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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「幕田星宮神社古墳」

398 4181 幕田星宮神社古墳1

 今回紹介するのは、宇都宮市幕田町に所在する「幕田星宮神社古墳」です。

 東武宇都宮線沿線には、車窓から見ることができる古墳が数多く存在します。東武宇都宮駅に向かって安塚駅を出発すると、ほんの2分ほどで西側ののどかな田園風景の中にポツリとこんもりとした森が見えてきます。葉が落ちた冬であれば、この森の木々の合間から大きな塚状の高まりを見ることができます。

 宇都宮市の遺跡番号398番、栃木県の遺跡番号4181番に登録されている古墳です。


398 4181 幕田星宮神社古墳2

 個人的には、かなり以前から「こりゃ絶対に古墳だョ」と確信していました。

 しかし、これだけ大きな墳丘が目立つ場所に残されてるにも関わらず、当時頼りにしていた宇都宮市教育委員会より発行の『宇都宮の遺跡』にはこの地点になんの登録もなく、「おかしいなあ?古墳じゃないのかな?」とずっと真相がわからないままでした。
 しかしその後、平成29年(2017)に発行された『宇都宮市遺跡分布地図』にこの塚が記載されているのを確認して、ようやくこの高まりが古墳であること知ることができました。

 ただし、この分布地図には、備考欄に「円墳」と書かれているのみで、過去に何らかの調査が行われているのか、また古墳の規模や出土した遺物、埋葬施設、埴輪や葺石の有無といった古墳に関係する情報は皆無で、古墳に関する詳細は今のところまったくわかりません。
 また、この古墳は田園の中にポコっと1基のみが存在していて現状は単独墳という趣きではありますが、実は周囲にも開墾により消滅した古墳が地表下に隠れているのではないか、などと妄想すると止まらなります。


398 4181 幕田星宮神社古墳3

 墳丘には石段が設けられており、頂部に祀られている星宮神社を参拝することができます。


398 4181 幕田星宮神社古墳4

 墳丘上に祀られている星宮神社の社殿です。

 主祭神は磐裂神・根裂神で、嘉祥年間(848〜851)に宇都宮氏の一族である横田越中守頼業が郷内守護のため、星宮と称して祭田を寄進したといわれています。武田勝頼の宇都宮城攻略や戊辰戦争の大垣藩士滞陣など、幾多の戦火を蒙り、残念ながら古文書等は焼失。
 郷名は元々は蒔田であったそうですが、収穫時期に祭田に幕を張り神楽神事を斎行したことから,幕田と改称したことが伝えられています。


398 4181 幕田星宮神社古墳5

 北西から見た幕田星宮神社古墳です。

 周囲を歩いてみたところでは、墳丘は南北に若干長くなっているようです。
 形状からして(根拠なく)、前方後円墳か帆立貝式前方後円墳の可能性もあるのかな?と感じました。

 『栃木県の神社』というHPによると、『角川地名大事典』に「星宮神社には前方後円墳がある」と書かれているそうです。この「星宮神社」が幕田の星宮神社であるか否かはよくわからないようですが、この古墳に関する文献が限られている中、とても興味深い記述です。。。


398 4181 幕田星宮神社古墳6

 北東から見た幕田星宮神社古墳です。

 思えば東武宇都宮線は、沿線にかなり多くの古墳が見えますね。
 この幕田星宮神社古墳の他に「坂下3号墳」や「亀塚古墳」も見えるし(かろうじて)、安塚の「十日塚古墳」、壬生の「愛宕塚古墳」もバッチリ見えるし。。。


398 4181 幕田星宮神社古墳7

 古墳の南西側にも小さな塚が1基あり、頂部には石碑が建てられています。(ちなみに、手前の猿田彦大神の石碑もわずかな高まりの上に祀られています。笑。)

 これは古墳ではないのかな。。。


398 4181 幕田星宮神社古墳8

 北東から見た塚の様子。


398 4181 幕田星宮神社古墳9

 真夏に訪れるとこーんな感じ。
 青々と稲穂が茂る田園の中にぽっかりと神社の杜が浮かんでいます。


398 4181 幕田星宮神社古墳10

 ここは、ひょっとしたら古墳跡なんじゃないかなあと睨んだ場所。
 あやしい。。。


398 4181 幕田町288番地の塚

 同じ幕田町内で見かけた塚状地形。
 塚上には祠が祀られています。


398 4181 大垣家の墓地内の塚

 塚跡ではないかと考えられる、個人の墓地となっている一角。
 小さな塚がまだ残されています。。。


398 4181 大垣家の墓地内の塚2

 残存する塚の様子。
 いや、塚を見かけていちいち立ち止まっていたらキリがないんですけどね。
 古墳ではなくて、ただ高まりが好きなだけなのかな。。。

<参考文献>
宇都宮市教育委員会『宇都宮の遺跡』
栃木県神社庁『栃木県神社名鑑』
宇都宮市教育委員会『宇都宮市遺跡分布地図』


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  1. 2021/02/22(月) 23:02:44|
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茂原古墳群 その3「茂原権現山古墳群」

茂原古墳群-茂原権現山古墳群-権現山古墳1

 今回は「茂原古墳群」の第3回、「茂原権現山古墳群」です。

 栃木県の遺跡番号4310番、宇都宮市の遺跡番号240番に登録されているこの古墳群は、前方後方墳1基と円墳1基という2基の古墳で構成されています。田川の沖積低地から比高3mの、独立丘陵上の南端部に位置する古墳です。
 このうち、「茂原権現山古墳」は昭和56年に調査が行われており、前方部を東に向けて築かれた、全長約63mの前方後方墳であることがわかっています。茂原古墳群中の3基の前方後方墳のうち最も大きな古墳です。

 画像は、この茂原権現山古墳を東から見たところです。


茂原古墳群-茂原権現山古墳群-権現山古墳2

 画像は、茂原権現山古墳の前方部を東から見たところです。

 墳丘の東側は宅地や畑地により削られており、かなり急勾配な崖状になっています。墳丘西側は山林となっていることから墳丘は原形をとどめていると思われますが、この山林はかなりな藪になっていて墳丘の全貌を把握するのは困難な状況です。
 後方部の頂部には祠が祀られており、この前方部の側から参道が伸びていてお参りすることができますので、早速登ってみましょう。


茂原古墳群-茂原権現山古墳群-権現山古墳3

 前方部の様子です。
 画像右側が削られて崖状になっている墳丘東側で、左側が山林となっている墳丘西側です。

 後方部の幅は約35m、高さ6.5m、前方部の幅は約20m、高さは3.5mで、墳丘の周囲を取り巻く周湟の幅は、原形をとどめている西側で約15〜20mであるそうです。埴輪や葺石などの外部施設はみられず、また時期を決定するような遺物の出土がなかったようですが、墳形や墳丘の状況から3基の前方後方墳中最も新しい時期の築造と推定されており、「大日塚古墳」→「愛宕塚古墳」→「権現山古墳」の順に築造されたと考えられています。


茂原古墳群-茂原権現山古墳群-権現山古墳4

 前方部から後方部を見たところ。
 参道をつくるために切り通し状に掘りくぼめられています。


茂原古墳群-茂原権現山古墳群-権現山古墳5

 後方部の頂部の様子です。
 雷電様と権現様の二社の小石祠が祀られています。

 昔は木の鳥居が建っていて祭礼なども行われていたそうです。

 この権現塚と大日塚は兄弟の神様だといわれており、祭礼は同じ日に行い、毎朝神官が大日塚を拝んだあと権現塚の雷電さまに詣でたそうです。
 その参道はまっすぐに続いていて、道にはいつもしめ飾りが飾られていたそうで、現在はこの参道も中断されて道も半分しかいませんが、昔はこの道は神主さんしか通れなかったそうです。


茂原古墳群-茂原権現山古墳群-権現山古墳6

 後方部から北側を見下ろしたところ。
 かなり高さが残されています。


茂原古墳群-茂原権現山古墳群-権現山古墳7

 北側から後方部を見たところです。

 この権現塚には、塚にまつわる不思議な話が伝えられています。

 ある日のこと、どこの誰ともわからぬ者たちが真夜中にこの権現塚を訪れ、盗掘して一儲けしようと試みたそうです。もう少しで埋葬施設に手が届こうというその時、急に雷雲が垂れ込めてきて稲光とともに大嵐となりました。
 この嵐に恐れ戦きながらも男たちは盗掘を続け、ようやく石棺らしきところに手がかかったその時、”ピカッ、ズシーン”とものすごい雷が権現塚の杉の木に落ちて、火柱とともに杉の大木は真っ二つに割れたそうです。
 盗掘していた男たちは黒焦げになって焼死しており、集まった村人たちがみてもどこの誰だかまったくわからなかっらそうです。
 村人たちの間では、古墳の権現さまがお怒りになったのだということになり、神様の御心を鎮める意味から雷電様を祀り、権現様の御祭礼時併せてお祭りをした、という伝説が残っているそうです。


茂原古墳群-茂原権現山古墳群-五領山古墳1

 茂原権現山古墳群のもう1基、「御領山古墳」です。
 権現山古墳の北東側にあり、古墳の東側の路上から見ることができます。

 もう少し近づいてみましょう。。。


茂原古墳群-茂原権現山古墳群-五領山古墳2

 御領山古墳を西から見たところです。

 原形をよくとどめていると思われる古墳で、規模は長径22m、短径18m、高さは約2.5mのやや楕円形気味の形状を呈しています。墳形は、方墳の可能性も考えられるものの、円墳の可能性が高いと考えられています。
 ボーリング調査により墳丘部に石室と思われるものが存在することが確認されています。

<参考文献>
宇都宮市教育委員会『茂原古墳群』
宇都宮市教育委員会『宇都宮市遺跡分布地図』


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  1. 2021/02/15(月) 23:27:44|
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茂原古墳群 その2「大日塚古墳」

大日塚古墳1

 今回は「茂原古墳群」のその2。「大日塚古墳」の探訪の記録です。

 この古墳は古くは帆立貝形前方後円墳ではないかと考えられていたようですが、3次にわたる調査により、前方部を西に向けた、前方後方墳と呼ばれる希少な古墳であることが判明しています。
 全長は35.8m、後方部の幅は約20m、後方部高さ4.2m、前方部幅は約16m、前方部高さは2.1mで、後方部に比べて前方部は低く築かれています。

 ちなみに、かつて大日塚古墳の西側に大きな貯水塔があったのですが、現在は撤去されて更地となっています。
 この貯水塔の跡地付近にもかつて円墳があり、銅鏃が出土したともいわれています。


茂原古墳群-大日塚古墳

 真夏に来るとこーんな感じ。。

 古墳を含む周囲の敷地は国有地で、その境界にフェンスが張り巡らされているために古墳に近寄ることはできません。きちんと整備して良い形で公開できないものかといつも思いますが、「愛宕塚古墳」、「大日塚古墳」、「権現山古墳」ともに説明板も見当たりませんでしたし、説明板ぐらいは設置したいところですよね。


大日塚古墳3

 後方部を東からみたところ。


大日塚古墳4

 後方部上に、石の祠が祀られているのが見えます。


大日塚古墳5

 大日塚古墳の東に存在する、正体不明の塚です。

 周囲の地形を見回してみて、自然地形を利用した塚のようにも思えるし、人工的に盛られた塚のようにも思えるし、古墳であるかどうかは別にしても、いったいどんな性格の塚なのかちょっと気になります。
 ちなみに、昭和58年に発行された『宇都宮の遺跡』、平成29年発行の『宇都宮市遺跡分布地図』ともに、この塚状の高まりは古墳とも塚とも登録されていないようです。。。


大日塚古墳6

 正面の、南東側から見たところ。
 塚の頂部はとても平坦に整地されています。


大日塚古墳7

 塚の頂部の様子。
 石の祠が祀られています。


大日塚古墳8

 おまけ。
 茂原観音の南西100mほどの路傍で見かけた塚。

 直径2~3mほどの小さな塚の上に祠が祀られています。
 これも古墳とは関係がなかったかもしれませんね。。。

<参考文献>
宇都宮市教育委員会『茂原古墳群』
宇都宮市教育委員会『宇都宮市遺跡分布地図』


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  1. 2021/02/14(日) 00:07:22|
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茂原古墳群 その1 「茂原愛宕塚古墳群」

茂原古墳群-茂原愛宕塚古墳群-愛宕塚古墳1

 「茂原古墳群」は、宇都宮市茂原町に所在する古墳群です。
 古墳群の南から「愛宕塚古墳」、その北北西約100mに「大日塚古墳」、さらに北北西約400mに「権現山古墳」と、3基の前方後方墳が南北に分布しています。
 今回は、茂原古墳群中最も南にある「茂原愛宕塚古墳群」の探訪の記録です。


茂原古墳群-茂原愛宕塚古墳群-愛宕塚古墳2

 「茂原愛宕塚古墳群」は、宇都宮市の遺跡番号245番、栃木県の遺跡番号4315番に登録されており、前方後方墳である「愛宕塚古墳」と2基の円墳とで構成されています。
 古墳は、田川と姿川に挟まれて南北に伸びる宝来段丘の東端の台地上に立地しています。

 画像は「愛宕塚古墳」を東から見たところです。


茂原古墳群-茂原愛宕塚古墳群-愛宕塚古墳3

 ちょっと角度を変えて、南東から見た愛宕塚古墳です。
 以前はかなりなヤブだったのですが、近年になって一部の樹木が伐採されて古墳の全体像が見やすくなりました。左手前が前方部、右奥が後方部となります。
 さらに整備が進んで、説明板などもきちんと設置されるといいですね。。。

 昭和52年(1977)の第一次調査で行われた墳丘と周囲の測量調査により、前方部を南に向けた全長49mの前方後方墳であることが確認されています。後方部は28m、東西幅24.8m、高さは5mで、前方部はこれに対して比較的狭く低く、幅17m、高さ2.2mです。


茂原古墳群-茂原愛宕塚古墳群-愛宕塚古墳4

 前方部から後方部をみたところ。
 ほとんど崩れた様子もなく、かなり良好に残されている印象です。

 どうしてこの地域に前方後方墳が連続して築かれたのか、とても興味深いです。。。


茂原古墳群-茂原愛宕塚古墳群-愛宕塚古墳5

 後方部の頂部の様子です。
 埋葬主体部はこの後方部のみで発掘調査が行われており、木棺の痕跡が確認されています。副葬品は鏡1面、櫛1枚、緑色岩製管玉5管、ガラス製小玉2顆が出土しています。


茂原古墳群-茂原愛宕塚古墳群-愛宕塚古墳6

 墳頂部に祀られた祠。


茂原古墳群-茂原愛宕塚古墳群-愛宕塚古墳7

 後方部上から見下ろしてみました。
 意外と高さがあります。


茂原古墳群-茂原愛宕塚古墳群-愛宕塚古墳東の塚1

 愛宕塚古墳の南東に隣接する小古墳。
 直径約10m、高さ1mほどの円墳で、方墳である可能性も指摘されています。


茂原古墳群-茂原愛宕塚古墳群-愛宕塚古墳東の塚2

 南東から見たところ。

 こちらから見ると方墳のようにも見えるのですが、後世に人為的に削られているようにも感じられますし、発掘調査が行われないとなんとも言えませんね。。。


茂原古墳群-茂原愛宕塚古墳群-愛宕塚古墳西の塚1

 南西側に所在する古墳らしき高まりです。

 平成2年に発行された『茂原古墳群』には「前方部南東方8mの地点に本墳の周湟をはさんで、直径10m前後、高さ1m程度の円墳(方墳とも考えられる)が存在する、これと同様な小古墳が、西側の雑木林の中にも2基存在する。」と書かれています。
 この記述からすると、前方後方墳である愛宕塚古墳以外に3基の古墳が存在するということになりますが、平成29年発行の『宇都宮市遺跡分布地図』には「茂原愛宕塚古墳群」は前方後方墳1基、円墳2基と書かれています。

 私が確認したのはこの2基のみです。
 この南西の高まりの西側にはさらに雑木林が広がっていたので、ひょっとしたら他にも古墳が残されていたのかもしれませんが、この雑木林の散策はしなかったので真相は不明です。。。


茂原古墳群-茂原愛宕塚古墳群-愛宕塚古墳西の塚2

 南西から見た南西側の高まり(ややこしいな)。
 この高まりが古墳であるとすると、なにをするとこんな形状になってしまったんだろう。
 石室が見たくて誰かが掘ってしまったんだろうか。
 これが一番興味深いな。。。

<参考文献>
宇都宮市教育委員会『茂原古墳群』
宇都宮市教育委員会『宇都宮市遺跡分布地図』


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  1. 2021/02/12(金) 18:23:13|
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「上三川町 下蒲生の古墳(Ⅱ支群)」

下蒲生4号墳1

 今回も上三川町の下蒲生地区に所在する古墳。前回に引き続き「Ⅱ支群」に属する古墳の特集です。

 まず最初の画像は「下蒲生4号墳」です。

 この古墳はよくわからない点が多いのですが、昭和54年(1979)に上三川町により発行された『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』にはこの古墳について、
 下蒲生4号墳(下蒲生蒲生原)は、蒲生神社境内にあり、参道半ばにある鳥居の両側にある円墳である。小丘で、径4メートル弱、高さ0.5メートルを計る。
 と書かれています。

 まず、「参道半ばにある」という記述ですが、現在の古墳らしき高まりは参道半ばではなく、参道の入り口のあたりに存在します。ひょっとしたら、町史の書かれた40年前には今よりもずっと長く参道が伸びており、現在の塚の場所が参道半ばの鳥居だったのでしょうか。
 さらに「鳥居の両側にある円墳」という記述も気になります。「両側」ということは古墳は2基あったのか?と思われますが、現在残されている高まりは1基のみです。

 現在見られる参道を直線上に伸ばすと、現在の高まりは参道の東側にあたると想定されますので、ひょっとしたらかつては西側にもう1基存在したのかもしれませんが、西側は舗装された道路となっていますので、もうすでに消滅してしまったのかもしれません。。。


下蒲生4号墳2

 墳丘頂部に建てられ石碑の様子です。
 これが古墳であれば、かなり良好に残されている印象です。

 古墳なのかな。。。?


下蒲生4号墳3

 墳丘裾に建てられた「勝善神」と刻まれた石碑。


下蒲生5号墳1

 さて、蒲生神社の社殿の西南にもう1基、「下蒲生5号墳」が所在するはずです。きちんと参拝してから見学しようということで、蒲生神社に向かいます。

 画像は鳥居と参道の様子です。

 町史にある「参道半ばにある鳥居」とは最初はここかな?と思いましたが、鳥居の両側に古墳らしき高まりはまったく見られません。。。


下蒲生5号墳2

 社殿の様子です。
 この神社の主祭神は大己貴命、配神は豊城入彦命・事代主命で、上古に蒲生稻置が奉祀したと伝えられています。明治期に村社に加列。現在の社殿は平成9年に改築されたものであるそうです。

 この西南に下蒲生5号墳が所在します。
 早速見てみましょう。


下蒲生5号墳3

 下蒲生5号墳です。
 とてもきれいな高まりです。

 『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』には「墳丘南側は若干変形しているが、径約6メートル、高さ1メートルを計る」とあり、この規模は現在もあまり変わっていないように見受けられます。


下蒲生5号墳4

 塚の周囲に周溝らしき堀がきれいに周回しているのですが印象的です。


下蒲生5号墳5

 墳丘頂部には、江戸期のものと思われる庚申塔が1基、建てられています。


下蒲生5号墳6

 社殿の北東にも塚状の高まりが見られ、境内社として稲荷神社・星宮神社・須賀神社が祀られています。
 ここは古墳じゃないんだよね、きっと。。。


おしじる塚古墳

 蒲生神社の東方、現在の新4号国道の西側に所在したといわれているのが「おしじる塚古墳」です。
 墳丘径約15m、高さ約3mほどの円墳であったといわれていますが、昭和47~48年頃に破壊され、消滅しています。

<参考文献>
上三川町『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』
上三川町教育委員会『上三川町の古墳Ⅰ』


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  1. 2021/02/10(水) 23:07:48|
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「上三川町下蒲生の古墳(Ⅰ支群)」

 今回は、上三川町の下蒲生地区に所在する古墳の特集です。

 下蒲生地区は田川左岸(東岸)の低台地で、周囲が低地で田川の氾濫原をなしている中で、わずかに高い自然堤防状を呈しています。古墳の多くはこの低台地の南部に集中しており、南から「Ⅰ支群」、「Ⅱ支群」、「Ⅲ支群」と便宜上三つの支群に分けられています。

 今回は、このうちの「Ⅰ支群」にあたる古墳を取り上げます。


下蒲生1号墳(富士山小御嶽神社)1

 画像が「下蒲生1号墳」です。

 何年か前まではこの場所は鬱蒼としたヤブで、その藪の中の小さな高まりに祠が祀られている、という状況でした。近年になって草木が刈られて墳丘がはっきりと観察できるようになりました。


下蒲生1号墳(富士山小御嶽神社)2

 昭和54年(1979)に上三川町により発行された『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』では、一辺約9m、高さ約1.5mの「方墳ではないか」としています。

 墳丘頂部には浅間神社の祠が祀られています。


下蒲生1号墳(富士山小御嶽神社)3

 北西から見た下蒲生1号墳。
 実際には「一辺約9m、高さ約1.5m」よりも少々小さく見えます。


下蒲生1号墳(富士山小御嶽神社)4

 神社は「富士山小御嶽神社」というようです。
 塚は富士塚か御嶽塚ということになるのかな?

 発掘調査が行われているわけではないようなので、果たしてこの塚が古墳であるかどうかはわかりません。。。


下蒲生2号墳1

 「下蒲生2号墳」は、画像の藪の中に存在するはずです。
 『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』によると、直径約6m、高さ約1mの円墳が、「1号墳のほぼ東方100メートル余の平地縁部にある。」と書かれています。
 意を決して、藪の中に突撃してみました!(#`n´)ノ


下蒲生2号墳2
 
 画像は、うっすらと高まっているらしき場所を撮影したものですが、これが古墳の痕跡であるかはわかりません。(違うと思う。)結論として、直径約6m、高さ約1mの古墳らしき高まりは見られませんでした。

 この2号墳について、近くにお住いの地元の方にお聞きしてみたのですが、少年時代にいつも林の中で遊んでいて、塚らしきものがあったように思うとのこと。さらには、その塚についてお婆ちゃんから何か言い伝えのような話を聞いた記憶があるが、どんな話であったかは思い出せない、ということでした。
 おそらく、お話をお聞きしたのは50代ぐらいの方だったと思うので、塚を見たというのは昭和40年代後半から50年代にかけてのあたりかと思われます。

 ま、藪の中だったので見落としたかもしれませんし、真相は不明ですね。。。

<参考文献>
上三川町『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』
上三川町教育委員会『上三川町の古墳Ⅰ』


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  1. 2021/02/08(月) 23:41:31|
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「御前塚古墳(三村・五分一1号墳)」

御前塚古墳1

 画像は、上三川町五分一に所在する「御前塚古墳」です。
 三村・五分一地区にもいくつかの古墳の伝承は見られるようですが、そのほとんどは消滅しており、現存する唯一の古墳ということになります。
 台地の下の低地にある古墳で、墳丘の大半は墓地として改変されているものの、田園の中にぽっかりとその姿を浮かべています。


御前塚古墳3

 西から見た御前塚古墳です。
 この角度から見ると、ひょっとしたら右が前方部、左が後円部という前方後円墳だったのではないかとも妄想してしまいますが、墳頂部から墳裾まで大きく改変されていて、元の形状はもはやよくわかりません。
 『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』では、截頭円錐形状を呈すると推測しており、墳丘の規模は直径30m以上、高さ3〜4mとしています。


御前塚古墳2

 この塚にはある伝説があって、往時に村人たちが塚にきて何々をお貸しくださいと頼むと、希望する品々が必ず翌朝には用意されていたそうです。
 現代は豊かになって村人たちの懐具合もよくなったので、お願いするものもなく、貸し出しも休業しているそうです。

 休業中かぁ。。。


御前塚古墳4

 北から見た御前塚古墳です。
 こちらから見ると、まだかなり高さが残されているのがわかります。

 主体部や外表施設は不明とされているようですが、果たしてこの塚は古墳なのでしょうか。。。


御前塚古墳5

 もう一つとても気になるのが、御前塚古墳の北方数十メートルというかなり至近距離に存在するもう1基の塚です。
 こちらも現在は墓地として利用されているようですが、道路がS時にカーブして塚を避けている形状からして、かなり古くからある塚ではないかとも思われます。

 ひょっとしたら、御前塚古墳を主墳として古墳群が展開されていたのでは?などと妄想してしまいますが、『上三川町の古墳Ⅰ』に掲載されている「古墳一覧」の表には古墳としては登録されていないようです。


御前塚古墳6

 塚はこんな感じ。
 う〜ん。古墳ではないかもしれませんが。。。

 真相は不明です。

<参考文献>
上三川町『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』
上三川町教育委員会『上三川町の古墳Ⅰ』
民話美寿々会「しらさぎ」『しらさぎの里「上三川のおはなし」』
上三川町教育委員会『上三川町の伝説と民話、続編』


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  1. 2021/02/06(土) 23:24:44|
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「おさん塚」

おさん塚と星宮神社と上総堂1

 画像は、上三川町東蓼沼に所在する「星の宮神社」です。
 大化二年(646)の創立とされ、盾部速川前公が磐裂命・根裂命・経津主命を郷土の氏神・守護神として奉祀したといわれる古社です。

 この神社の周辺にはかつて「おさん塚」と呼ばれる大きな塚が存在したといわれています。
 古墳時代末期に創立されたというこの神社のすぐ目の前にあったという塚が古墳であった可能性はないのかよと、いつもの妄想が止まらなくなってしまい、上郷地区の古墳を見学した跡にこの星宮神社まで足を伸ばしてみました。


おさん塚と星宮神社と上総堂2

 まずは参拝ということで、画像は二の鳥居です。

 「おさん塚」はかつての地名で、通りがかりの地元のおばあちゃんに場所をお聞きして、「星宮神社の目の前のなんにもないところだよ」と二つ返事で教えていただいて、「ホントになんにもないよ?」と念を押されました。笑。
 上三川のおばあちゃん、いい人です。。。


おさん塚と星宮神社と上総堂3

 星宮神社拝殿と境内の様子。


おさん塚と星宮神社と上総堂4

 塚の跡地はだいたいこのあたり?

 おそらく、空き地となっているこの地点か、隣接する民家のあたりではないかと思われますが、正確な跡地まではわかりません。

 「おさん塚」の名称の由来はわからなかったのですが、往時には高さ4メートルほどの大きな塚があり、ここから上郷方向に古い堤防があったそうです。塚には多くな榎が立ち、船を結んだところだったといわれています。
 地元の人にはこの塚は「ハンノキ山」と呼ばれており、薪採取や兵隊ごっこの場所だったそうです。

 残念ながら塚の痕跡はまったくなし。塚が消滅したのは学術的な調査が行われるようになる以前で、出土品の伝承も見つからず、古墳であったか否か、塚の性格まではわかりませんでした。。。


おさん塚と星宮神社と上総堂5

 この地には、平将門にまつわる有名な伝説が伝えられています。

 敗戦により平将門の家来(四天王)が女や子供を連れ、上総国より鬼怒川を船で上がってきたものの、ちょうど東蓼沼のあたりで船が沈没して岸に登ってきたそうです。
 画像の、「銅沼(どうぬま)」と呼ばれる三角形をした田んぼがこの場所なのだそうですが、ピンポイントに上陸した正確な場所まで伝えられているところがすごいですよね。。。

 実は、祟りの伝説で知られる、東京大手町の「将門塚」に手がつけられている!ということで、将門塚がとても気になっていたのですが、ひょんなことから平将門にまつわる伝説に触れることになってびっくりしました。。。


おさん塚と星宮神社と上総堂6

 東蓼沼の「上総堂墓地」です。もとの満福寺の跡地ですが、満福寺は鬼怒川の洪水により現在地に移されています。

 上陸した平将門の家来たちはこの地に土着しており、持参した仏像を安置するために堂宇を建立してこれを上総堂(かっつぁどう)と呼び、一族のよりどころとしたそうです。


おさん塚と星宮神社と上総堂7

 ここが現在の上総堂(かっつぁどう)です。

 さてさて、ここで世の中に文句。笑。
 栃木県は、他県と比べて説明板が少ない気がします(数えたわけではなく、あくまで私の印象ですが)。

 訪れた当日、地元の方に道をお聞きした際に、平将門にまつわる伝説をお教えいただきました。
 「きっと、地元の人の間では知らない人はいないような有名な伝説なんですよね?」とお聞きしたら、「年配者は知らない人はいないかもしれないが、若い人はどうだろうねえ?」というお答え。

 前々回の「ネズミ観音」も然りこの上総堂も然り。
 知る人ぞ知る地元では有名な伝承地なのだし、地元の人のためにも観光で訪れた人のためにも、説明板が設置されていて詳しい解説があったらいいのになあといつも感じてしまいます。

<参考文献>
上三川町『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』
栃木県神社庁『栃木県神社誌』
上三川町文化財研究会編集委員会『上三川町の地名調査』
上三川町教育委員会『上三川町の伝説と民話』


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  1. 2021/02/04(木) 22:00:55|
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源頼家伝説が残る「勝善神」の塚

勝善神1

 前回に引き続き、今回も上三川町で見かけた塚をテーマに、今回は源頼家にまつわる伝承の残る、「勝善神」の塚を取り上げようと思います。

 上郷地区に広がる田園の真ん中を流れる江川の堤防にかかる塚田橋のほとりに、「勝善神」と刻まれた供養の碑が建っています。
 ここにはある伝説が残されています。

 平安時代末期のお話ですが、欧州で起こった反乱を平定するため、源頼家の一行が当地にさしかかった際に、長い旅の疲れからか愛馬が病に倒れてしまいました。頼家は近くに陣幕を張り、愛馬の回復を祈りますが、その甲斐なく愛馬は数日間の闘病の末に死んでしまいました。
 そこで頼家は近くに塚を築き、馬をねんごろに葬り、供養のために一本の 松を植えて別れを惜しみました。
 頼家は愛馬を失った悲しみから代わりの馬には乗らず、篭に乗って発っていったといわれており、その場所は今でも「お篭立ち」といわれているそうです。

 その後、塚の付近では濃厚に働いた馬が次々と病に倒れ、あるいは足を折り、また死んでしまうといった不幸が続き、地元の人たちは大変驚きました。これは亡くなった馬の祟りではないかということになり、地主が鎮魂のための石碑を建てて供養したところ、それ以来ウソのように不幸な事故は起こらなくなったそうです。
 頼家が陣を張ったという「幕内」の地に食事に使った杉の箸を挿しておいたところ、根がついて枝の下がった大木となり、この杉は明治の始め頃まで立っていたそうです。


勝善神2

 塚の横には舗装道路が造られており、この道路は周囲よりも高くなった江川の土手に向かっています。
 したがって、道路が塚よりも高く盛られてしまっている状況ですが、以前はここが塚状に周囲の田畑よりも高くなっていたのではないかと妄想できます。
 かつては田園の中の塚であったことが偲ばれます。

 この塚の下に、頼家の愛馬が眠っているのでしょうか。。。


勝善神3

 勝善神の石碑の背面の様子です。
 頼家の愛馬の伝承について刻まれています。


勝善神4

 江川にかかる「塚田橋」です。
 「塚田」の名称が気になるところですが、やはり由来は頼家の伝承となるのでしょうか。。。

<参考文献>
上三川町『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』
上三川町教育委員会『上三川町の古墳Ⅰ』
上三川町教育委員会『上三川町の伝説と民話、続編』


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  1. 2021/02/03(水) 00:10:37|
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