
旧和泉村と岩戸村にまたがる一帯、和泉の東端と岩戸の西端にあたる地域は、かつては駄倉(だぐら)という小字で呼ばれていました。
現在の狛江市岩戸北3丁目11番地、旧番地の岩戸1084番地には、この地名を冠した「駄倉明神」と呼ばれる神社が存在しました。昭和15年(1940)の『土地宝典』では、「八幡神社」の名称で、南向きの境内と参道を確認することができます。
『新編武蔵風土記稿』には記載されていない神社で、近世における村の鎮守としての地位は与えられなかった一社であるようですが、523坪の社地が除地として認められた、立派な境内を持つ神社であったといわれています。
現在、駄倉明神は岩戸八幡神社の境内摂社となっていますが、旧社地を訪れてみると、今だに境内と参道らしき地形が残されています。
画像手前が「いちょう通り」で、中央から奥に伸びる細い道路が駄倉明神のかつての参道です。この参道を30メートルほど歩いた奥が、旧境内となります。

画像が、駄倉明神(八幡神社)の旧社地の現在の様子です。
まだ広い敷地が残されているようですが、この旧社地の中心に円形の噴水が造られていることには驚きました。地元の人にお聞きしたところでは、駄倉明神が岩戸八幡神社に移された跡、何か訳あってこの噴水が造られたそうです。
さて、昭和54年(1979)に狛江市教育委員会より発行された『狛江市の古墳(Ⅰ)』に『狛江古墳群地名表』の119番には、所在地「岩戸1084番」、つまり、駄倉明神の旧社地に、「八幡塚(明神塚)」という名称で古墳が記載されています。「明神塚」の名称は当然ながら駄倉明神からの命名と考えられますが、分布調査が行われた昭和35年(1960)当時、既に古墳は削平されて消滅していたようです。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年(1948)3月29日に米軍により撮影された空中写真です。わかりやすいように周辺を切り取っています。
画像の中央が駄倉明神の旧社地です。もちろん上空からの写真ですので高低差まではわかりませんが、多少改変されている古墳と思しき形状が見られます。この空中写真から想像すると、境内全体が古墳の高まりとなっており、墳丘上に祠が祀られていたのではないかと推測されますが、真相はわかりません。
付け加えると、『狛江市の古墳(Ⅰ)』の『狛江古墳群地名表』の127番には、「八幡塚(明神)」と1番地違いの岩戸1085番地に「第4明神塚」という古墳が記載されています。近接した場所にさらに1基、古墳が存在したのかもしれませんが、こちらは正確な所在地は不明です。
画像をじーーーーっと眺めて、南西に前方部、北西に後円部という前方後円墳では?もしくは前方部にあたるところが「第4明神塚」では?と妄想。。。
<参考文献>
狛江市『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市農業協同組合史編纂委員会『狛江市農業協同組合史』
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- 2019/11/11(月) 23:59:58|
- 狛江市/狛江古墳群(岩戸)
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