市史跡 甲州街道万願寺一里塚
江戸時代初期の甲州街道は、現在の国立市青柳あたりから多摩
川を渡り、市内源平島に通じ、万願寺を経て日野宿に入った。こ
の一里塚は、日本橋から9里目のもので、慶長年間甲州街道が開
枯れた折につくられたものと伝えられ、日野市内に現存する唯一
のものである。もとは街道をはさんで2基あり、北側の1基はと
り崩された。かつては両方ともに径7~8m、高さ3mくらいあ
り、塚上には大きな榎が植えられ、旅人にとっては心身の憩いの
場であった。
昭和54年2月1日 日野市教育委員会
日野市指定史跡
甲州街道万願寺一里塚
昭和五十四年二月一日指定
万願寺一里塚は、慶長年間(一五九六~一六一五)に甲州街道が開かれた際に造られたと伝えられ、都内に現存する数少ない
一里塚の一つとして大変貴重なものである。
江戸時代初期の甲州街道は、青柳(国立市)付近から多摩川を渡り、万願寺一里塚を経て日野宿に入った。その後、貞享元年(一六八四)に上流の日野渡船場を通る道路へ改められたが、その後もこのルートは利用された。
万願寺一里塚は日本橋から九里目にあたり、参勤交代の大名や甲州勤番、お茶壺道中の役人、八王子千人同心や甲府定飛脚が行き来し、また富士講や身延詣の人々が往来する道筋にあった。
平成十五年(二〇〇三)に行われた発掘調査では、道に沿ってやや楕円形の、直径九メートル、高さ三メートルの塚が検出された。塚の崩落を防ぐため、道との境に三段の石積みがなされ、その上に宝永の火山灰(宝永四年、一七〇七年の富士山の噴火による)があることから、塚はその年代よりも古いものであることが確認できた。塚の北側に隣接する甲州街道は、三
間(約五、四メートル)の幅があり、道普請の痕跡も見つかっている。
街道の一里塚
江戸幕府は江戸日本橋を基点に街道を整備し、慶長9年(1604)に大久保長安
が一里(約4km)ごとに塚を築かせました。一里塚という名称は、一里ごとに存
在したことに由来します。
一里塚は道を挟んで両側に造られ、平面規模は五間四方(約9m)を基準とし、
高さは1丈(約3m)と大きなものです。
一里塚は旅人には距離の目安となり、塚の頂上には榎(えのき)が植えられるこ
とが多く、大きく成長すると夏場には木陰を与えるものでした。
今の日野市域には、万願寺と現在の日野台に一里塚が築かれましたが、現存する
のは、万願寺の一里塚のうち甲州街道(甲州道中ともいう)の南側の一基だけです。
北側の塚は昭和43年(1968)に取り壊されました。
道と渡船場そして宿場
当初の甲州街道は、青柳(国立市)付近から万願寺渡船場で多摩川を渡り、万
願寺一里塚を通り日野宿に入りました。この一里塚は江戸日本橋から九里目にあ
たり、参勤交代の大名・甲州勤番やお茶壺道中の役人も行き来しました。
その後、貞享元年(1684)に甲州街道は、上流の日野渡船場を通る道路へと改
められました。しかし、満願寺渡船場や日野宿へと至る道は、その後も利用され、
多摩川を渡ってこの塚を越えると日野宿に到着することから、このあたりは塚越
(つかこし)と呼ばれていました。
一里塚の発掘調査と整備
平成15年(2003)、現存する甲州街道の南側の塚について範囲や構造を探る
ために調査を行いました。
塚は直径9m、高さ3mと一里塚の基準通りで、平面形は道に沿って長めでや
や楕円形をしています。
塚の構造にあたっては、砂礫層まで堀崩し外周を一部掘りくぼめ、砂を多く含
む粘土質の土を積み上げました。また、道との境には塚の崩壊を防ぐためか、3
段ほどの石積みが見られます。その石積みの上には、宝永4年(1707)に噴火
した富士山の火山灰が認められたことから、その年代より古いことが確認できて
います。
この塚の北側に隣接する甲州街道は、三間(5.4m)幅で、道普請の痕跡も見つかっ
ています。
この調査の後、塚の頂上には榎を、塚全体には保護のために芝を、それぞれ植え、
甲州街道のイメージも可能なように整備しました。ただ、甲州街道は本来の三間
幅(5.4m)ではなく、幅4mで復元しています。
平成27年(2015)7月 日野市教育委員会