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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「白旗塚古墳」ー東京都指定史跡ー

足立区「白旗塚古墳」1

 画像は、足立区東伊興3丁目に所在する「白旗塚史跡公園」です。

 この付近一帯には、かつてはかなり多くの古墳が存在したと伝えられており、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の伊興村の項には摺鉢塚、聖塚、甲塚、船山塚などの古墳らしき塚の名称が、また『日光道中分間延絵図』には兜塚、二本松塚、擂鉢塚、駒形塚、庚申塚のほか、無名称の古墳らしき3基の塚が記されています。
 しかし、戦後の開発により多くの塚は取り壊され、伊興古墳群中唯一残存する「白旗塚古墳」が、この公園内に保存、公開されています。

 『東京都遺跡地図』には足立区の遺跡番号10-1番に登録されている古墳です。


足立区「白旗塚古墳」2

 現在の白旗塚古墳です。

 『新編武蔵風土記稿』にはこの古墳について、「白幡塚(伊興村)東ノ方ニアリ、此塚アルヲ以テ白幡耕地ト字セリ、塚ノ除地二十二歩百姓持ナリ、上代八幡太郎義家奥州征伐ノ時、此所ニ旗ヲナビカシ、軍勝利アリシトテ此名ヲ傳ヘシ由、元来社地ニシテ祠モアリシナレト、此塚ニ近寄ハ咎アリトテ、村民畏レテ近ツカザルニヨリテ、祠ハ廃絶ニ及ベリ、又塚上ニ古松アリシガ、後年枯テ大風ニ吹倒サレ、根下ヨリ兵器其数多出タリ、時ニ村民来リ見テ件ノ兵器ノ中ヨリ、未ダ鐵性ヲ失ハザル太刀ヲ持帰テ家ニ蔵セシガ、彼祟ニヤアリケン家挙ゲテ大病ヲナヤメリ、畏レテ元ノ如ク塚下ニ埋メ、シルシノ松ヲ植継シ由、今塚上ノ両株是ナリト云、今土人コノ松ヲ二本松ト號ス、太サ一囲半許。」と記されています。

 やはり、東京都内で古墳が壊されずに残されるためには、祟りの伝説の存在は大きいなあとあらためて感じてしまいます。。。


足立区「白旗塚古墳」3

 南から見た白旗塚古墳。
 古墳の周囲には壕が掘られています。学術的な調査は行われていないようですし、地中に存在するはずの周溝や遺物は残されているのだろうかと多少心配になります。

 公園内に設置された説明板には次のように書かれていました。。。

東京都指定史跡
 白旗塚古墳
       所在地 足立区東伊興三の一〇の一四
                白旗塚史跡公園内
       指 定 昭和五〇年二月六日
 この付近の毛長川南岸の自然堤防上に
は、擂鉢塚古墳、甲塚古墳、白旗塚古墳な
ど七基からなる白旗塚古墳群が形成され
ていたとされますが、現存するのは白旗
塚古墳のみです。足立区教育委員会が擂
鉢山古墳や甲塚古墳の推定地域を調査し
ていますが、確認までには至っていませ
ん。擂鉢塚古墳から出土したとされる馬
形・円筒埴輪から白旗塚古墳群の築造は
六世紀と推定されます。
 白旗塚古墳は直径一二メートル、高さ
約2•5メートルの円墳ですが、未調査の
ため主体部の構造や古墳の年代はわかっ
ていません。白旗塚という名の由来は源
頼長、義家父子が奥州安部氏の反乱(前
九年の役)の鎮圧にむかう途上にこの地
に白旗を立てたためと言われています。
平成二三年三月 建設
          東京都教育委員会



足立区「白旗塚古墳」4

 墳丘上の様子です。
 かつては祟りがあるということで、塚の上に登ることも禁止されていたそうで、現在も墳丘へ渡る橋は存在はするのですが、この橋の入り口はいつも施錠されていて、古墳の上へ渡ることはできません。
 墳丘上には白幡神社の祠が祀られており、その横には石碑が建てられているようです。明治21年に建てられたという「白旗大神」の石碑ではないかと考えられますが、確認することはできませんでした。。。


足立区「白旗塚古墳」5

 公園内に設置された、人形埴輪と家形埴輪のレプリカ。
 設置されてある程度の時間が経過すると、レプリカも良い味を出してきますね。。。


足立区「白旗塚古墳」6

 馬形埴輪。


足立区「白旗塚古墳」7

 船形埴輪です。


足立区「白旗塚古墳」8

 これ、なんだろうと思いながら撮った一枚。
 あとで調べたら、東西南北を示す古代文字を記したオブジェなんだそうです。


足立区「白旗塚古墳」9

 白旗塚史跡公園の東側の風景。
 画像の周辺にあたる、公園に隣接した調査区からは形象埴輪片を含む、多数の円筒埴輪片が確認されているようです。これは、白旗塚古墳以外の、まったく知られていない古墳に伴うものである可能性も指摘されています。
 また、白旗塚古墳の西側道路上の調査区では耳環が一点確認されており、これも古墳に伴うものであることが推定されています。
 おそらくは想像するよりもずっと多くの古墳が存在した、大きな古墳群であったのではないかとも思われますが、真相は今後の調査の進展を待たなければなりません。。。

<参考文献>
東京都足立区役所『新修 足立区史 上巻』
足立区伊興遺跡調査会『毛長川流域の考古学的調査』
足立区伊興遺跡調査会『足立区北部の遺跡群』
足立区教育委員会『ブックレット足立風土記10 伊興地区』
現地説明版


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  1. 2020/08/30(日) 21:00:55|
  2. 足立区/伊興古墳群
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「甲塚古墳」

足立区「甲塚古墳」

 「甲塚古墳」は、足立区東伊興3丁目に所在したとされる古墳です。
 『東京都遺跡地図』には足立区の遺跡番号10-2番に登録されています。

 この甲塚古墳は、前回紹介した「摺鉢塚古墳」と同様に「白旗塚古墳群」に属するとされる古墳です。『新修 足立区史 上巻』によると、旧番地の伊興町白旗977番地に所在したといわれる円墳で、松が二本あったことから「二本松」とも呼ばれていたようです。

 この甲塚古墳も、摺鉢塚古墳同様に開墾によって失われており、古墳の痕跡はすでに失われて見ることができませんでした。。。

<参考文献>
東京都足立区役所『新修 足立区史 上巻』
足立区伊興遺跡調査会『毛長川流域の考古学的調査』
足立区伊興遺跡調査会『足立区北部の遺跡群』


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  1. 2020/08/29(土) 18:02:51|
  2. 足立区/伊興古墳群
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「摺鉢塚古墳」

足立区「摺鉢塚古墳」

 「摺鉢塚古墳」は、足立区東伊興3丁目に所在したとされる古墳です。
 『東京都遺跡地図』には足立区の遺跡番号10-3番に登録されています。

 「白旗塚古墳群」は、足立区内で唯一現存する「白旗塚古墳」を含む、東伊興町に所在する古墳群です。かつては複数基の古墳の存在が知られており、江戸時代の『日光道中分間延絵図』には「兜塚」「二本松塚」「擂鉢塚」「駒形塚」「庚申塚」のほか、無名称の古墳らしき3基の塚が描かれています。
 多くの古墳は開墾によって失われてしまうことになるわけですが、開墾以前には毛長川に臨む自然堤防の縁辺部と並行して存在したと推定されています。

 画像は、摺鉢塚古墳の推定地とされる周辺の様子です。
 昭和42年に発行された『新修 足立区史 上巻』によると、旧番地で伊興町白旗984番地に所在したといわれる円墳で、塚の周囲が高く、中央部に凹みがあることから「摺鉢塚」と呼ばれていたようです。
 『足立区北部の遺跡群』では画像の右側あたりを、『毛長川流域の考古学的調査』では画像の左側あたりを跡地としているようですが、現在も古墳の位置は未確認であり、正確な所在地はわからなくなっているようです。


足立区「摺鉢塚古墳」

 この摺鉢塚古墳は、昭和39年(1964)に行われた土地改良事業により古墳が所在した白旗耕地が削られ、埋め立ての土に利用されました。

 この埋め立て地からは多数の円筒埴輪の破片や人物像4体、馬の頭部、大刀の破片などが採集されています。
 その一部は、伊興遺跡公園の展示館内で見学することができます。

 確認された埴輪片は、摺鉢塚古墳に伴うものである可能性も十分に考えられますが、胎土や焼成方法があまりにも違いすぎることから、摺鉢塚古墳以外にも名も知らレテいない古墳が複数存在して、群集墳をなしていた可能性が強いと考えられているようです。

<参考文献>
東京都足立区役所『新修 足立区史 上巻』
足立区伊興遺跡調査会『毛長川流域の考古学的調査』
足立区伊興遺跡調査会『足立区北部の遺跡群』


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  1. 2020/08/27(木) 22:41:24|
  2. 足立区/伊興古墳群
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「聖塚古墳」

足立区「聖塚古墳」

 「聖塚古墳」は、足立区東伊興1丁目に所在したとされる古墳です。
 『東京都遺跡地図』には足立区の遺跡番号5番に登録されています。

 この古墳について、昭和42年に発行された『新修 足立区史 上巻』には「〈伊興町聖堂三八二番地〉面積約二三平方メートル(七坪)、円墳。」と書かれています。
 その後、昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』には所在地が「東伊興町9付近」、墳形について「円墳」と書かれていますが、すでにこの時点で湮滅していたようです。土師器、須恵器、土錘、石製模造品が出土しているようなので、古墳の存在は間違いないものと考えられますが、正確な所在地はわからなくなっているようです。


足立区「聖塚古墳」2
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1180685&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年(1947)に米軍により撮影された聖塚古墳跡地周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。

 古墳かな?と思えるような形状は複数見られます。
 中央右上あたりには、前方後円墳かとも思える気になる形状の地形も見られます。

 『足立区史』や『都心部の遺跡』に記されている旧番地の住所と古地図、空中写真を照らし合わせれば跡地が特定できるのではないかと考えましたが、旧番地が記されている古地図が入手できず、この上空から撮影した写真のみでは聖柄塚古墳の正確な所在地を特定するのは難しそうです。
 私は、中央からやや左上の三日月のような形状を聖塚の残骸と想定しましたが、そうするとちょうどコンビニのあたりが跡地となるかもしれません。

 いずれ発掘調査が行われれば、古墳の周溝はまだ地中に残されているのではないかとも考えられますし、今後の調査の進展を待ちたいですね。。。

<参考文献>
東京都足立区役所『新修 足立区史 上巻』
足立区伊興遺跡調査会『毛長川流域の考古学的調査』
足立区伊興遺跡調査会『足立区北部の遺跡群』


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  1. 2020/08/26(水) 20:00:53|
  2. 足立区/伊興古墳群
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「船山塚古墳」

足立区「船山塚古墳」2

 「船山塚古墳」は、足立区東伊興2丁目に所在したとされる古墳です。
 『東京都遺跡地図』には足立区の遺跡番号12番に登録されています。

 昭和42年に発行された『新修 足立区史 上巻』には「〈伊興町谷下三七四番地〉面積約一二九平方メートル(三十九坪)、円墳。谷下堤に接している。」と書かれています。
 その後、昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』には所在地が「東伊興町谷下55・56付近」、墳形について「円墳」と書かれていますが、すでにこの時点で湮滅していたようです。


足立区「船山塚古墳」1
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1180685&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年(1947)に米軍により撮影された船山塚古墳跡地周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。

 足立区伊興遺跡調査会より発行された『毛長川流域の考古学的調査』の分布図と『足立区北部の遺跡群』の分布図はほぼ同じ地点を記しており、戦後の空中写真でもほぼ同じ位置に古墳らしき黒い円形の影が確認できますので、画像の地点が船山塚古墳の所在地と考えて間違いないのではないかと思われます。

 ほとんど民家も見られない一面に広がる農地に、おそらくは草ぼうぼうであろう古墳がポツンと残されている様子が眼に浮かぶようです。笑。
 「船山塚」という名称からして、前方後円墳であった可能性が考えられるのですが、この空中写真だけではよくわかならいものの、画像の右上の方に向かってとんがったような形状の影がのびているのがみられます。これが「船山塚」の名称の由来なのかどうかは不明ですが、とても興味深い形状です。。。

 低地帯を見下ろす自然堤防上の縁辺部の調査が進めば、この伊興地区の古墳の様相も見えてくるものと思われますし、今後の調査の進展が楽しみですね。。。

<参考文献>
東京都足立区役所『新修 足立区史 上巻』
足立区伊興遺跡調査会『毛長川流域の考古学的調査』
足立区伊興遺跡調査会『足立区北部の遺跡群』


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  1. 2020/08/24(月) 20:44:37|
  2. 足立区/伊興古墳群
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「金塚古墳」

足立区「金塚古墳」

 「金塚古墳」は、足立区東伊興2丁目に所在したとされる古墳です。
 『東京都遺跡地図』には足立区の遺跡番号11番に登録されています。

 この古墳は戦後までは痕跡が残されていたようですが、残念ながら現在は消滅しており、正確な所在地はわからなくなっているようです。
 昭和42年に発行された『新修 足立区史 上巻』にはこの古墳について、「〈伊興町谷下二二五番地〉面積約一三六平方メートル(四十一坪)、方墳(?)。伊興町の北部にある。」と書かれています。
 その後、昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』には所在地が「伊興町谷下51付近」、墳形について「方墳?」と書かれていますが、すでにこの時点で湮滅していたようです。

 この「伊興町谷下225番地」と「伊興町谷下51番地付近」という旧番地での住所と細かい番地が記された古地図、空中写真などを見比べれば、正確な所在地が確認できるのではないかと想定していましたが、古地図が入手できず、所在地を特定するには至っていません。。。


足立区「金塚古墳」
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1180685&isDetail=true)

 足立区伊興遺跡調査会より発行された『毛長川流域の考古学的調査』の分布図で画像の地点を跡地としていたことから1枚目の画像の地点を撮影しましたが、『足立区北部の遺跡群』や現在の『東京都遺跡地図』では、画像のさらに北西の地点を所在地としています。
 しかし私は、金塚古墳の正確な所在地は、この量地点のちょうど間あたり、氷川神社に東側の東伊興2丁目11番地下7番地内なのではないかと想定しています。

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年(1947)に米軍により撮影された金塚古墳跡地周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
 これは私の勝手な憶測ですが、画像の中央に見える場所が金塚古墳の痕跡ではないかと睨んでいます。

 宅地化が進んで痕跡はまったく残されていないようなので、今となっては痕跡を確認することはできません。
 今後の調査の進展を待つしかなさそうですね。。。

<参考文献>
東京都足立区役所『新修 足立区史 上巻』
足立区伊興遺跡調査会『毛長川流域の考古学的調査』
足立区伊興遺跡調査会『足立区北部の遺跡群』


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  1. 2020/08/23(日) 23:02:30|
  2. 足立区/伊興古墳群
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「淵の宮氷川神社(伊興氷川神社古墳)」

「淵の宮氷川神社(伊興氷川神社古墳)」1

 画像は、足立区東伊興2丁目の「淵の宮氷川神社」を南から見たところです。
 「足立区登録記念物(史跡)」として指定されている、足立区内最古の氷川神社です。

 足立区教育委員会により境内に設置されている説明板には、この神社について次のように書かれています。

 氷川神社(淵の宮)
               東伊興二ー十二ー四
 祭神 須佐之男命 大己貴命 櫛稲田姫命
 末社 浅間社 稲荷社 熱田社 白幡社 三峰社
 当社は足立区内最古の氷川社で、往古、淵江領の総
鎮守であった。江戸期に村々の開発がすすむと共に、各
地にも鎮守が祀られ、この社は伊興、竹塚、保木間三村
の鎮守となり、明治五年からは伊興村の村社となった。
 奥東京湾の海中にあった足立区が、陸地化していく
過程で、この附近が最も早く陸地となり、大宮台地あ
たりからの移住者が、武蔵国一の宮である大宮の氷川
神社から分霊を勧請したものと考えられている。当時は
まだこの周辺は淵が入りくんでいたところから「淵の
宮」と呼ばれ、また区内一帯の呼称として、淵江郷、淵
江領が生じたものであろう。
 付近一帯は、古代遺跡で、弥生式土器、土師器、須
恵器、また鏡・勾玉・管玉・臼玉などの祭祀遺物や漁
具として土錘、さらに住居趾、井戸跡など生活遺構が
たくさん出土しており、伊興遺跡といわれる埋蔵文化
財包蔵地を形成している。
 昭和五十七年十二月足立区登録記念物(史跡)とした。
 東京都足立区教育委員会




「淵の宮氷川神社(伊興氷川神社古墳)」2

 この神社は、以前この『古墳なう』でも取り上げた祥伝社新書『東京の古墳を歩く』に「伊興氷川神社古墳」という名称で、古墳として大きく取り上げられています。しかし、不思議なことに『東京都遺跡地図』には古墳としての登録はされていません。
 画像の、社殿の土台が一段高くなっているあたりはとても興味深いところですが、これが古墳の残存部分なのでしょうか?


「淵の宮氷川神社(伊興氷川神社古墳)」3

 この神社の周辺には金塚古墳、船山塚古墳、聖塚古墳といった多くの古墳が存在したといわれる古墳が群衆する地域であり、付近一帯は「伊興遺跡」と呼ばれる、古墳時代前期から後期初頭にかけての祭祀遺跡でもあります。(ちなみに、この神社の道路を挟んで向かい側には、「伊興遺跡公園」とともに展示館が併設されています。)
 つまり、この神社が古墳の跡地であったとしてもなんら不思議のない地域であるわけですが、この神社自体の学術的な調査は行われていないようなので、当然ながら発掘報告書も存在せず、真相はわかりませんでした。

 ただし、伊興遺跡公園内の展示館で配布されていた『七色会』には「神社は古墳の上に立っており、伊興遺跡の中心地でもある」とはっきりと書かれています。ひょっとしたらやはり、この土台の部分が古墳なのかもしれません。


「淵の宮氷川神社(伊興氷川神社古墳)」4

 境内社の浅間神社の祠です。
 いわゆる「浅間塚」ということになるのでしょうか。

 古墳群の真ん中にある神社の境内に二つの塚状地形が存在するという、とても興味をそそる状況です。案外期待を裏切らずに二つとも古墳跡なのではないか?という気もしますが、真相はわかりません。
 今後の調査の進展は要チェックですね。。。


足立区「伊興遺跡公園」1

 お向かいの「伊興遺跡公園」にも立ち寄りました!
 伊興遺跡は遺構や遺物の量があまりにも多く、足立区を驚かせそうです。
 多くの出土品により、この地域の人々は、水田での稲作や川での漁と半農半漁の生活をしていたことがわかっているそうです。

 画像は、公園内に復元された方形周溝墓です。
 説明板には次のように書かれています。

 「古墳の前身をなす弥生時代に出現した墓である。周囲を溝で区切りなだらかな墳墓もあったとされている。稲作農耕の発展に伴いムラムラで力をつけた有力者の墓であり、数体の遺体を埋めた場合もあった。やがてムラムラは統合されて国になり、強力な権力のもとに古墳が造られるようになった。しかし、方形周溝墓そのものは古墳時代になっても造り続けられた。有力者の間でも階級差が発生し、古墳を造りだすことのできない地位の低い有力者の墓と考えられている。遺跡公園で見つかった方形周溝墓もこの頃造られた。」




足立区「伊興遺跡公園」2

 同じく公園内に復元された竪穴式住居。
 説明板には次のように書かれています。

 「竪穴式住居は縄文時代から続いた住居の形で、貴族や武士が瓦葺きや板葺きの高床や、地面に建てた平地式の家屋に住むようになっても、一般庶民のあいだでは10世紀頃まで利用されていた。長く利用されたのは、反地下式なので温度変化を受けにくく、夏は涼しく冬は暖かく感じられたことによるらしい。しかし、水はけがわるく、採光の点でも不便だったようである。
 古墳時代の竪穴式住居の最大の特徴は、それまで楕円形に掘り込んでいるのに対し方形となり、炉にかわり竃が造り付けられたことにある。炉が竃に変わったのは古墳時代の中頃(5〜6世紀)とされるが、伊興遺跡ではこの頃の住居が最も多く見つかっている。」




足立区「伊興遺跡公園」3

 都内だと、各区や市に一箇所くらいは、竪穴式住居が復元された史跡公園が存在しますが、その多くには、住居内に生活の様子が再現されてこうして等身大の人形が置かれているような気がします。
 私は、この等身大の人形はどうにも苦手で、怖いというか気持ち悪いというか何度見ても慣れないのですが、資料館などで、気がつかずに振り返って背後にこの手の人形があるとギョッとしてしまいます。
 あーもうなんだろう。。。


足立区「伊興遺跡公園」4

 展示館の内部の様子。
 無料の展示館ですが、すごい数の土器が展示されています。


足立区「伊興遺跡公園」5

 伊興遺跡公園の地中には、調査することのできなかった多くの遺構・遺物が今も眠っているそうです。
 この周辺の古墳の多くはすでに消滅しており、正確な所在地もわからなくなっています。今後の調査の進展が楽しみな地域です。。。

<参考文献>
足立区教育委員会『ブックレット足立風土記10 伊興地区』
祥伝社『東京の古墳を歩く』
現地説明版


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  1. 2020/08/22(土) 23:57:00|
  2. 足立区/伊興古墳群
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「蓬莱稲荷大明神」

「蓬莱稲荷大明神」1

 今回紹介するのは、足立区竹の塚2丁目に所在する「蓬莱稲荷大明神」です。

 駐車場の奥の木立になっている場所が蓬莱稲荷社で、周囲を石垣で囲まれてはいるものの1mほどの高さの塚が残されており、その塚上に蓬莱稲荷の祠が祀られています。


「蓬莱稲荷大明神」2

 南東から見た蓬莱稲荷です。

 この一帯は、特に遺跡として登録されているというような場所ではないのですが、この近隣にはかつて一里塚が存在したという伝承が残されており、ひょっとしたら何か痕跡が残されていないだろうかと気になっていました。
 それで、竹塚神社や鷲神社の参拝のあとにウロウロと散策したわけですが、おそらく何も収穫はないだろうと想定していたので、この塚を見つけた時にはびっくりしました。
 おそらく一里塚とは無関係で、古墳である可能性もなさそうに思われる塚ですが、宅地化が進んだこの地域においては貴重な存在かもしれません。


「蓬莱稲荷大明神」3

 この角度からだと石段が見えるので、塚の高さが想像できると思います。

 この増田橋の一帯は日光道中の立場(街道の宿場と宿場の中間の小休所)で、江戸時代まではかなり賑わったそうです。そして、増田橋の周辺には「亀屋」という店が何軒かあり、繁盛していたそうです。
 角亀山沢家の屋敷神ともいうべきこの稲荷の祠には「正一位 蓬莱稲荷大明神 角亀 山沢」とあり、亀屋の守り神として手厚く祀られてきたようです。


「蓬莱稲荷大明神」4

 ひょっとしたらここが二の鳥居だったのかもしれませんが、まるでアニメのワンシーンのような、とても幻想的な社ですね。
 真夏に訪れたのが失敗だったのですが、ミンミンゼミが私に向けておしっこを噴射して、ババババっと飛び去って行きました。。。


「蓬莱稲荷大明神」5

 塚上に祀られている祠。

 境内に立て札が建てられていて、「正一位 蓬莱稲荷大明神 当稲荷神社は創建約弍百年位有する社です。大震災や戦争の時や戦後の数多の災害も当地域周辺は平穏無事に守って頂いています。 令和弍年八月 記」と書かれていました。

 この地域の長い歴史を感じます。。。


「蓬莱稲荷大明神」6

 南の駐車場の側から塚上の祠を見たところです。

 偶然に見つけたお稲荷さんでしたが、お参りできてよかったです。。。

<参考文献>
足立区郷土博物館『足立風土記高ー地区編9・渕江』


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  1. 2020/08/21(金) 00:30:52|
  2. 足立区/その他の古墳・塚
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「竹塚神社」


 つい先日、東部伊勢崎線竹ノ塚駅東にある「竹塚神社」から「鷲神社」、花畑の「大鷲神社」あたりまで、ぶらりと御朱印巡りに出かけてきました。

 どこも、古墳や塚巡りに関連して過去に一度は参拝したことのある神社なのですが、最近、足立区の古墳に関する記事を書いていたこともあり、もう一度ゆっくりと歩いてみたくなりました。
 どうせ行くなら、以前散策した際に見逃してしまっていた塚も見学に行けるぜ!ということで、御朱印帳とカメラを持って出発しました。


「竹塚神社」1

 画像は、竹の塚6丁目所在の「竹塚神社」です。

 この神社の境内には天喜四年(1056)、奥州東征の際に源頼義父子が宿陣したと伝えられており、大将頼義が戦勝祈願の後植えたといわれる松が「お手植の松」と呼ばれていたそうです。そしてその約800年後、嘉永二年(1849)六月六日にこの松の大樹は雷火により枯れてしまいますが、社殿改築の時期であったことから資材の一部として使用されたといわれています。

 境内に建てられている『竹塚神社 由緒』の石碑には「天喜四年源頼義公奥州東征の折、當社境内に宿陣相成り、明治年間に至るまで境域に環壕が存し、本営の奮跡と傳へられる。」と刻まれていました。
 竹塚神社周辺からは鬼高式土師器や須恵器が出土しており、また竹の塚5丁目の延命寺境内とその周辺からもやはり土師器や須恵器が出土しているそうです。
 多くの伝承が史実か否かはなんとも言えないところですが、環壕が存在したというあたりからは古墳の存在を妄想してしまいます。ひょっとしたらこの竹塚神社も、古墳の跡地に建てられているのではないかと想像したくなってしまいます。。。


「竹塚神社」2

 本殿と境内の様子です。

 ちなみにこの地域の現在の住居表示は「竹の塚」となっていますが、古くは「竹塚」と書いて「たけのつか」と呼んでいたそうです。だから「竹塚神社」なんですね (*^_^*)

 この地名は、周辺の保木間や六月よりも知られていたらしく、近世の地誌類には、六月村内にあった一里塚が「竹塚一里塚」、また保木間村内の「増田橋立場」が「竹塚立場」などと書かれているようです。

 「竹塚」の名称についての伝承はよくわからないようですが、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の竹塚村の項には「伊興村ノ境ヲ云 此地ニ小キ塚二ツ三ツアリ」と塚(古墳の可能性が高い)の存在が記されています。
 また、文政9年(1826)の墓誌集『埋木花』には「右の保木間より江戸の方へ隣村カセイ領竹塚村也、是ハ千住より日光道草加宿迄之間、建場茶屋ある村也、竹塚とハいえとも、今は塚の類もなきよし、案に領ハたがへとも隣村にはやつかあり、いつれ此近辺塚によつてむかし村名をしものか、定めて故ある村々の塚ありしなるへし、」とあり、江戸時代後期にはまだ多くの塚が点在しており、また毛長川を挟んだ北側の草加市谷塚とも関連があるのではないかと推測しています。

 この神社が古墳の跡地に建てられたかどうかは私の憶測に過ぎませんが、竹の塚の地名が古墳に由来する可能性は高いのかもしれません。。。


「鷲神社」1

 さて、この後、足立区島根4丁目にある「鷲神社」に移動しました。
 竹塚神社はこの鷲神社の兼務社なので、御朱印も鷲神社で頂けます。

 我が『古墳なう』では以前に一度、この神社にある「島根富士」という富士塚を取り上げました。
 その時以来、2度目の参拝です (*^_^*)


「鷲神社」2

 社殿は氏子中の寄進により、昭和31年9月に再建されているそうです。
 祭礼時に神楽殿で奉納される「島根ばやし」は昭和57年12月に、島根神代神楽は昭和63年11月に、それぞれ足立区登録無形民俗文化財となっています。
 また、境内に京和二年(1802)在銘の明神型石造鳥居は、千住4丁目の石工・保永助七の手によるもので、昭和60年11月に足立区登録有形文化財(建造物)となっています。
 とても立派な社殿ですよね。。。


「鷲神社」3

 「島根富士」も健在でした。


「鷲神社」4

 発泡スチロールで稲が育てられている光景がほっこりしました。
 このあたりはかつては農業が盛んだった土地ですからね。
 その名残なのでしょうか。

 かなりいい感じで育っています。。。


「竹塚神社」3

 竹塚神社の御朱印。
 見ている目の前で、筆で書いていただきました。


「鷲神社」5

 鷲神社の御朱印。

 もはやメールとかLINEばっかりで、文字を書く機会がどんどん減ってきていますが、私も子供の頃は母親にお習字を習っていてちゃんと筆で書いていたのですが、今はもうきっと書けません。

 日本人の魂は、いつも神社に残っているなあとしみじみ思います。。。

【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-804.html(2017/11/15(水)『鷲神社』)

<参考文献>
足立区郷土博物館『足立風土記高ー地区編9・渕江』
現地説明板


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  1. 2020/08/19(水) 20:41:34|
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「花畑と竹の塚周辺の塚跡かもしれない場所」

花畑3-8

 前回に引き続き、今回も足立区花畑地区周辺の塚跡探し。

 画像は、足立区花畑3丁目8番地周辺の様子です。
 古地図で確認して、この区画に塚のマークが記されていたことから見学に訪れてみたのですが。。。


花畑3-8

 この番地の北西角、駐車場となっている一角に鳥居と祠が祀られているのを発見しました。
 この場所が古墳跡かどうかは不明ですが、古地図に記されていた塚状地形とは何か関係がありそうな感じです。。。


花畑3-8

 南東から見たところ。


花畑3-8

 古地図に記されていた塚状地形の位置からすると、宅地化が進んだこの地域において、この草ボウボウの藪になっている地点の方がよっぽど怪しそうな感じ。

 真相はわかりませんが、ここが塚跡かな???


花畑3-9

 足立区花畑3丁目9番地あたり。
 この区画にも塚のマークが記されていましたが、塚らしき痕跡はなし。

 宅地もも進んでいますし、なかなか難しいですね。。。


花畑3-17

 花畑3丁目17番地あたり。
 この区画にも塚のマークが記されていましたが、痕跡なし。


花畑3-17

 この区画には「実性寺」というお寺がありました。
 境内に古墳の痕跡が残されていないものか、念の為チェックしてみましたが。。。


花畑3-17

 墓所内の様子です。
 やはり古墳や塚らしき存在は発見できません。


竹の塚5-21

 保木間5-21あたりにも塚のマークが。
 駐車場となっているあたりが塚のマークの地点ですが、痕跡はまったくありません。


保木間5-21

 竹の塚5丁目21番地。
 角の駐車場あたりが塚の跡地かと思われますが、もはやまったく痕跡なし。

 毛長川からは多少距離があるのですが、このあたりにもいくつかの塚が存在したともいわれています。古地図の塚マークはとても気になるところですが、残念ながらどんな性格の塚が存在したのか、真相はわかりません。

 さらに次回に続きます。。。


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  1. 2020/08/17(月) 00:58:34|
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