
今回は、町田市木曽東4丁目に所在する「富士塚」の探訪の記録です。
この塚について、昭和36年に発行された『南多摩文化財総合調査報告』の122ページには「町田市木曽古墳」の名称で、
木曽の東北端に位置する古墳で、頂部に三角点(106.4m)がある。周辺は畑でかなり変形し、又一部は墓地となっているが、径約15mの円墳で、高さ約2.5m内外であったと思われる。横穴式石室をもつものであろう。恩田川の最上流部に位置している。後期終末期のものであろう。 と書かれています。
どうやらこの時期には、この塚は古墳ではないかとも考えられていたようですが、最新の『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』には、町田市の503番の「時代不明の塚」として登録されており、名称も「富士塚(提灯塚)」となっています。
画像は、この富士塚を南東からみたところです。
この角度から見ると、駐車場の向こう側にこんもりとした小山のような塚を見ることができます。かなり良好な状態で残されているようです。

近寄ってみたところです。
この塚の上にはかつて、それは枝ぶりの見事な、樹齢600年といわれた松の大木がそびえ立っており、「一本松」と呼ばれて地元木曽の名物だったそうです。この一本松は昭和27年、火の不始末により火が松に燃え移り、三日三晩燃え続けたのちに焼け尽くしてしまったといわれています。この際、消防車が駆けつけましたが、木の高さに水が届かずに見守るよりほかなかったそうです。周辺に高層ビルは存在しなかったと思われるこの当時、消防車の放水の高さには限界があっただと思いますが、残念だったと思います。。。

『東京都遺跡地図』では、この塚の名称は「富士塚(提灯塚)」となっているのですが、町田市教育委員会より発行された『町田の民話と伝承』では、一本松の塚と提灯塚とは別々に記載されています。
『町田の民話と伝承 第一集』には、提灯塚について次のように書かれています。
提灯塚 本町田の字向村に塚があって、提灯塚と呼ばれていた。
この塚のまわりを、息もつかずに三べん回ると、塚の中から提灯がヌッと出る…というのが名の起こりだという。
しかし、この塚は事実「ちょうし塚…銚子塚、とっくり形に似た塚、前方後円墳の別名…」なので、呼び名が訛って「ちょうちん塚、提灯塚」となったのであろうと推測される。
この塚も数年前にはくずされてしまい、いまは、そのへん一帯が住宅地となっている。(『町田の民話と伝承 第一集』96ページ)
この記事からすると、一本松の塚と提灯塚は別々の塚であり、提灯塚は古墳であった、しかも前方後円墳であった可能性が指摘されています。
この塚は、木曽からは多少離れた本町田にあったとされているようです。正確な所在地を知るところまでは至らなかったのですが、とても気になる存在です。

塚には石段が設けられており、登ることができます。
木曽観音堂に関連したものであるとされるこの塚は、吉祥山(観音堂)の鬼門にあたり、堂を造る際の地鎮祭に安全祈願のために造られたとされているようです。つまりは、富士信仰に基づき、富士講により築造された富士塚とは全く異質の塚で、ボク石(溶岩)や講碑等はみられません。

塚の頂部の様子です。
浅間社の祠と石碑が並んでいます。
気になるのは、富士塚によくみられる、元々あった古墳を流用した塚である、なんてことはないのでしょうか。。。
<参考文献>
東京都教育委員会「多摩丘陵地域における古墳及び横穴の調査」『南多摩文化財総合調査報告』
町田市教育委員会『町田の民話と伝承 第一集』
町田市教育委員会『町田の民話と伝承 第二集』
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- 2019/07/22(月) 00:17:10|
- 町田市の古墳・塚
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