  1. 2020/05/18(月) 20:20:42|
  2. 横浜市の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「川和富士」

川和富士1

 今日は、横浜市都筑区に所在の「川和富士」です。
 1年ほど前に、とにかく「でけ〜!すげ〜!」といいたい、みたいなバカみたいな理由で横浜を訪れました。笑。

 底部の直径は約50メートル、高さは14メートルで、頂上の標高は74メートルととにかく巨大で、塚の上には3巻き近い螺旋道が巡っています。


 富士塚本体の横っちょに小さな小山(塚?)があるというパターンを、これまで何度か見かけてきました。この川和富士もそうですが、今パッと思い出せるのは、所沢の「荒幡冨士」や横浜の「山田富士」などで、謎の小山を見かけました。
 これについては、これまであまり深く掘り下げてこなかったのですが、有坂蓉子著『富士塚ゆる散歩』をよーく読んでみて、「大山小山の構成で、小さいほうは宝永山?」と書かれているのを見つけました。富士塚についてはそれほど詳しい方ではありませんが、「大山小山の構成」というのがあるのか!というのは今日初めて知って、ちょっとテンション高いです。笑。
 やはり小さいほうも富士塚の一部だったのですね。。。


川和富士2

 小さい塚の方から見たところです。
 小さいといっても、並みの富士塚以上の大きさがありますよね。笑。

 この富士塚は、200メートル北西から移築されていて、信仰物は、そこから西へ700メートルの八幡神社へ移されていて、塚には存在しないようです。


川和富士3

 北側から、直線的に登ることができる階段も存在しますが、実際には螺旋道を登っている人が多かったように思います。景観がとても良いですし、当然かもしれませんね。。。

 横浜市により設置された石碑に、この川和富士について書かれていました。

川和富士について
 私たち日本人は、ともすれば自然界の不思議な現象や
造形物に対して、それを神そのものであるとしたり、或
は神の心による働きとして、おそれおののく思いを抱い
てきました。
 日本を代表する富士山も、古くから霊峰として信仰の
対象とされており、このような富士山をまつる信仰を、
浅間信仰(せんげんしんこう)といいます。
 富士の山神を迎える”依代”(よりしろ)として富士山
の形をまねて塚をつくることは、室町時代からの習わし
としてありましたが、江戸時代の中頃になると大いに流
行しました。 ”川和富士”もこの流行により江戸時代後期
につくられ、かつては、ここより数百メートル北西の伊
勢森原の頂上にありました。
 ここに築造された富士塚は、その ”川和富士” を、復
元したものです。
                      横浜市



川和富士5

 頂上の様子です。
 この富士塚には、黒ボク(富士山から取り寄せた溶岩)が見られないのだなあと思い、調べてみました。
 東京23区内と千葉県の富士塚には全てに溶岩が見られるそうですが、多摩地区の7ヶ所、埼玉県の7ヶ所,神奈川県の4ヶ所、北関東の4ヶ所で溶岩が見られない富士塚が存在するそうです。
 私は最初に23区内の富士塚から巡り始めてしまったので黒ボクの存在が当たり前になってしまっていたのですが、黒ボクの存在しない富士塚も少なくないようですね。


川和富士4

 塚の頂部から見下ろしたところ。
 流石に高さがあります。

 訪れてみて、実際に「でけ〜!すげ〜!」と思えた、大きくて素敵な富士塚でした。

<参考文献>
有坂蓉子『富士塚ゆる散歩』


人気ブログランキングへ

  1. 2020/05/17(日) 21:44:38|
  2. 横浜市の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4

「塔山古墳群」

「塔山古墳群」1

 画像は、中野区中央1丁目の中野区立第十中学校の跡地です。
 これから、第三中学校と第十中学校の2校が統合して新しく「中野東中学校」となり、図書館や子どもセンターも入るということですが、実はこの場所は「塔山古墳群」と呼ばれる、複数の古墳が存在したとされる場所でもあります。

 この工事が行われていることを知り、今年2月頃に見学に立ち寄ってみました。
 この場所にはなんと、「工事現場」の見学エリアが設けられており、ベンチまで置かれていす。
 自由に入って工事のようすを見ることができるようになっていました。
 私が訪れた際には基礎工事が行われており、見学エリア内には説明板が張られていました。


「塔山古墳群」2

 工事現場のようす。
 ちょうどお昼を過ぎたところで、休憩に入っていたようです。
 一番気になるのは発掘調査が行われたのかな?というところですが、これは今のところ未確認です。

 東京都教育員会より発行された『東京都遺跡地図』によると、中野区の遺跡番号66番に「塔山古墳群」が、また同77番には「包蔵地」としても登録されています。古墳については5基の円墳の存在が記載されており、1号墳が66-1番に、2号墳が66-2番に登録されています。3~5号墳については詳細は不明とされているようです。


「塔山古墳群」3

 山手通りから見た工事現場のようすです。

 この古墳群は、昭和29年(1954)7月4日と8月1日に後藤守一氏と明治大学考古学研究室により調査されています。

 当時の記録によると、敷地内に所在するとされる5基の古墳の測量調査が行なわれ、1号墳と2号墳の2基の発掘が行われたようです。5基のいずれも径15~20mの円墳であるとされ、1号墳は高さ3mを測り、封土には4層にわたる水平な層序の存在があるためこの塚が人口的な盛土であることは確認されているものの、埋葬施設は認められなかったようです。ただし、土層に若干の硬い部分があり、そこから鉄釘数本と直刀片が発見されていることから、これが主体部の遺構ではないかとも考えられているようです。

 これに対して2号墳は規模が小さく、高さ1.5mの円墳であると考えられています。この2号墳からは柱状の石を組み合わせた門扉様の遺構が発見されたそうですが、これは古墳の主体部とは無関係であると考えられているようです。
 1、2号墳ともに周溝や埴輪などについての記述はなく、また3~5号墳に関してはなんの記録も残されていないようなので、これ以上の詳細はわかりません。


「塔山古墳群」4

 画像は、この場所が中野区立第十中学校だった頃のものです。
 2014年の3月ですからちょうど6年ほど前の写真です。
 この画像からは昭和の香りがプンプンしますが、工事が終わると最先端の中学校になってしまうんでしょうね(笑)。
 いや、もちろんいいことですが。。。

 この旧十中の敷地には、西南隅には「富士」、西北隅には「日光山」、東北隅には「筑波山」、東南隅には「愛宕」の山を築き、そのほぼ中央に三重の塔が建てられていました。その後方には宝仙寺の歴代住職の墓があり、園内各地には四国八八ヵ所に擬したいくつかの石碑が配置され、さらに西南の片隅には寛永12年4月のお日待寄進碑が建てられていたそうです。
 また、南側には地蔵堂があり、その中に等身大の八辻子育地蔵尊がまつられ、二四日の縁日には参拝客で大変賑わったそうです。
 大正期の記録によると「老杉林立せる一郭 地域敢て広かざるも樹間に丹塗りの三重の塔屹然と建てる風情 まことに塵界を脱するの思いあり 殊に夏季の納涼散策に、冬季白雪の頃の景色最も圭なり此は昔宝仙寺ご朱印地なり 除地一町二反八歩」と記されており、『江戸砂子』には「宝仙寺 むかしは大寺なりしが また近きに中野の塔といいて三層の塔あり 昔は宝仙寺の境内なりしという 今は五ー六町の外にありて一構えの地なり その間は畠村となりて境内の形もなし」と記されています。

 この敷地の詳細と見取り図が掲載されている文献を複写しておいたはずなのですが、最近の引っ越しの際に紛失してしまいまして詳しくわかりません。おそらく、敷地の四隅に存在した富士、日光山、筑波山、愛宕山が古墳であったと想定されます。


「塔山古墳群」5

 かつての校庭のようすです。
 古墳らしき痕跡はすでに失われています。

 実はわたしには、この十中出身だという知人がいました。
 10年ほど前だと記憶していますが、この知人に色々と話を聞いてみたことがあります。
 古墳については、残念ながら痕跡すらみたことも話を聞いたこともないそうで、中庭に古墳らしき高まりがない?とも聞いてみましたが、ない!ということでした。残念。。。
 むしろ学校の七不思議的な話を聞いて、こちらのほうがよほど面白かった記憶があります。
 残念ながら内容をよく覚えていないのですが、一つだけ覚えているのが、ある校舎の中の階段が、かつては地下まで伸びていたかのような形状になっていて、階段の手すりがそのまま地下まで埋まっていたそうです。で、これにまつわる怖い話があったように思うのですが、これは全く思い出せません。

 彼女が今どうしているかわかりませんが、20代前半の歌唱力抜群の美人さんでした。
 もっと詳しく聞いておけばよかったですよね。

 「このあたりは地元では「塔の山」っていうんだよ?」と教えてくれました。。。


「塔山古墳群」6

 さて、何か古墳の痕跡が残っていないものか、周辺をぶらりと一周してみます。
 旧十中の西側、道が二股に分かれた三角地には「白金龍昇宮」があります。

  白金龍昇宮由来
白 金 龍 昇 宮
 日本の国土は龍体の姿をしておりますので
このお宮には、昭和二十四年中野区城山町に
現れました黄金の龍を国土の神としてお祀り
してあります。
 国土を祀らずしては平安の来るはずもあり
ません。ここに日本の国土を祀り国家の
安泰をはかり世界人類の幸福をお祈り
しております。

七 曜 の 心 霊
 日月火水木金土の七曜も、このお宮にお祀り
してあります。七曜は世界共通の生きながらの
神で生命の根源でありますので人類はもと
より万物にとって一日もなくてはならぬ神々です
 ここにお祀りして世界平和と人類の幸福を
お祈りしております。
          建立者 大日入来不動明


 この西側を通る山手通りは、10年くらい前までず~っと工事をやっていましたよね。
 重要な幹線道路であるにも関わらず、頻繁に流路が変わって走りにくいし、騒々しいし、景観も良くないイメージがありましたが、整備が終わってからは本当に走りやすくなって、景観もとてもよくなりました。。。


「塔山古墳群」7

 北に10メートルほど進むと、平入型式の2m×1.5mメートルほどの小さなお堂が見られます。
 このお堂には不思議な形状の石造物が祀られています。


「塔山古墳群」8

 画像が、お堂に祀られた石造物です。
 まるで異形のオブジェといった印象ですが、なんと!この御尊体は庚申塔なのです。

 第二次世界大戦時の戦禍はこの地域にも及び、昭和20年5月の空襲による被害は甚大なるものがあったそうですが、この空襲により、かつての庚申塔は石の棒同然に変えられてしまったそうです。
 
 火で燃やされると石はこうなってしまうのか?と驚きますが、それでもこの庚申塔が今でもこうして立っていることは貴重です。
 ありがたいことに、古い郷土史本にこの庚申塔について記録されており、『中野町誌』によると、この塔には「宝永五戌子十月吉日 奉供養庚申講為二世安楽」と刻まれていたといい、彫像は青面金剛で笠付の円筒形であったようです。
 こういう、戦争の悲惨さを伝えるエピソードこそ後世に伝えるべきなのではないかと思うのですが、ぜひ説明板を立ててほしいですよね。。。


「塔山古墳群」9

 敷地の西北隅には、大きな文字で「三重塔跡」と刻まれた記念碑が立てられています。
 「日光山」を模した塚が存在したと想定されるあたりですね。。。

 この三重塔については江戸時代の文献等にも記載があり、その建立について中野長者であるという伝承や記録が残されています。この300メートルほど南には中野長者開基という「成願寺」があり、この塔も長者の寄進により建てられたのであるという伝承です。
 『江戸名所図会』には
「(前略)また中野の通りの右側叢林の中に三層の塔あり 七塔の一ならんか 伝へ云ふ、中野長者鈴木九郎正蓮が建つる所にして、昔は成願寺の境にいりしを、後世今の地に移すと云へり(中略)中に長者鈴木九郎夫婦の肖像と称するものを安ぜり」
 と記されています。
 この説は誤りで、三重塔はかつてこの地が宝仙寺の境内だった寛永13年(1636)に飯塚惣兵衛という村人(なんと村人!)が建てたものだそうで、安置されている木像は塔の建立者とされている飯塚惣兵衛夫妻のものであることがわかっています。
 三重塔は、その後この周辺が「塔の山公園」として整備されてからも戦前までは残されていたそうですが、昭和20年5月の第二次大戦の空襲により消失しています。


「塔山古墳群」10

 「三重塔跡」の記念碑の前には、中野区教育委員会による説明板が設置されていました。
 説明板に掲載されていた、三重塔の往時の写真です。


「塔山古墳群」11

 中野区中央2丁目にある、宝仙寺も訪ねてみました。
 平安後期の寛治年間、源義家によって創建されたと伝わるお寺で、この近隣のお寺では由緒も古く、また豊富な文化財に恵まれた寺院でもあるようです。
 画像は、宝仙寺の山門である仁王門で、阿吽の仁王が左右に立っています。
 終戦後に、以前のものを模して増率されたものです。


「塔山古墳群」12

 宝仙寺境内の様子です。
 奥に見えるのが再建された三重塔で、手前に見えるのは石臼塚です。

 三重塔は、興教大師850年御遠忌記念事業として平成4年に再建されたものです。
 飛鳥様式の純木造建築で、塔内には、大日如来像をはじめとする五体の木像が安置されています。

 石臼塚は、供養のために噴水として積み上げた石臼の塚です。
 境内に設置された説明板には、
 中野区と新宿区との間を流れる神田川には江戸時代から水車が設けられて、そば粉を
挽くことに使われていた。
 そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ製粉の一大拠点となり、中野から東京中のそば店に供給されたため、中野そばとまで言われるようになった。
 その後、機械化により使われなくなった石臼は道端に放置され見向かれなくなっていった。それを見て当山、宝仙寺第五十世住職富田學純大僧正(宝仙寺学園創立者)が、人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして、境内に「石臼塚」を立て供養した。

 と書かれています。


「塔山古墳群」15

 明治28年から昭和の初頭まで中野町の役場が、また区役所が境内に置かれていたそうです。  
 境内には「中野町役場跡」と刻まれた石碑が建てられています。


「塔山古墳群13

 この「白玉稲荷神社」も、もとは宝仙寺境内にあった神社です。
 塔山古墳群跡地(旧十中跡地)を見学した跡、参拝しました。


「塔山古墳群」14

 実際に境内に入って参拝しないと気がつき難い奥まった場所にあるのですが、白玉稲荷神社裏には石の鳥居が残されています。中野区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。

白玉稲荷神社の鳥居
 白玉稲荷神社は、もとは宝仙寺境内にありました
が、明治維新後の神仏分離の際に、ここに分社され、
以後、この地であがめられてきたやしろです。
 この石の鳥居には、「奉納 歳豊饒 小下中」「明治
十四年巳十月」、そして願主として浅田甚右ヱ門以下
五十人の氏名が刻まれています。
 青梅街道に面した家いえは江戸時代末期、半商半
農の生活を営んでおり、問屋場の置かれた街道筋に
は人家も多く、村内は上・中・下の三宿にわけられ
ていました。鳥居に刻まれた「小下中」というのは、
下町をさらに大・小にわけたうちの小下組中という
意味で、この近辺が小下に属していたのでしょう。
この文は、浅田澱橋氏を介し、明治の初め頃の漢字
者、南摩綱紀の依頼によって成瀬大域が書いたもの
で、その書風は、区内の金石文の中でも風格のある
名筆といわれています。
 この鳥居に刻まれた金石文によって、地名の移り
変わりがわかるとともに、この地に住んでいた有
力者たちの姿を想像することができます。
昭和五十八年三月
               中野区教育委員会


 
 中野区や杉並区は古墳の分野では目立たないのですが、神田川流域では、善福寺川右岸に「高千穂大学大宮遺跡1号墳」があり、 善福寺川が神田川に合流する向田遺跡からも2基の古墳が検出されており、杉並区の「本村原遺跡」からは2ヶ所で埴輪片が採集されています。
 この塔山古墳群も含めて、実際にはかなり多くの古墳が築造されたのではないかと妄想しています。
 今後の調査の進展が楽しみですね。。。

<参考文献>
中野町教育会『中野町誌』
日本考古学協会『日本考古学年報7(昭和29年度)』
中野区史跡研究会『東京史跡ガイド⑭ 中野区史跡散歩』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
現地説明版


人気ブログランキングへ

  1. 2020/05/14(木) 23:43:20|
  2. 中野区の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「青葉区№94遺跡(富士塚)」

「青葉区№94遺跡(富士塚)」1

 さて、前回取り上げた「成瀬奈良谷戸古墳」と同じ丘陵上にはもう1基、「富士塚」という名称の塚が存在するということで、この塚も探して歩いてみました。
 成瀬奈良谷戸古墳の見学後、成瀬尾根1号緑地から成瀬尾根コースを歩きます。


「青葉区№94遺跡(富士塚)」2

 この尾根道の途中の様子。
 まるで古墳かと見間違うような高まりを避けるように、うねうねと尾根道が続きます。
 自然地形なのかもしれませんが、中には人工的に造られた塚があってもおかしくないような印象。
 富士塚はもう少し奥に存在するはずです。

 ちなみに2015年にはこのあたりでマムシが出たようですからね。
 私が歩いたのは冬でしたが、油断は禁物です。。。


「青葉区№94遺跡(富士塚)」3

 もはや高まりのすべてが古墳に見えてしまいます。
 富士塚はまだかな?


「青葉区№94遺跡(富士塚)」

 成瀬奈良谷戸古墳から南に200メートルほどの地点でしょうか。
 奥へと階段が続いている場所を発見しました。
 絶対に怪しい。。。


「青葉区№94遺跡(富士塚)」

 この場所は実はフェンスで囲まれているのですが、このフェンスの入り口は特に施錠はされていなかったので、中に入ってみました。階段を登った奥の、一番高い位置に存在するのが、この「富士塚」ということになるようです。

 前回紹介した成瀬奈良谷戸古墳が、横浜市青葉区No.93遺跡として、「古墳」として登録されているのに対して、この富士塚は青葉区No.94遺跡として、「近世の塚」として登録されています。
 富士講が築造したようないわゆる一般的な富士塚とは違って、溶岩や石碑の類は一切見られないようです。
 学術的な調査は行われていないようですし、どういう目的で造られたのか、塚の性格はわかりませんでしたが、同じ丘陵上に存在するこの富士塚が古墳である可能性はないのでしょうか?

 今後の調査の進展がとても気になる塚でした。。。

<参考文献>
東京都教育委員会「多摩丘陵地域における古墳及び横穴の調査」『南多摩文化財総合調査報告』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』


人気ブログランキングへ

  1. 2020/05/13(水) 20:30:14|
  2. 横浜市の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ

カテゴリ

足立区/伊興古墳群 (10)
足立区/その他の古墳・塚 (19)
葛飾区/立石古墳群 (3)
葛飾区/その他の古墳・塚 (9)
江戸川区の古墳・塚 (0)
板橋区/志村古墳群 (10)
板橋区/その他の古墳・塚 (36)
北区/赤羽台古墳群 (2)
北区/十条台古墳群 (8)
北区/飛鳥山古墳群 (9)
北区/田端西台通古墳群 (1)
北区/その他の古墳・塚 (28)
荒川区/尾久 微高地 (4)
荒川区/町屋-三河島 微高地 (19)
荒川区/南千住 微高地 (3)
荒川区/日暮里 台地上 (2)
台東区/上野台古墳群 (6)
台東区/その他の古墳・塚 (7)
墨田区の古墳・塚 (4)
練馬区の古墳・塚 (21)
豊島区の古墳・塚 (4)
文京区の古墳・塚 (10)
杉並区の古墳・塚 (17)
中野区の古墳・塚 (19)
新宿区の古墳・塚 (18)
千代田区の古墳・塚 (8)
目黒区の古墳・塚 (11)
渋谷区の古墳・塚 (22)
港区の古墳・塚 (10)
品川区/品川大井古墳群 (7)
品川区/その他の塚 (16)
大田区/田園調布古墳群 (40)
大田区/鵜の木久が原古墳群 (12)
大田区/その他の古墳・塚 (54)
世田谷区/野毛古墳群 (24)
世田谷区/殿山古墳群 (10)
世田谷区/大蔵古墳群 (1)
世田谷区/砧中学校古墳群 (3)
世田谷区/喜多見古墳群 (16)
世田谷区/砧古墳群その他 (8)
世田谷区/その他の古墳・塚 (17)
武蔵野市の古墳・塚 (3)
三鷹市の古墳・塚 (8)
狛江市/狛江古墳群(和泉) (34)
狛江市/狛江古墳群(岩戸) (13)
狛江市/狛江古墳群(猪方) (29)
狛江市/その他の古墳・塚 (24)
調布市/国領南古墳群 (2)
調布市/下布田古墳群 (16)
調布市/上布田古墳群 (7)
調布市/下石原古墳群 (2)
調布市/飛田給古墳群 (17)
調布市/その他の古墳・塚 (13)
府中市/武蔵府中熊野神社古墳 (2)
府中市/白糸台古墳群 (15)
府中市/高倉古墳群 (33)
府中市/御嶽塚古墳群 (19)
府中市/その他の古墳・塚 (17)
国立市/下谷保古墳群 (12)
国立市/青柳古墳群 (3)
国立市/その他の古墳・塚 (10)
立川市の古墳・塚 (14)
稲城市の古墳・塚 (12)
多摩市/和田古墳群 (15)
多摩市/その他の古墳・塚 (7)
日野市/平山古墳群 (7)
日野市/西平山古墳群 (5)
日野市/七ッ塚古墳群 (9)
日野市/万蔵院台古墳群 (4)
日野市/その他の古墳・塚 (11)
町田市の古墳・塚 (25)
八王子市の古墳・塚 (37)
昭島市の古墳・塚 (12)
あきる野市/森山古墳群 (3)
あきる野市/草花古墳群 (14)
あきる野市/御堂上古墳群 (4)
あきる野市/瀬戸岡古墳群 (7)
あきる野市/牛沼古墳群 (3)
あきる野市/その他の古墳・塚 (16)
日の出町の古墳・塚 (2)
青梅市の古墳・塚 (16)
西東京市•東久留米市の塚 (7)
小金井市•国分寺市の塚 (7)
東村山市•東大和市の塚 (10)
武蔵村山市•瑞穂町の塚 (17)
川崎市の古墳・塚 (52)
横浜市の古墳・塚 (11)
相模原市の古墳・塚 (15)
宇都宮市の古墳・塚 (43)
鹿沼市の古墳・塚 (3)
壬生町の古墳・塚 (5)
上三川町の古墳・塚 (17)
下野市の古墳・塚 (0)
小山市の古墳・塚 (0)
栃木市の古墳・塚 (0)
真岡市の古墳・塚 (0)
那須町•大田原市•那珂川町 (8)
埼玉県の古墳・塚 (13)
千葉県の古墳・塚 (1)
群馬県の古墳・塚 (22)
ぐんま古墳カード (12)
茨城県の古墳・塚 (5)
長野県の古墳・塚 (6)
福島県の古墳・塚 (3)
東京の一里塚 (23)
東京の庚申塔 (5)
未分類 (12)

最新記事

最新コメント

検索フォーム

リンク

このブログをリンクに追加する

QRコード

QR