
三鷹市では、とても稀有な存在である「天文台構内古墳」なる上円下方墳が確認されています。国分寺崖線沿いに単独で存在するこの古墳以外に、三鷹市内には高塚古墳は存在しないといわれており、『東京都遺跡地図』にも天文台構内古墳以外の高塚古墳は登録されていないようです。
果たして本当に」「天文台構内古墳」以外の高塚古墳の存在はなかったのでしょうか?
画像は、三鷹市新川3丁目にある勝淵神社です。
この神社の祭神は弥都波能売神で、地元では「ミョウジンサマ」と呼ばれており、水の神、お産の神といわれています。柴田勝重が、祖父勝家公より与えられた黄金の兜を埋納したという伝承があり、昭和の時代までは境内に樫の御神木があり、「兜塚」と呼ばれる塚があったといわれています。

勝淵神社の境内と社殿の様子です。
この神社の由来について、境内にある勝淵神社由来碑には次のように書かれています。
天正十一年(一五八三)織田信長の重臣柴田勝家は賤ヶ岳の戦いに敗れ
北ノ庄城に於て自刃したが、その折、孫の権六郎(三才)に愛用の兜を与
え郎党を供に、上野国の外祖父日根野高吉の元にのがす。権六郎十六才に
して元服、柴田三左衛門勝重と名乗る。慶長四年(一五九九)徳川家康は
勝重を召し出し、上野国群馬・碓氷両郡のうち二千石を与える。慶長五年
(一六〇〇)勝重は関ヶ原の戦いに初陣、更に慶長十九年(一六一四)大阪
冬の陣、翌年元和元年(一六一五)大阪夏の陣に従軍し、その戦功により
武蔵国多摩郡上仙川村(現新川)・中仙川村(現中原)その他合わせて五百
石を加増される。上仙川村に入村した勝重公は村の中ほどの台地(現島屋
敷)に陣屋敷を建て住居とし、それより北方の台地水神の森に社殿を建立
し、その傍らに祖父勝家公より与えられた黄金の兜を鎮めて、神霊として
祀り社号を勝淵明神とした。
以来四百年、当社は村の鎮守として村民の崇敬の念篤く代々の氏子会に
より護持されている。 社殿の右奥に、再建された現在の兜塚が所在します。

画像が、現在の「兜塚」の様子です。
塚の前には「兜塚再興之碑」の石碑が建てられており、「(前略)彼の兜は 歳月の過ぐるに隨い 神社の傍の樫の木の根元に鎮められ これを兜塚と言い伝う この謂れある塚も近年はその形跡をとどめず 氏子中 これを惜しむ事切にして何時の日にかと この歴史的遺構の再建を願う 今忽に機熟し関係者の協力を得て もとの地に兜塚を再興し 後世に残さんとする者なり」と刻まれています。
かつての塚の所在地もこの地点で間違いないようですが、土台となっている高まりは塚の名残というわけではなさそうです。
ちなみに形状は、上円下方墳ですね。。。

説明板によると、織田信長の重臣であった柴田勝家の兜が孫の孫の勝重によりこの地に埋納されたという伝承は、これを裏付ける史料として天明5年(1785)の紀年銘がある柴田勝家位牌奉安添状が春清寺に所蔵されており、その後は『新編武蔵風土記稿』にみられるように江戸時代を通じて継承され、少なくとも戦前頃までは口承によって伝えられていたことが、文献や聞き取り調査等により確認されているそうです。
思うに昭和から平成という時代は、地域に伝わる伝承が途絶えてしまった時代なのかもしれませんね。。。

境内に設置された三鷹市教育委員会による説明板には、昭和40年(1965)の、往時の兜塚とご神木が掲載されています。
この見上げた感じからすると、以外と大きなつかだったのかもしれませんね。。。

三鷹市新川4丁目の春清寺には、柴田勝重の墓が残されているという事で立ち寄ってみました。

画像は、春清寺の墓所内に残る、柴田勝重の墓です。
三鷹市教育委員会による設置された説明板には、次のように書かれています。
三鷹市指定史跡 柴田家家碑・柴田勝重墓
柴田勝重は戦国武将織田信長の重臣柴田勝家の孫で、江戸時代の始め頃、上仙川・中仙川村(現・三鷹市新川・中原及び調布市緑ヶ丘・仙川等の一部)を治めていました。
家碑によると、祖父の勝家は、天正11(1583)年、???の戦いで豊臣秀吉に敗れ、越前国北の庄(現・福井県)で、妻のお市の方と共に自刃しますが、その時三歳であった孫の勝重は、外祖父とされる上毛州(現・群馬県)日根野氏のもとへ逃されたと記されています。
慶長4(1559)年、17歳になった勝重は、徳川家康に仕官し、翌慶長5(1600)年関ヶ原の戦いで初陣を遂げ、大坂冬の陣、夏の陣にも出陣し、戦功を挙げています。これらの戦功によって上・中仙川二村と入間郡藤沢村(現・埼玉県入間市)内で500石を加増され2,520石の旗本となりました。『新編武蔵風土記稿』等によると勝重は、島屋敷(現・新川島屋敷通り団地付近)に館をかまえ居住したと記されており、発掘調査によって居館跡が確認されています。勝重は寛永9(1635)年、54歳でこの地に病死し、春清寺に葬られました。墓石は宝篋印塔とよばれるもので、武家では市内で唯一のものです。勝重の死後、柴田家は代々旗本として幕府に仕え、元禄11(1698)年まで仙川の地を治めたのち、三河(現・愛知県)へ転封になりました
柴田勝家碑は、勝重から数えて10代目の勝房が建立した、柴田家の由来が記された石碑で、寛政8(1796)年に建立されたものです。この墓所には柴田家一族20基の墓標が建てられています。
なお、勝淵神社(新川3-20)には、勝重が祖父勝家から譲り受けた兜を埋納したという伝承が伝えられており、「柴田勝家兜埋納伝承地」として三鷹市の登録史跡となっています。
昭和53年5月8日 史跡指定 三鷹市教育委員会
寛政8(1796)年建立の柴田勝家碑です。

三重の塔の横にある「多摩大仏」。
この地域は比較的土地勘があるところなのですが、こんなお寺があるなんて知らなかったな。。。
<参考文献>
三鷹市教育委員会『市内歴史散歩』
現地説明板
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- 2019/08/26(月) 02:06:36|
- 三鷹市の古墳・塚
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形名さま、こんばんは。
なんと、新川に住まわれていたことがあるんですね!
形名さまのブログを拝見して、生まれも育ちも群馬の方であると思い込んでいました。
白百合女子大や桐朋学園、私も興味ありありです。笑。
甲州街道から白百合女子大方面に入っていかれる上皇后陛下をお見かけして、手を振っていただいたこ思い出があります。。。
- 2019/08/28(水) 21:50:07 |
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- ご〜ご〜ひでりん #G67hs.TE
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