
府中市と国立市の境となる、府中市日新町5丁目の住宅街の一角には、1基の塚が残されています。府中市の所有となっている塚の敷地はフェンスで覆われて保存されており、塚上には大きな榎が植えられていて一里塚のような様相を呈していますが、敷地内には説明板や標柱等は存在せず、『東京都遺跡地図』にも登録されていないようです。
画像の、民家と民家の間に見えるフェンス内に、この塚は所在します。
昭和60年に府中市教育委員会より発行された『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・ 堰・橋の名前』の「塚」の項には、この塚は「新一里塚」という名称で掲載されており、「昔の甲州街道ぞいにある塚、榎の大木がある。日本電気構内にある一里塚跡からみて、一里としては距離が短いので”半里塚”かともいう」と書かれています。
「半里塚」とは初めて聞く名称ですが、果たしてここがかつての甲州道中で、半里塚が存在したのでしょうか。

東から見た塚の様子です。
フェンスで覆われた三角地となっている敷地内はわずかに塚状に盛り上がっているようです。
昭和44年(1969)に発行された、原田重久著『国立歳事記』に、この塚に関する記事を見つけることができました。
谷保田圃の、府中市四谷寄りー本宿用水の南側に、一筋の里道が東西に走っている。この道端に榎塚がある。
慶長年間(1596ー1615)時の幕府が始めて江戸から甲州への道路を作ったときは、府中市分倍から谷保田圃の中を通り、西方に至って多摩川を渡り、日野万願寺に抜けていた。
榎の木のある塚は、一里塚の名残りである。三十六町を一里とした道程は、一里塚が目安になっているが、これは、道の両側に各一基ずつ築かれ、その中間に半里塚があった。
これが定められてから九十年ほど後の貞享年中(1684ー88)に、道筋が一部改められた。これは、府中六所宮(大国魂神社)の前を通って、本宿、谷保、立川柴崎に至る段丘上のコースをとっている。現在のハケ上の道がそれである。
現在の甲州街道は、このあと更に道筋を北方に移したいわゆる新道だ。
一理又は半里毎に塚をつくり、そこに榎の木を植えたのは、榎という植物が長期繁茂し、風雪に堪え得る性質をもっていたからだろう。また、旅人が、遠方からこれを眺めて、旅程を按配するに好適な巨樹となったからでもあろう。(『国立歳事記』67~68ページ)
最初に江戸から甲州への道路を造った当時は、多摩川に近い段丘地帯に集落が点在していたことから、ハケ上、ハケ下を縫って、江戸から甲州方面に通じていたそうです。
ということは、この塚が一里塚(半里塚)出会ったとして、「新一里塚」という名称が適当なものであるかはちょっと微妙ですね?
フェンスの内部の様子です。草が生い茂っていてわかりにくいのですが、わずかながらの高まりを見ることができます。
猿渡盛厚著『武蔵府中物語 下巻』610ページには、この塚についての記述が見られ、「本宿南新田にある一本榎塚の如きは、ただ一基のみではあるが、一里塚 としてはっきりした口碑もなく、疑わしいから、それと定めがたい」と書かれています。
また、平成24年度の第1回府中市文化財保護報告会では、委員から「古墳の可能性はむしろ無いですか。こんな位置では無いのでおかしいですか」という意見が出ており、事務局は「可能性もあるかとは思っておりますが」と答えているという様子が議事録に記載されているようです。
この周辺の低地では今のところ古墳は発見されていにようですが、多摩川の対岸である日野市内の低地では、「落川・一の宮遺跡1号古墳」なる六角形墳が確認されています。
果たしてこの塚が古墳である可能性もあり得るのでしょうか。

南東から見た「新一里塚」。
榎の木の存在からして、見た目はとっても一里塚っぽいです。

『国立歳事記』に掲載されていた、往時の一里塚。
昭和の中頃までは、大きな塚が残されていたようです。
それにしても、こんな塚がひっそりと残されているあたりは、東京もまだまだ捨てたもんじゃないですよね。。。
<参考文献>
原田重久著『国立歳事記』
猿渡盛厚『武蔵府中物語 下巻』
府中市教育委員会『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』
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- 2019/10/03(木) 23:43:35|
- 東京の一里塚
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