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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「西東京市内の庚申塔」その2


 前回に引き続き、今回も「西東京市内の庚申塔」、その2です。

「向台町4-13の青面金剛庚申塔」1

 画像は、向台町4丁目13番地に所在する庚申塔です。

 一応、当日自転車で巡った順番通りに紹介していますが、この日はかなり朝早く出発したので、この場所でまだ午前10時頃と順調です。しかも、折りたたみ式でなく口径の大きな自転車で来ていますので、スピードが出ることもあって絶好調です。笑。


「向台町4-13の青面金剛庚申塔」2

 この庚申塔は、現在の向台中央通りと市役所通りが交差する「市民公園前」交差点のやや北東寄りに安置されています。

 旧田無市内には13基の庚申塔があり、年代不明のものを除くと元禄までの江戸前期のものが4基、中期が8基で、後期のものはないそうです。
 この庚申塔は寛保3年ですので、江戸中期の造塔ということになるようです。


「向台町4-13の青面金剛庚申塔」3

 庚申塔は、笠付型(85×38×24)の青面金剛像です。






「芝久保町1-13の面金剛庚申塔」1

 5ヶ所目。
 芝久保町1丁目13番に所在する庚申塔です。

 なんと!この庚申塔は銭湯の敷地内に所在するのですが、銭湯の名称はなんと「庚申湯」!
 庚申塔が名称の由来となっているのです!
 これまで「庚申荘」等、アパートの名称では見たことがありますが、「庚申湯」はちょっと感動ですよね。笑。

 しかも!すでに画像の右端にちらりと見えていますが、この庚申塔は塚の上に祀られています。

 この塚に出会えたことで、この日は勝ったも同然!

「芝久保町1-13の面金剛庚申塔」2

 塚の様子です。

 あとで調べてみたところでは、この場所は南側からなだらかなスロープが石神井川まで続く丘であったそうで、路面の高さまで切り崩して更地にしたために庚申塔だけがそのまま残ったということのようです。

 まあ経緯はどうあれ、西東京市内では数少ない「庚申塚」ということになります。


「芝久保町1-13の面金剛庚申塔」3

 庚申塔の様子です。
 地元の人に大切に祀られている様子がうかがえます。
 笠付型の青面金剛像で「宝永三丙戌歳九月吉日」と刻まれています。

 私が上京した頃の東京にはまだお風呂のないアパートがたくさんあり、銭湯にはとってもお世話になりました。
 ひとっ風呂浴びていきたい気持ちもありましたが、まだ午前中。
 あきめて、次の場所へ向かいます。






「南芝久保庚申塔」1

 田無町6丁目1番に所在する「南芝久保庚申塔」です。
 旧田無市の府中道沿い、現在のシチズン時計本社ビルの南側に所在する庚申塔でで、昭和57年には西東京市の文化財第十七号として指定されています。


「南芝久保庚申塔」2

 庚申塔の様子です。
 お堂の横には西東京市による説明板が設置されており、次のように書かれています。
 
西東京市指定文化財第十七号
  南芝久保庚申塔
延亨二年(一七四五)建立
 この庚申塔は、延享二年(一七四五)に田無村南芝久保の三
十八人講中によって建立されました。
 破風形笠の上に宝珠を戴き、正面には六臂(六本の腕)の青
面金剛像が両脚下に二匹の邪鬼を踏まえ、瑞雲、日輪、月輪、
雌雄の鶏などを配し、六臂には、弓、矢、宝剣、矛、輪宝を持
っています。
 この庚申塔の特徴は、左の第一手で俗に「ショケラ」と呼ば
れる女人の髪の毛を握っていることですが、これが何者である
のか、定説はありません。また、このような像がある庚申塔は、
この地域ではほかに例がありません。
 功臣信仰は、中国の道教にある「庚申(かのえさる)の夜、
眠っていると三尸(三匹)の虫が人の体から抜け出して昇天し、
天帝にその人の行いを報告し、天帝は罪過を判定してその人の
寿命を縮める」という話が、仏教や神道と結びついたものです。
 青面金剛が本尊になったのは、仏教の陀羅尼経大青面金剛呪
法に虫除けの法があるということと結びついたものと言われて
います。また「かのえさる」のサルと神道の猿田彦神が結びつ
き、三猿に発展し、庚申塔に描かれるようになりました。
 猿田彦は、道案内の神で、道を守り、旅人の安全を守るとい
う信仰があります。
  昭和五十七年四月
                 西東京市教育委員会掲示


以下、次号に続く。。。

<参考文献>
多田治昭『田無市の庚申塔』
田無市教育委員会『田無市の文化財 第1集』
田無市教育委員会『田無市の文化財 第3集』


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  1. 2020/06/29(月) 19:32:12|
  2. 東京の庚申塔
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「西東京市内の庚申塔」その1

 さて。今回は大きく脱線してですね。
 古墳でも塚でもなく。。。

 「庚申塔」です。


 今年の2月頃、思い立って西東京市の庚申塔巡りを企画しました。

 西東京市内には高塚古墳の存在はなく、塚に関しても、私がこれまで見学したのは「南入経塚」と「北芝久保富士」の2基のみという状況でした。
 これまで多くの古墳を見学する中で、元々あった古墳を流用する形で使用された「富士塚」や「経塚」、そして「庚申塚」など、多くの塚を見てきましたが、逆に庚申塔の散策を”入り口”とする事で、未知なる庚申塚が発見できればいいなあという狙いがあったかもしれません。
 また、古墳が存在しなかったことであまり細かく散策しなかった西東京市を、自転車でゆっくり走りたいという思いもあったかも。

 今年の初め頃は少々体調を崩していたのですが、少しずつ回復してきたタイミングで、この日はゆっくりと1日かけてのサイクリングにチャレンジでした。

 前代未聞の緊急事態宣言発令の直前。2月のよく晴れた日曜日です。
 思えばこの頃は、コロナウィルスの感染など考えもしませんでした。。。


「新町1-2の庚申塔」1

 1ヶ所目は、新町1丁目2番地に所在する「文字庚申塔」です。

 西東京市の文化財第二十号に指定されている、高さ2メートル近くもある大きな庚申塔です。

 五日市街道から分かれてまっすぐ新田の集落に入る道の入り口に位置しており、元々の所在地も現在地付近であったろうと推定されています。
 五日市街道の改修により、一時武蔵野女子大学の構内に移され、昭和54年(1979)に修理のうえ、現在地に移されているそうです。


「新町1-2の庚申塔」2

 西東京市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。

西東京市指定文化財第二十号
  文字庚申塔
 現新町の全域は、江戸時代の享保九年(一七二四)から上保
谷新田として開発された新田村でした。それから六十年後の天
明四年(一七八四)九月、この大きな文字庚申塔は、上保谷新
田の入口に建立されました。塔右側面の銘文中に「願主新田中」
とあるのは、新田村の全戸によってこの庚申塔が造立されたこ
とを意味します。塔正面の左脇に、他の庚申塔には例をみない
「五穀成就」と 彫られています。村中あげて穀物が実ることを庚
申に祈った、その願いを読みとることができます。この塔造立
の前年の天明三年は、浅間山の大噴火・洪水 ・冷害が重なって
江戸時代最大の飢饉が始まった年であり、翌天明四年は関東各
地にその影響が及びました。村の入口から飢饉が侵入しないよ
うにと、それを防いでくれる庚申の強い霊力に祈願して建てた
のが、この塔であったはずです。
 塔の下部には十万に通じる道しるべを銘文して、上保谷新田
の地理的な位置を示し、上端に庚申の種子「?」(ウン)、下
端に三猿を刻んで庚申の像客の一部を表現しています。天明四
年の原位置は、現在の場所とほぼ同じであり、塔の正面は東方
を向いていました。
  昭和六十一年三月
                   西東京市教育委員会



「新町1-2の庚申塔」3

 庚申塔の様子です。

 よく見ると、真ん中からポッキリと真っ二つに折れています。
 昭和54年の修理とは、この修復なのかもしれませんね。。。

 目の前を千川上水が流れていて、この上水が武蔵野市と西東京市の市境となっています。
 この庚申塔の場所から東に数十メートルほどの武蔵野市側に、見事な塚の上に石橋供養塔と庚申塔が安置されているのですが、これはまたいずれ武蔵野市編で、多分紹介します。。。






「向台町2-13の庚申塔」1

 2ヶ所目。
 画像は、向台町2丁目13番地に所在する「閻魔堂」です。

 この閻魔堂で寺子屋が開かれ、学制施行の明治5年頃まで住職玉井寛海法士が子供達に読み書きを教えていたそうです。
 当時の閻魔堂は昭和20年の戦災で惜しくも焼失、現在のお堂は平成元年に再建されたものであるそうです。
 この閻魔堂の南西隅に庚申塔が安置されています。


「向台町2-13の庚申塔」2

 庚申塔の様子。笠付型の青面金剛像です。
 小さな木製の屋根がいい感じですねえ。

 真新しいお花が生けられていて、地元の人に大切に祀られている様子がうかがえます。


「向台町2-13の庚申塔」3

 脇を通る江戸道に建立されたものですが、庚申塔の宝珠の下の露盤には文政七年講中十二人の銘文がみられ、享保六年に造立し、103年後に新たな講中により再興されたものであることがわかっているそうです。






「向台町3-5の庚申塔」1

 3ヶ所目。
 画像は、向台町3丁目5番地所在の庚申塔です。

 現在の武蔵野徳洲会病院の南西角にある青面金剛像で、かつて病院の敷地にあったという石川島工場の正面にあったものを、工場の建設によりここに移されたものであるそうです。


「向台町3-5の庚申塔」2

 武蔵野徳洲会病院は2015年にオープンしたばかりの病院で、周辺の開発も進んでいるようなのですが、よくぞこの場所に残されたものですよね。。。

 ひょっとしたら、地元の人にはちょっとした待ち合わせのスポットになっているのかも。。。


「向台町3-5の庚申塔」3

 画像は、向台町3丁目5番地所在の庚申塔です。
 現在の武蔵野徳洲会病院の南西角にある青面金剛像で、かつて病院の敷地にあったという石川島工場の正面にあったものを、工場の建設によりここに移されたものであるそうです。

 武蔵野徳洲会病院は2015年にオープンしたばかりの病院で、周辺の開発も進んでいるようなのですが、よくぞこの場所に残されたものですよね。。。
 地元の人には、ちょっとした待ち合わせのスポットになっているのかも。。。

 この庚申塔も閻魔堂の庚申塔と同様に、まず元禄十四年に建立され、109年後の文化七年に再興されているものであるそうです。

 以下、次号に続く。。。

<参考文献>
保谷市教育委員会『保谷の石仏と石塔 一』
多田治昭『田無市の庚申塔』
田無市教育委員会『田無市の文化財 第3集』

  1. 2020/06/28(日) 22:07:48|
  2. 東京の庚申塔
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「南入経塚(経塚・天王山・弾中塚古墳)」その2

 さて、今回紹介するのは、ほんの十数年前まで存在していたという塚。
 西東京市住吉町5丁目の「南入経塚」です。

 この塚は以前に一度、令和元年(2019)9月2日の『古墳なう』で取り上げましたが、この時すでに開発により塚は消滅しており、跡地の写真を公開したのみでした。
 しかし、その後なんと!たきしーた氏により、往時の南入経塚の姿を収めた写真をご提供いただきました。今回は、残存する南入経塚の姿を公開します!


西東京市「南入経塚」1

 1枚目の写真は、平成19年(2007)10月の南入経塚です。

 すぐ隣にまで宅地化の波が押し寄せてはいるものの、まだ塚は良好に残存しているようです。

 この塚は古くから経塚、天王山、弾中塚などと呼ばれ、古墳ではないかとする説もあったようです。
 しかし、平成20年に行われた発掘調査の結果、周溝等の付帯施設が発見されなかったことから、少なくとも塚は古墳ではなく、また、経典なども出土しなかったことから、経塚であることも確認されなかったようです。
 ただし、これも最近になって知ることができたのですが、昭和43年発行の『郷土誌「保谷」4号』に掲載されている座談会の記録の中にこの南入経塚の記述が見られ、塚は大正時代に一度発掘が行われており、この際に南無妙法蓮華経の経文を書いた石が出土したといわれているそうです。

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西東京市「南入経塚」2

 同じく、平成19年(2007)10月の南入経塚です。

 ちなみに、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「鐘塚 村の北にあり 経塚 村の南にあり 相伝うこの二つの塚は、隣村小榑村妙福寺開山日延聖人改宗の日、経文及び鐘をこのところへ埋め、その上へ塚を築きたる」とあり、昭和10年に書かれた『武蔵保谷村郷土資料』にも「昔は塚の上に一本の古松が生えており、人びとは御経文が埋めてあるのだといった」と記されています。

 大正時代に出土したという経石の所在はわからなくなっているようですし、平成20年の発掘調査の時点でこの経石が全く残されていなかったというのも不思議な気がするのですが、これらの状況証拠からすると、少なくとも南入経塚が古墳である可能性はなく、経塚である可能性が極めて高そうです。


西東京市「南入経塚」3

 写真は、翌年の平成20年(2008)6月の南入経塚です。
 発掘調査の真っ最中という貴重な写真です。
 写真の左端に、まだ一部が残存する塚の姿が見えます。

 実は、私が最初にこの塚の見学に来たのは平成22〜23年頃だったと思います。当時にGoogleマップで確認すると、杭で囲まれて塚が保護されているように見えたのですが、実際に訪れてみると平らに整地されていて塚はなく、「あれ?ここじゃなかったのかな?」ということになったのですが、あれは発掘調査が終わった後だったのですね。。。


西東京市「南入経塚」4

 同じく、発掘調査の真っ最中の写真です。

 小さな女の子がじーっと遺跡の様子を見つめているのがとても興味深いです。
 何が気になっているんでしょうかね。笑。

A8.net


西東京市「南入経塚」5

 塚の跡地の現在の様子です。
 左隅の、地下に降りる通路のあたりが南入経塚の跡地ということになります。

 古墳は存在しないとされる西東京市内において唯一残存する塚だったのですが、破壊されてしまった現実は返す返すも残念でなりません。。。

<参考文献>
保谷市『保谷市史〈別冊 1〉保谷の石仏と石塔』
保谷市史編さん委員会『田無市史 第四巻 民俗編』
公民館だより編集室『西東京市公民館だより』


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  1. 2020/06/26(金) 20:22:50|
  2. 西東京市•東久留米市の塚
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「宮内古墳」

中原区「宮内古墳」1

 画像は、川崎市中原区宮内4丁目に所在する「春日神社」です。
 祭神は天津児屋根命で、旧宮内村の鎮守となっていた神社です。

 自然堤防上に営まれたこの地域は古代から豊穣な土地でったそうです。
 平安時代末期の平治元年(1159)~(1171)の頃、現在の中原区の宮内から井田の地域にかけて稲毛荘と呼ばれる荘園が成立して、荘園の鎮守として「春日新宮」が造立されました。これが現在の春日神社の前身で、荘園の領主である摂関家・藤原氏九条家の氏神である大和春日大社(奈良県)の祭神を勧請したものと考えられています。

 『神奈川県神社誌』によると、境内には鹿を放して「関東の春日様」と呼ばれ、多くの参拝者で賑わったと伝えられています。
 この神社の本殿裏には昔から不思議な力をもつ石があり、これに触れると崇りがあると云われていました。此の場所には古墳が存在したのではないかとも考えられており、一説には前方後円墳であったとも伝えられています。


中原区「宮内古墳」2

 昭和2年に発行された山田蔵太郎著『川崎誌考』には、本殿裏にある石と古墳について次のような記述が見られます。

 「(前略)中原町宮内の春日神社本殿裏に今日も聖別されてある一坪許りの場所がある。其の中にある石は之に觸るれば祟ありとせられてあるが、今日では其石の姿見えず、何時の世にか他へ運び去られたか又は地下に埋没してゐるものか不明である。石と唱へられてあるのは古墳から往々出る石棺ではないかと考へられてゐる。それから此の春日神社の別當であつた常樂寺に今も曲玉二個保存されてある。徳川時代に林大學主監の下に編纂された〔新編武蔵風土記稿〕の材料蒐集に際し、係役人が此の曲玉を實檢に及びたる由を記した文書が同寺に殘つてゐる。そこで石棺=曲玉と斯う結び付けて見ると、直に古墳を想像せざるを得ない譯である。」(『川崎誌考』


中原区「宮内古墳」3

 拝殿の背後に「禁足地」が見えます。

 『川崎誌考』の記述からすると、昭和初期には石の姿が見えなくなっていたようですので、おそらくは運び去られたのではなく埋没していたのではないかと考えられますが、現在はどんな状況なのでしょうか。

 早速近づいてみましょう。。。


中原区「宮内古墳」4

 禁足地の様子です。

 古墳の石棺とされる霊石は見られるのでしょうか。

 この霊石について、境内に設置された説明板に詳細が書かれていました。

       禁足地
春日神社付近は、多摩川の流れによって生まれたデルタで自然
堤防状の微高地で高瀬といわれている所です。
神社の裏にあります禁足地といわれている所は、新編武蔵風土
記稿(文化七~十一年 西暦一八一〇~二六)によれば、神霊
いとあらたかなれば、近づくときは祟りありとし、あえて近づ
くものなし、苔むし埋りければ、おのづから朽ちて今はその形
も見えず…と記されています。古墳といわれる禁足地が古くか
ら、宮内の人々にとって特別神聖な場所であり、やがて人々の
信仰の対象となる社が建立され、その後藤原氏の荘園となり藤
原氏の祖神である春日明神が勧請されたといわれている。
また神社由緒概要によると、天平十年(西暦七三八)戊寅の頃、
聖武天皇の御子阿部内親王(孝謙天皇)の御病平癒の為、春日
明神の霊石に祈願せしに、たちまち霊験現ると、後にその霊石
のもとに春日明神が勧請されたといわれている。その霊石は今
なほ存せり。その後霊跡の遺物永く保存されしが、いつの頃に
か回禄(火事)の厄いに罹り烏有に帰せりと記されています。
平成一九年四月、神社誌発刊に当り発刊記念として禁足地内に、
真榊を植樹するに際し掘削したところ、霊石(約一米大)と思
われる赤い石と壺が出土されました。故事を尊び霊石と思われ
る石は、直ちに元の所に丁重に埋め戻されました。 出土され
た壺は神社に保管されて居ります。
平成一九年十月吉日               春日神社


 平成19年に発掘されているようですが、1m大の赤い石が出土したということですから、古墳の石室の、おそらくは天井石である可能性が高そうです。ただし、説明板の記述からすると、この位置に主体部が存在するのか、それともどこか他の場所から運ばれた石材であるのか、一番肝心な部分はわかりません。。。


中原区「宮内古墳」5

 禁足地内部の様子です。
 霊石はちゃんと露出しています。
 おそらくは房州石と考えられる、古墳の石材を連想させる霊石です。

 はて?
 この石、どこかでみたことがある光景だなあと思いましたが。。。


中原区「宮内古墳」6

 画像は、葛飾区立石8丁目にある「立石様」と呼ばれる霊石です。
 『古墳なう』では、平成26年(2014)1月12日の回で取り上げました。

 石で囲まれた周囲の様子もさることながら、房州石が露出した具合とかがそっくりだと思いませんか!笑。

 ちなみにこの立石様は発掘調査が行われており、周辺の地下に古墳の石室や石棺の痕跡はなく、この地点が古墳ではないことが判明しています。

 ただし、この石が古墳築造を目的として房総の鋸山の海岸部から運ばれた房州石であることはほぼ間違いないとされ、近隣に存在した「南蔵院裏古墳」の石室の構築石材が立石様の正体である可能性が高い…」と想定されているようです。つまり、別の場所にあった古墳の石材がこの場所に運ばれて、古代東海道の道標として再利用されたと想定されているようです。

 果たして春日神社のどこに古墳があったのか、禁足地の地点が埋葬施設にあたるのか、とても興味深いところです。。。


中原区「宮内古墳」7

 境域を同じくする、春日神社に隣接する「常楽寺」です。
 まんが寺として有名なお寺であるそうですが、不覚にも当日の私は勉強不足でスルーしてしまいました。


中原区「宮内古墳」8

 いつかもう一度訪れた際には、常楽寺の方もゆっくりと見学したいと考えているのですが、それはまたいずれ。。。

【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-190.html(『立石様』平成26年1月12日)

<参考文献>
山田蔵太郎『川崎誌考』
川崎市民ミュージアム『加瀬台古墳群の研究Ⅰ』
現地説明板


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  1. 2020/06/23(火) 23:10:47|
  2. 川崎市の古墳・塚
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「黄金塚古墳」

中原区「黄金塚古墳跡」2

 「黄金塚古墳」は、川崎市中原区宮内1丁目に所在したといわれる古墳です。

 この古墳は学術的な調査が行われていないため、古墳の規模や埴輪、葺石の存在、また埋葬施設についての詳細はわからないようですが、聞き取り調査により、大正10年の多摩川河川工事に際して破壊されたことがわかっているようです。

 出土品についても不明で、正確な位置も分からなくなっているようですが、跡地と考えられる周辺に「遺跡 こがね塚」と刻まれた石碑が建てられています。

 画像は北西から見た「遺跡 こがね塚」の石碑です。。。


中原区「黄金塚古墳跡」1

 この石碑が建てられている場所は、道路が微妙に弧を描くようにカーブしています。

 ひょっとしたら、かつて存在した古墳を避けるように造られた道路で、この石碑の地点が古墳の跡地なのではないかと妄想してしまいますが、どうなのかな。。。





川崎市「小金塚古墳」
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1190167&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年(1947)7月9日に米軍により撮影された「遺跡 こがね塚」の石碑の所在地周辺の空中写真です。

 何かが存在したのではないか!と想像したくなるような地形ですが、これが当時残存する古墳であるか否かは判然としません。
 う〜ん。古墳、ここにあったんじゃないかな。。。


中原区「黄金塚古墳跡」3

 塚の様子。

 この小さな塚の西側に露出している断面が、古墳に見られる版築っぽくも見えるのですが、私の妄想かもしれませんし、なんとも言えません。

 『川崎地名辞典(上)』によると、古墳は「古代前期」のものであったと伝えられているそうですが、その根拠もわからないままでした。。。

<参考文献>
川崎市民ミュージアム『加瀬台古墳群の研究Ⅰ』
日本地名研究所『川崎地名辞典(上)』
川崎市教育委員会『川崎の遺跡』


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  1. 2020/06/21(日) 23:00:07|
  2. 川崎市の古墳・塚
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「クマモリ古墳」

 私が最初に川崎市内の古墳を散策したのは10年近く前になります。
 見て廻った古墳については、後で図書館でいろいろと調べてみたりするわけですが、この際に「クマモリ古墳」という名称がしばしば目につきました。この名称は複数の発掘調査報告書に見られ、分布図に古墳の位置が記されている書物も複数存在します。ところが、発掘調査が行われていないからか、埋葬施設や埴輪、葺石の有無、古墳の規模など詳細は何もわからず、また古墳にまつわる由来や伝承等もわからず、何よりも不思議なことに、川崎市教育委員会より発行された『川崎の遺跡』にもこの古墳は未登録という、実体のまったくわからない古墳でした。

 結局、最初に散策した10年ほど前にはこのクマモリ古墳は見学しませんでした。。。

 その後、一昨年になってもう一度川崎市内の古墳を散策してみようと思い立ち、このクマモリ古墳の存在を思い出しました。ところが、見学に先立ってあらためて調べてみても、残存する古墳ではあるらしいもののやはり詳細はほとんど何もわかりません。

 というわけで、ほとんど何もわからないまま自分の目で確かめるために行ってみた、というのが、今回のクマモリ古墳の探訪の記録です。


「クマモリ古墳」1

 画像は、川崎市高津区久本2丁目に所在する「龍台寺」です。

 クマモリ古墳の所在地が記されている報告書の分布図とGoogleマップを見比べると、このお寺の本堂の背後が、東に向かって半島状に突き出るような形状の舌状台地となっており、その台地の先端に小さな神社と思しき鳥居と祠が確認できます。

 ちなみにこの舌状台地の西側は「久保台古墳群」と呼ばれる地域で、これまで発掘調査により4基の古墳が確認されています。立地的には古墳の存在の可能性は十分に考えられます!


「クマモリ古墳」2

 画像が龍台寺の本堂のようすです。
 左奥が舌状台地の先端にあたる場所で、すでに神社の祠が見えています。
 古墳らしく盛り上がっているようにも見受けられますが、これがクマモリ古墳なのでしょうか。。。


「クマモリ古墳」3

 ズームしてみたところ。
 下から見上げているので古墳らしく見えますが、台地の周囲は削られて地形が改変されているようですし、なんとも言えません。


「クマモリ古墳」4

 祠の南側から階段が設けられています。
 こちらから見ると、古墳らしきマウンドの存在は見られないようです。


「クマモリ古墳」5

 階段を登ってみたところ。
 平らに整地されているようです。

 ホントに古墳かな。。。


「クマモリ古墳」6

 台地の上から見下ろしてみたところ。
 この角度から見ると、円形の古墳の墳丘を平らに削って祠を建てたようにも思えますが、確信は持てません。





「クマモリ古墳」7

 さらに高いところから見下ろしたところ。この角度から見ると、山の斜面に築造された円墳を削って祠を建てた、という風にも思えます。

 古墳が存在するとすれば、やはりこの神社の地点しか考えらえないように感じましたが、最後までこの場所が古墳であるのか確信は持てませんでした。。。
 (ちなみに、クマモリ古墳の位置を記した分布図が掲載されている報告書は2、3冊は存在した記憶があるのですが、複写した資料を不覚にも紛失してしまって、参考文献として掲載することができまでん。これはまたいつか、川崎の図書館を訪れた際の宿題にしようと思います。。。)


高津区№122古墳1

 クマモリ古墳からさらに西側に登った台地上に、高津区の№122遺跡として2基の古墳が登録されています。
 この2基がどうやら「久保台古墳群3号墳」と「4号墳」となるようなのですが、『末長向台遺跡第3地点・末長向台古墳群』によると、3号墳は外径16m、内径14mの円墳で、「上面を削平されているが、比較的に遺存状況は良好である。」ということのようです。出土した遺物により6世紀中葉の築造と推定されています。

 画像は、正確な場所がわからないので確信はありませんが、3号墳かな?と思われる地点です。


高津区№122古墳2

 4号墳も正確な位置が不明なのですが、このあたりなのでしょうか。。。
 外径で南北16.8m、東西22.25mの円墳で、出土した遺物が5世紀第1〜第2四半期の所産と考えられているようです。

【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-999.html

<参考文献>
有限会社 吾妻考古学研究所『末長向台遺跡第3地点・末長向台古墳群』


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  1. 2020/06/19(金) 21:25:18|
  2. 川崎市の古墳・塚
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「子母口富士見台古墳」

高津区「子母口富士見台古墳」1

 「子母口富士見台古墳」」は、川崎市高津区子母口に所在する古墳です。
 『川崎の遺跡』には高津区の№98遺跡として「古墳」として登録されています。

 この子母口富士見台古墳とその周辺地域一帯は、野川にある古刹「影向寺」周辺とともに、武蔵国橘樹郡の郡衙推定地として想定されている地域です。また南東には神奈川県指定史跡である「子母口貝塚」も残されています。

 この古墳には、古くから弟橘媛にまつわる伝承が伝えられています。
 古墳から南に200mほどの場所に「橘樹(たちばな)神社」があります。この神社の社伝によると、日本武尊東征の際、尊の身代わりに海中に身を投じた弟橘媛の御衣・御冠がこの地に漂着したと伝えています。
 また、『古事記』でも「かれ七日ありて後に、其の后の御櫛海辺によりたりき。すなわち其の櫛を取りて御陵を作りて治め置きき」と伝えています。
 この社伝と古事記の記述とが結びつき、御陵とされてきたのがこの子母口富士見台古墳となるそうです。
 どこまでが史実であるのか真偽はわかりませんが、とても興味深い伝承です。。。


高津区「子母口富士見台古墳」2

 北東から見た子母口富士見台古墳。
 道路に面した墳丘北側の部分が大きく削られて変形しまっています。
 現地説明板によると、現在の規模は墳径は17.5m、高さ3.7mを測りますが、築造当初はかなり大きな円墳であったと想定されているようです。


高津区「子母口富士見台古墳」3

 墳頂部の様子。
 まるで、富士塚の噴火口のような窪地が見られます。


高津区「子母口富士見台古墳」4

 村田文夫氏は、著書『川崎・たちばなの古代史』のなかで、興味深い仮説を立てています。
 明治、大正、昭和と現代の地図を見比べたときに、昭和4年の地図の子母口富士見台古墳の位置に盛土(塚?)を示す地図記号が見られ、現代の墳頂部の標高が38.9m、これに対して明治14年の地図では同じ地点の標高が30m余りで、大きな差があることから、子母口富士見台古墳は明治14年以降、昭和4年までの間に築造された盛土の可能性が高いのではないかと推測しています。
 実際に、道路の敷設工事により墳丘を削った際に、古墳に見られる版築の跡が見られなかったともいわれています。
 このあたりの真相を知るには、今後の調査の進展を待たなければなりません。。。





高津区「橘樹神社」1

 古墳の見学後、橘樹神社を参拝しました。

 子母口富士見台古墳や橘樹神社の周囲は閑静な住宅街ですが、かつては武蔵国橘樹郡の郡衙として栄えていたわけですよね。実際に現地を散策して、地形を味わいながら様々な妄想をするのが楽しみの一つでもあるのです。。。


高津区「橘樹神社」2

 橘樹神社の社殿です。
 今現在は大きな神社ではありませんが、かつては橘樹郡の総社であったと考えられている、歴史のある神社です。


高津区「橘樹神社」3

 橘樹神社境内で見かけた塚です。
 「日本武の松」と「橘比免之命神廟」と刻まれた2基の石碑が建てられているのですが、パッと見が富士塚か御嶽塚かなという印象なので、びっくりしました。笑。
 

高津区「子母口貝塚」1

 画像は「子母口貝塚」です。
 子母口公園として整備、保存されており、子母口富士見台古墳から南東に徒歩4~5分ほどとかなり近い位置にあります。

 縄文時代早期後半である約7,000年前のもので、多摩丘陵上で最も古い貝塚として知られているそうです。また、子母口貝塚は、関東の縄文土器編年約50型式の一つ「子母口式」の標式遺跡ともなっているそうです。
 子母口貝塚は、元々は東西約100m、南北約150mの台地の範囲に4つの地点をもつ貝塚の総称で、そのうち2地点が現存しているそうです。


高津区「子母口貝塚」2

 敷地内には「貝層の断面標本と発掘調査のあゆみ」という説明板が設置されています。
 よく整備された綺麗な公園ですね。。。

<参考文献>
村田文夫『川崎・たちばなの古代史』
現地説明版


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  1. 2020/06/14(日) 20:08:02|
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「千年伊勢山台古墳」

高津区№94 千年伊勢山台古墳1

 「千年伊勢山台古墳」は、川崎市高津区千年に所在する古墳です。

 『川崎の遺跡』には、高津区№94遺跡として登録されている古墳ですが、発掘調査が行われていないため、埋葬施設や周溝などの詳細はわかりません。昭和42年(1967)に発行された『川崎市文化財調査集録』の「川崎市の古墳(一)」に、この千年伊勢山台古墳についての記述が見られます。
 「伊勢山台と呼ばれる標高約40メートルの丘陵東北端に地形を利用して築造された古墳で、正式な地番は川崎市千年伊勢山台四四二番地に属している。ここは影向寺台から連続している舌状台地で、古墳は台地の最末端部に位置しているため、崖崩れによって約五分の三が破壊されてしまった。附近は畑地で西側の墳麓も耕作のため若干削られている。高さ二・二メートル、墳径約一二・五メートルの小円墳である。」

 画像が、千年伊勢山台古墳の所在地と思われる地点です。
 「崖崩れが起こった舌状台地の先端」ということで、おそらくこの高まりが千年伊勢山台古墳の5分の2ほど残された墳丘ではないかと思われます。マウンドの裾のあたりにフェンスが設置されており、フェンスの奥は1mほどでほぼ垂直に近いような崖になっています。


高津区№94 千年伊勢山台古墳2

 この周辺は、古墳よりも橘樹郡衙推定地として知られており、古墳から南に100mほどの地点には、「たちばな古代の丘緑地」として千年伊勢山台遺跡の一部が保存されています。
 川崎市内初の国指定史跡です。。。


高津区№94 千年伊勢山台古墳3

 実際、石碑と説明板以外に見るべきものはないのですが、とりあえずゆっくりくつろげます。
 私はこのころはまだタバコを嗜んでいましたので、プカ~~~ッと一服しました。

 日陰がないので、真夏の炎天下では死ぬかもしれません。。。笑。

 古代の川崎市役所ともいえるこの一帯は、平成10年度から発掘調査が続けられており、伊勢山台から影向寺方面にかけて橘樹郡衙に関連すると推定される掘立柱建物跡などが発見されています。
 橘樹郡衙推定地の北西には、古墳時代の川崎を支配していた豪族の墓とされる「西福寺古墳」や「馬絹古墳」があり、この豪族の拠点がこの橘樹郡衙推定地周辺であると考えられているようです。


高津区№94 千年伊勢山台古墳5

 この緑地内から発見された「千年伊勢山台2号古墳」がこのあたりです。
 すでに墳丘は削平されて消滅していたようですが、発掘調査により推定径20mほどの周溝が検出されています。

 東京都内では、府中市内に置かれた武蔵郡衙が、高倉古墳群と白糸台古墳群の間の古墳がまったく存在しない地域に造られているようなのですが、この橘樹郡衙は、それ以前に存在した古墳群をブッ壊して、その上に造られているわけですよね。
 この違いはとても興味深いです。。。


高津区№94 千年伊勢山台古墳4

 緑地の北東隅には「橘樹郡衙跡」と刻まれた石碑が建てられています。
 ちなみに緑地の南西側には、橘樹郡衙推定地と周辺の関連する周辺の文化財について解説された説明板が設置されています。


高津区№94 千年伊勢山台古墳6

 画像中央のあたりからも古墳の周溝が検出されています。
 古墳の名称を確認できなかったのですが、「千年伊勢山台3号古墳」ということになるのでしょうか。。。


高津区№94 千年伊勢山台古墳7

 画像の地点からは「1号方形周溝墓」が確認されています。
 方台部が東西に7.3m、南北は5.6mまで確認されており、方台部中央西寄りからほぼ完存する主体部が検出されています。


高津区「影向寺」1

 「橘樹郡衙跡」の見学後しばらくして、「影向寺(ようごうじ)」に立ち寄りました。
 宮前区野川の影向寺台に所在する南武蔵きっての古刹で、この丘陵を東に進むと千年伊勢山台に至ります。
 影向寺は天台宗に属するお寺で、『影向寺仮名縁起』によると、天平11年(739)に西武天皇の発願により僧行基が開基したと伝えられており、風土記稿には境内に置かれた影向石に記述が、また名所図会には影向石が描かれています。


高津区「影向寺」2

 画像は影向寺の本堂です。
 影向寺境内から採集された古瓦の中には奈良時代のものが含まれており、このお寺の創建が縁起に近い、白鳳時代(7世紀末)にまで遡ることが明らかになっています。


高津区「影向寺」3

 画像は「太子堂」です。
 疾病消除の祈願が込められた聖徳太子孝養像(鎌倉時代後期)が安置されており、毎年11月3日の縁日には、聖徳太子を祀るお祭りがおこなわれるそうです。


高津区「影向寺」4

 画像は「影向寺の乳イチョウ」です。
 乳柱を削って汁を飲むと乳が出るようになるという伝説があり、影向寺の絵馬には乳しぼりの図柄が多いそうです。
 堂々たる古木で、樹齢は2000年に達するものもあるといわれています。


高津区「影向寺」5

 私はむしろ、境内にこんな築山があると、「まさか古墳では?」と気になって仕方がないのです。笑。。。


高津区「影向寺」6

 影向寺境内の東南隅にある影向石です。
 縁起でいう霊石にあたるものですが、実際の用途は塔の心礎であろうといわれています。


高津区「影向寺」7

 説明板には次のように書かれています。

 影 向 石
 当寺のいわれとなった霊石。奈良朝に本
寺創建のとき、ここには美しい塔が建てら
れ、その心礎として使用されました。心礎
には仏舎利が納められ、寺院の信仰の中心
となります。「影向」とは神仏の憑りますと
ころのことで、寺域は太古より神聖な霊地
神仏のましますところとして、信仰されて
いたものでしょう。幾星霜をへ、塔が失わ
れた以降、この影向石のくぼみには常に霊
水がたたえられて乾くことなく、近隣から
眼を患う人々が訪れて、その功験によって
いやされました。江戸のはじめ万治年間に
薬師堂が火を蒙ると、本尊薬師如来は自ら
堂を出でて、この石の上に難をのがれたと
いわれ、それ以来、栄興あるいは養光の寺
名を影向とあらためたと伝えれらます。
   昭和五十一年五月吉日
           重要文化財保存会






高津区「庚申塚」1

 庚申塚。影向寺の北西200メートルほどの地点に所在します。
 ギリギリ、第三京浜に壊されずに残ったのか、それとも壊された末にこの場所に移されたものか詳細はわかりませんが、塚が存在することに心踊ります。笑。


高津区「庚申塚」2

 北から見たところ。


高津区「庚申塚」3

 塚の上には3基の石塔が建てられています。。。

<参考文献>
伊東秀吉「川崎市の古墳(一)」『川崎市文化財調査集録 第3集』
高津図書館友の会郷土史研究部『鎗ヶ崎遺跡発掘調査報告書』
川崎市教育委員会『千年伊勢山台遺跡 第1~8次発掘調査報告書』
川崎市教育委員会『橘樹官衙遺跡群の調査』
現地説明版


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  1. 2020/06/12(金) 20:45:21|
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「塚」その2

大鷲神社と「塚」交差点1

 昨年の8月28日に、三鷹市の「塚」交差点と大鷲神社について取り上げました。

 三鷹市上連雀と境南町との境にあたる、新武蔵境通りと連雀通りが交差する「塚」交差点周辺にはかつて2基の塚が存在したという伝承があり、これは一里塚であったといわれています。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には、1基が江戸往来の接するところに、もう1基が南の林の中にあり、ともに高さは三尺余りの小さな塚であったことが記されています。

 ところがその後、この地域が、多摩地域に存在した尾張藩(尾州)の御鷹場の境界となっていたことがわかってきました。
 大鷲神社の地点に『井口新田 字二ツ塚 5番杭』が、また「塚」交差点付近には『井口新田 字二ツ塚 6番杭』という鷹場の標石が建てられ、いずれも目印に榎の樹が植えられていたそうです。
 鷹場の標石の場所には、目印として、規模にして2間四方、高さ6〜7尺(2m程度)ほどの塚が築かれていたといわれています。


大鷲神社と「塚」交差点2

 画像は、三鷹市井口1丁目所在の大鷲神社を南東から見たところです。
 神社の敷地が周囲と比べて一段高くなっています。どうやらここは一里塚の跡地ではなく、尾張藩お鷹場境界杭が設置された「御鷹場塚」の跡地である可能性が考えられるようです。
 東京都内においては、御鷹場塚は残存しないと思われますので、この大鷲神社の高まりが御鷹場塚の痕跡であれば、かなり貴重な存在かもしれません。。。


大鷲神社と「塚」交差点3

 北西から見た大鷲神社。
 ちなみにこの場所に設置されていた『井口新田 字二ツ塚 5番杭』は、現在は東大和市在住の個人宅内に保管されているそうです。そして、「塚」交差点付近に建てられていた『井口新田 字二ツ塚 6番杭』がこの場所に移され、現在は祠の中に収められているそうです。
 この6番杭を見学できないものかと、大鷲神社を再訪したのですが。。。


大鷲神社と「塚」交差点4

 祠は施錠されており、6番杭を見学することはできませんでした。
 残念。。。

 三鷹市の「三鷹」の名称のそもそもの謂れは、明治22年にそれまでの十ヵ村を合わせて三鷹村となるわけですが、合併前の村々が徳川時代に幕府の鷹場村となっており、野方、府中、世田谷の三領に含まれていたことから三鷹村と名付けたそうです。その後は昭和15年に三鷹町、昭和25年に三鷹市となり、「三鷹」の名称がそのまま引き継がれています。


大鷲神社と「塚」交差点5

 鳥居の横に建てられている「大鷲神社」の碑。
 この背面に神社の由緒が刻まれており、鷹場の標石や塚についてもふれられています。


大鷲神社と「塚」交差点6

由緒
弊社ハ縁起不詳ナルモ江戸中期創建ト相伝フ当所ハ元二

ツ塚跡及徳川尾張公鷹場碑ノアリシ跡ニシテ祠ト供ニ約

三十間東方ニアリ明治初年道路改修ノ爲塚ハ撤去シ祠ハ

現位置ニ移ス尚祠内ニ鷹場碑破片ヲ蔵ス 連雀二ツ塚ハ

江戸中期ヨリ明治初期頃迄宿場トシテ繁栄シ近郷ニ聞エ

前方南北ニ通ズル道路ハ旧鎌倉街道ト伝フ 遺跡ヲ後世

ニ伝ル爲講者相寄リテ之ヲ建  昭和三十三年五月吉日



大鷲神社と「塚」交差点7

 「塚」交差点周辺の様子です。
 大鷲神社の由緒からすると、元二ツ塚(一里塚)と徳川尾張公鷹場碑の跡があったのはこのあたりになると思われます。大鷲神社の三十間東方ということですから、交差点の北西角あたりが跡地になるのかもしれません。痕跡は何も残されていないようです。
 この地域は、一里塚と御鷹場塚という、少なくとも3基の塚が混在する塚の密集地帯だったことになるわけで、交差点名やバス停の名称をあえて「塚」としているのも、そういうことなのかもしれませんね。。。

 鷹場に取り込まれると農民は様々な法度にしばられますし、領主の支配のみならず将軍や大名の支配のもとで御用を務め負担を請け負わなければならないということで、実はあまり歓迎すべきことではなかったようです。そりゃあ昔も今も、いろいろあるわけですよね。。。


大鷲神社と「塚」交差点8

 三鷹市内には、ほかに3基の鷹場の標石が残されています。
 早速この3基の標石も、見学に巡ってみました。。

 画像は、野崎2丁目の吉野家門前に保管されている鷹場標石です。
 土地の所有者に許可を得て見学させていただきました。


大鷲神社と「塚」交差点9

 山角角柱形で「従是西北尾張殿鷹場」と刻まれています。
 吉野家でお聞きしたところでは、かつては南のほうの林の中にあったそうです。おそらくはかつて人見街道と古道が交差する、現在の「野崎」交差点の西側あたりであったと思われますが、正確な位置は不明です。。。


大鷲神社と「塚」交差点10

 吉野家の敷地内で見かけた謎の塚状地形。
 びっくりして「まままままさか御鷹場塚の名残ですか?それとも古墳?」とお尋ねしてみましたが、実はお庭の築山だそうでした。笑。





大鷲神社と「塚」交差点11

 標石は三鷹市の文化財として指定されています。
 敷地内には三鷹市教育委員会による説明板が設置されています。


大鷲神社と「塚」交差点12

 大沢2丁目の長久寺境内に保管されている鷹場標石。
 たくさんの石造物の中に鷹場の標石が見られます。


大鷲神社と「塚」交差点13

 山角角柱形で「従是西北尾張殿鷹場」と刻まれています。


大鷲神社と「塚」交差点14

 標石は三鷹市の史跡として指定されています。
 敷地内には三鷹市教育委員会による説明板が設置されています。


大鷲神社と「塚」交差点15

 野崎1丁目、三鷹市役所の敷地内で公開されている標石。
 破損もなく、台座まで見られる珍しいものです。
 大沢2丁目の長久寺所有のもので、ここに移設されています。


大鷲神社と「塚」交差点16

 山角角柱形で「従是西北尾張殿鷹場」と刻まれています。

【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1014.html

<参考文献>
三鷹市教育委員会『てくてく・みたか 市内歴史散歩』
多摩中央信用金庫「特集 御鷹場(1)」『多摩のあゆみ 第50号』
三鷹市教育委員会『みたかの石造物』


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  1. 2020/06/10(水) 23:24:28|
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「青梅市№90遺跡(河辺古墳群)」

「青梅市№90遺跡(河辺古墳群)」

 「河辺古墳群」は、青梅市河辺町3丁目に存在したとされる古墳群です。
 『東京都遺跡地図』には、青梅市の遺跡番号90番の遺跡として登録されています。

 この古墳は、明治年間に耕地拡大のために発掘されたもで、小さな墳丘を持つ「内部は石垣で石室のごときものを認め」られる「3基の古墳と思われるもの」が確認されており、2基からは直刀と思われるもの、そのうちの1基は須恵器のごとき壺が出土したといわれています。直刀は神社の庭に埋められ、また壺は他所に持ち去られたといわれ、所在はわからなくなっているようです。

 これまで、発掘調査により確認された古墳で多摩川左岸において最も上流にあるとされているのは、昭島市の「浄土古墳群 」ということになると思われますが、もしこの河辺古墳群の存在に間違いがなければ、多摩川流域で最も上流にある古墳群ということになります。またそうなると、これまで古墳が確認されていない福生市や羽村市内に古墳が存在しなかったのかというところも気になるところです。

 青梅市内の古墳はすべて学術的な調査が行われないまま消滅してしまっており、詳細はわからないのですが、河辺古墳群と呼ばれる3基の古墳とは別に、現在の青梅市立総合病院と同じ一段高い段丘上南端部からも、かつて古墳が発見されたとも伝えられているようです。
 これらの伝承からすると、多摩川流域の最も上流に所在する古墳は、この河辺町周辺ということになりそうです。果たして青梅市内に古墳が存在したのかどうか、今後の調査の進展が楽しみな地域です。。。


青梅市「春日神社」

 画像は、河辺古墳群と同じ青梅市河辺町3丁目に所在する「春日神社」です。
 古墳から発掘された直刀は、のちに神社の庭に埋められたといわれています。
 これがどの神社に埋められたのかは不明なのですが、時間の許す限り周辺の神社を参拝しました。。。


青梅市「石神社」

 画像は、東青梅4丁目の「石神社」です。
 この神社は青梅市立総合病院の建設により西に移転したそうですが、市立総合病院と同じ段丘上南端部からも古墳が発見されているといわれています。
 この神社が古墳と何か関係があるということはないのでしょうか。。。


青梅市「大山道の道標」

 石神社の分かれ道にあるのが「大山道の道標」です。
 大日如来塔で、「右 大山八王子道 左 箱根 所沢道」と彫られています。

 う〜ん。こういう分かれ道の間の三角地、怪しい。。。笑。

<参考文献>
青梅市史編さん実行委員会『定本市史 青梅』
青梅市役所『定本市史青梅』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』


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  1. 2020/06/07(日) 23:09:18|
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