これまで、東京を中心に都心部の古墳や塚を巡ってきました。
言わずと知れた大都会である東京、特に23区内では、すでに多くの遺跡が開発により消滅しています。
江戸期から昭和にかけての地誌類や伝承、地名などから、かなり多くの塚の存在を確認することはできるのですが、残念ながら所在地がまったくわからず、痕跡を見つけることができなかった古墳や塚は少なくありません。
そんな中、失われた古墳や塚の正確な位置を知る手がかりとしてお世話になったのが、明治以降に作成された古地図や、昭和の空中写真です。特に戦後の空中写真は、まだ開発が進む以前の東京の地形を詳細に見ることができ、多くの塚の位置や形状を知るうえで役立ちました。
今や、地域の図書館に足を運ばなくても、ネットで各年代の空中写真を閲覧することができるようになりましたし、便利な時代ですよね。
そんな中、一体この形状はなんだろう?と不思議に思いながらも、正体の分からなかった地形も少なからず存在します。最初の画像も、そんな中の一つです。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1179130&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年(1947)9月8日に米軍により撮影された東京西北部の空中写真です。わかりやすいように周辺を切り取っています。
画像の中央に、まるで前方後円墳を思わせる形状がはっきりと写っています。場所は新宿区市谷本村町5丁目42番地、靖国通り沿いの合羽坂下交差点の北側で、現在は中央大学法科大学院の1号館が建っている場所です。
これ、空中写真を眺めていて偶然見つけたのですが、最初は、「マママママジかよ」とびっくりしました。
『東京都遺跡地図』で確認してもこの場所に古墳は登録されていないようなのですが、南に200mほどの「三栄町遺跡」や「荒木町遺跡」からは発掘調査により埴輪片が出土しており、古墳の推定地とされています。
ひょっとしたらこの地形も前方後円墳の残骸なのかもしれないし…」と半信半疑ながらも調べてみました。

画像は現在の中央大学法科大学院です。
おそらくは、このあたりに前方部が存在したはずです。
段丘の裾のあたりで、周辺は一段高くなっているのですが、中央大学の敷地は削られてしまったのか平らに整地されています。

後円部にあたるところは防衛省の敷地内で、かなり高くなっています。
やはり古墳らしき形状は存在しないようです。
もしこの場所に前方後円墳が存在したのであれば、例えば「××塚」や「××山」などの名称で呼ばれていたとか、また遺物の伝承や祟りの言い伝えのようなものが残されているのではないかと考えましたが、区内の図書館で調べたところではうまく見つけることができませんでした。
最終的に、新宿歴史博物館を訪ねて、学芸員の先生にお聞きしたりと色々調べてたのですが、防衛省の敷地は『東京都遺跡地図』では新宿区の遺跡番号61番の「市谷本村町遺跡」として登録されています。発掘調査も行われており、『尾張藩上屋敷跡遺跡』の名称で報告書が刊行されています。
古墳らしき地形に近いところでは「第5地点」として発掘調査が行われており、これはちょうど後円部の東側の、後円部に重なるか重ならないか、というあたりです。
この調査では、残念ながら古墳に関係する遺構はまったく検出されず、また遺物も採集されなかったようです。
やっぱり古墳じゃないのかな?
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=694946&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和11年(1936)6月11日に陸軍により撮影された同地点の空中写真です。こちらもわかりやすいように周辺を切り取っています。
実は国土地理院ウェブサイトを後日よく見てみると、先の写真よりも11年も古い、昭和11年の写真も公開されているのです。笑。
この時期には、前方後円形の地形は見られないようなので、やはり昭和22年の地形は古墳ではなく、この時期にたまたまなんらかの築山が存在したのか、上空からの光景が偶然前方後円墳のように見えただけなのかもしれません。
結論として、昭和22年の空中写真を見てびっくりして、ワリと一生懸命調べてしまったものの、古墳でもなんでもなかったという、慌て者の私でした。(とほほほ。。。)

画像は、中央大学西側の「合羽坂」です。
この地域の低地は江戸時代には水田地帯で、大小多くの池があったそうです。その池に住むカッパが夜の坂に出てきて通行人を驚かせたことから、カッパ坂と名付けられ、後に「合羽」の字を当てたそうです。
ただし、これは実はカッパではなくカワウソで、ケロリとしてとぼけているカワウソから、架空のカッパが生み出されたものと言われているようです。
『新撰東京名所図会』には「合羽坂は四谷市片町の前より本村町に沿ふて仲之町に上る坂路をいふ。昔時此坂の東南は蓮池と称する大池あり。雨夜など獺しばしば出たりしを、里人誤りて河童と思皮脂より坂の呼名となりしが、後転じて合羽の文字を用ひ来利子といふ。」と書かれています。
ニホンカワウソはすでに絶滅種となっているようですが、渋谷川では明治の始め頃にカワウソがとれたという記録があるそうです。
都内にカワウソなんて、今となってはまったく信じられませんが、栃木県那須町や対馬では目撃例もあるようですし、どこかで生き残っていてくれたらいいなああと切に思います。

坂の上には「合羽坂」の石碑が。
<参考文献>
芳賀善次郎『新宿の散歩道』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
東京都埋蔵文化財センター『尾張藩上屋敷跡遺跡 Ⅲ』
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- 2019/10/19(土) 23:31:04|
- 新宿区の古墳・塚
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