
画像は、大田区鵜の木1丁目の「増明院」を東から見たところです。
真言宗智山派、山号は青林山、寺号は金剛寺、旧本寺は高畑宝幢院であるこのお寺の境内には、かつて横穴墓が存在したといわれています。『東京都遺跡地図』には、「増明院内横穴墓」の名称で大田区の遺跡番号32番に登録されています。

寺伝によると、徳川家康の江戸入府の頃は修験者の住む寮であったそうですが、その後この付近を知行した青山因幡守が開基となり創建したと伝えらています。
そして、境内には享保12年(1727)に建てられた供養塔があり、増明院中興の際の刻銘が刻まれています。
画像がその供養塔で、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』にはこの供養塔について、
「供養塔 境内にあり。碑文の末に、享保12年とあり。其文の大略は元禄12年の頃映俊と云僧此地に来りすみ、宝永年中に至りて再興のことを企て、山を 鑿ち地を掘りしに、供養の器と五股鉾を土中より得たり。其さまいと古雅にて、後世冶工の手になりしものとも見えず。思ふに此地の道場は古きことにて、戦国の頃兵火のためにやきのこりしもの、土中に埋もれしならんと云ことを彫りたり是等のことをもて見れば、御入国以前より修験のるいおりし寮なることしらるべきなり。」 と書かれています。

画像がその供養塔です。
鵜の木、久が原周辺は横穴墓が集中して存在する地域ですので、この供養塔の碑文も横穴墓の考古学上の出土遺物の記録として考えられているようです。
増明院でお聞きしましたが、横穴墓は、画像の裏門の奥の大きな木の下あたりに開口していたそうです。
危険であることから現在は埋め戻されている、ということですので、横穴は地中に残存しているのかもしれません。。。
<参考文献>
学生社『大田区史跡散歩』
東京都大田区『大田区史 資料編 地誌類抄録』
大田区教育委員会『大田区の文化財第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2020/03/14(土) 18:57:18|
- 大田区/鵜の木久が原古墳群
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