
画像は、中野区中央1丁目の中野区立第十中学校の跡地です。
これから、第三中学校と第十中学校の2校が統合して新しく「中野東中学校」となり、図書館や子どもセンターも入るということですが、実はこの場所は「塔山古墳群」と呼ばれる、複数の古墳が存在したとされる場所でもあります。
この工事が行われていることを知り、今年2月頃に見学に立ち寄ってみました。
この場所にはなんと、「工事現場」の見学エリアが設けられており、ベンチまで置かれていす。
自由に入って工事のようすを見ることができるようになっていました。
私が訪れた際には基礎工事が行われており、見学エリア内には説明板が張られていました。

工事現場のようす。
ちょうどお昼を過ぎたところで、休憩に入っていたようです。
一番気になるのは発掘調査が行われたのかな?というところですが、これは今のところ未確認です。
東京都教育員会より発行された『東京都遺跡地図』によると、中野区の遺跡番号66番に「塔山古墳群」が、また同77番には「包蔵地」としても登録されています。古墳については5基の円墳の存在が記載されており、1号墳が66-1番に、2号墳が66-2番に登録されています。3~5号墳については詳細は不明とされているようです。

山手通りから見た工事現場のようすです。
この古墳群は、昭和29年(1954)7月4日と8月1日に後藤守一氏と明治大学考古学研究室により調査されています。
当時の記録によると、敷地内に所在するとされる5基の古墳の測量調査が行なわれ、1号墳と2号墳の2基の発掘が行われたようです。5基のいずれも径15~20mの円墳であるとされ、1号墳は高さ3mを測り、封土には4層にわたる水平な層序の存在があるためこの塚が人口的な盛土であることは確認されているものの、埋葬施設は認められなかったようです。ただし、土層に若干の硬い部分があり、そこから鉄釘数本と直刀片が発見されていることから、これが主体部の遺構ではないかとも考えられているようです。
これに対して2号墳は規模が小さく、高さ1.5mの円墳であると考えられています。この2号墳からは柱状の石を組み合わせた門扉様の遺構が発見されたそうですが、これは古墳の主体部とは無関係であると考えられているようです。
1、2号墳ともに周溝や埴輪などについての記述はなく、また3~5号墳に関してはなんの記録も残されていないようなので、これ以上の詳細はわかりません。

画像は、この場所が中野区立第十中学校だった頃のものです。
2014年の3月ですからちょうど6年ほど前の写真です。
この画像からは昭和の香りがプンプンしますが、工事が終わると最先端の中学校になってしまうんでしょうね(笑)。
いや、もちろんいいことですが。。。
この旧十中の敷地には、西南隅には「富士」、西北隅には「日光山」、東北隅には「筑波山」、東南隅には「愛宕」の山を築き、そのほぼ中央に三重の塔が建てられていました。その後方には宝仙寺の歴代住職の墓があり、園内各地には四国八八ヵ所に擬したいくつかの石碑が配置され、さらに西南の片隅には寛永12年4月のお日待寄進碑が建てられていたそうです。
また、南側には地蔵堂があり、その中に等身大の八辻子育地蔵尊がまつられ、二四日の縁日には参拝客で大変賑わったそうです。
大正期の記録によると「老杉林立せる一郭 地域敢て広かざるも樹間に丹塗りの三重の塔屹然と建てる風情 まことに塵界を脱するの思いあり 殊に夏季の納涼散策に、冬季白雪の頃の景色最も圭なり此は昔宝仙寺ご朱印地なり 除地一町二反八歩」と記されており、『江戸砂子』には「宝仙寺 むかしは大寺なりしが また近きに中野の塔といいて三層の塔あり 昔は宝仙寺の境内なりしという 今は五ー六町の外にありて一構えの地なり その間は畠村となりて境内の形もなし」と記されています。
この敷地の詳細と見取り図が掲載されている文献を複写しておいたはずなのですが、最近の引っ越しの際に紛失してしまいまして詳しくわかりません。おそらく、敷地の四隅に存在した富士、日光山、筑波山、愛宕山が古墳であったと想定されます。

かつての校庭のようすです。
古墳らしき痕跡はすでに失われています。
実はわたしには、この十中出身だという知人がいました。
10年ほど前だと記憶していますが、この知人に色々と話を聞いてみたことがあります。
古墳については、残念ながら痕跡すらみたことも話を聞いたこともないそうで、中庭に古墳らしき高まりがない?とも聞いてみましたが、ない!ということでした。残念。。。
むしろ学校の七不思議的な話を聞いて、こちらのほうがよほど面白かった記憶があります。
残念ながら内容をよく覚えていないのですが、一つだけ覚えているのが、ある校舎の中の階段が、かつては地下まで伸びていたかのような形状になっていて、階段の手すりがそのまま地下まで埋まっていたそうです。で、これにまつわる怖い話があったように思うのですが、これは全く思い出せません。
彼女が今どうしているかわかりませんが、20代前半の歌唱力抜群の美人さんでした。
もっと詳しく聞いておけばよかったですよね。
「このあたりは地元では「塔の山」っていうんだよ?」と教えてくれました。。。

さて、何か古墳の痕跡が残っていないものか、周辺をぶらりと一周してみます。
旧十中の西側、道が二股に分かれた三角地には「白金龍昇宮」があります。
白金龍昇宮由来
白 金 龍 昇 宮
日本の国土は龍体の姿をしておりますので
このお宮には、昭和二十四年中野区城山町に
現れました黄金の龍を国土の神としてお祀り
してあります。
国土を祀らずしては平安の来るはずもあり
ません。ここに日本の国土を祀り国家の
安泰をはかり世界人類の幸福をお祈り
しております。
七 曜 の 心 霊
日月火水木金土の七曜も、このお宮にお祀り
してあります。七曜は世界共通の生きながらの
神で生命の根源でありますので人類はもと
より万物にとって一日もなくてはならぬ神々です
ここにお祀りして世界平和と人類の幸福を
お祈りしております。
建立者 大日入来不動明 この西側を通る山手通りは、10年くらい前までず~っと工事をやっていましたよね。
重要な幹線道路であるにも関わらず、頻繁に流路が変わって走りにくいし、騒々しいし、景観も良くないイメージがありましたが、整備が終わってからは本当に走りやすくなって、景観もとてもよくなりました。。。

北に10メートルほど進むと、平入型式の2m×1.5mメートルほどの小さなお堂が見られます。
このお堂には不思議な形状の石造物が祀られています。

画像が、お堂に祀られた石造物です。
まるで異形のオブジェといった印象ですが、なんと!この御尊体は庚申塔なのです。
第二次世界大戦時の戦禍はこの地域にも及び、昭和20年5月の空襲による被害は甚大なるものがあったそうですが、この空襲により、かつての庚申塔は石の棒同然に変えられてしまったそうです。
火で燃やされると石はこうなってしまうのか?と驚きますが、それでもこの庚申塔が今でもこうして立っていることは貴重です。
ありがたいことに、古い郷土史本にこの庚申塔について記録されており、『中野町誌』によると、この塔には「宝永五戌子十月吉日 奉供養庚申講為二世安楽」と刻まれていたといい、彫像は青面金剛で笠付の円筒形であったようです。
こういう、戦争の悲惨さを伝えるエピソードこそ後世に伝えるべきなのではないかと思うのですが、ぜひ説明板を立ててほしいですよね。。。

敷地の西北隅には、大きな文字で「三重塔跡」と刻まれた記念碑が立てられています。
「日光山」を模した塚が存在したと想定されるあたりですね。。。
この三重塔については江戸時代の文献等にも記載があり、その建立について中野長者であるという伝承や記録が残されています。この300メートルほど南には中野長者開基という「成願寺」があり、この塔も長者の寄進により建てられたのであるという伝承です。
『江戸名所図会』には
「(前略)また中野の通りの右側叢林の中に三層の塔あり 七塔の一ならんか 伝へ云ふ、中野長者鈴木九郎正蓮が建つる所にして、昔は成願寺の境にいりしを、後世今の地に移すと云へり(中略)中に長者鈴木九郎夫婦の肖像と称するものを安ぜり」 と記されています。
この説は誤りで、三重塔はかつてこの地が宝仙寺の境内だった寛永13年(1636)に飯塚惣兵衛という村人(なんと村人!)が建てたものだそうで、安置されている木像は塔の建立者とされている飯塚惣兵衛夫妻のものであることがわかっています。
三重塔は、その後この周辺が「塔の山公園」として整備されてからも戦前までは残されていたそうですが、昭和20年5月の第二次大戦の空襲により消失しています。

「三重塔跡」の記念碑の前には、中野区教育委員会による説明板が設置されていました。
説明板に掲載されていた、三重塔の往時の写真です。

中野区中央2丁目にある、宝仙寺も訪ねてみました。
平安後期の寛治年間、源義家によって創建されたと伝わるお寺で、この近隣のお寺では由緒も古く、また豊富な文化財に恵まれた寺院でもあるようです。
画像は、宝仙寺の山門である仁王門で、阿吽の仁王が左右に立っています。
終戦後に、以前のものを模して増率されたものです。

宝仙寺境内の様子です。
奥に見えるのが再建された三重塔で、手前に見えるのは石臼塚です。
三重塔は、興教大師850年御遠忌記念事業として平成4年に再建されたものです。
飛鳥様式の純木造建築で、塔内には、大日如来像をはじめとする五体の木像が安置されています。
石臼塚は、供養のために噴水として積み上げた石臼の塚です。
境内に設置された説明板には、
中野区と新宿区との間を流れる神田川には江戸時代から水車が設けられて、そば粉を
挽くことに使われていた。
そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ製粉の一大拠点となり、中野から東京中のそば店に供給されたため、中野そばとまで言われるようになった。
その後、機械化により使われなくなった石臼は道端に放置され見向かれなくなっていった。それを見て当山、宝仙寺第五十世住職富田學純大僧正(宝仙寺学園創立者)が、人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして、境内に「石臼塚」を立て供養した。 と書かれています。

明治28年から昭和の初頭まで中野町の役場が、また区役所が境内に置かれていたそうです。
境内には「中野町役場跡」と刻まれた石碑が建てられています。

この「白玉稲荷神社」も、もとは宝仙寺境内にあった神社です。
塔山古墳群跡地(旧十中跡地)を見学した跡、参拝しました。

実際に境内に入って参拝しないと気がつき難い奥まった場所にあるのですが、白玉稲荷神社裏には石の鳥居が残されています。中野区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。
白玉稲荷神社の鳥居
白玉稲荷神社は、もとは宝仙寺境内にありました
が、明治維新後の神仏分離の際に、ここに分社され、
以後、この地であがめられてきたやしろです。
この石の鳥居には、「奉納 歳豊饒 小下中」「明治
十四年巳十月」、そして願主として浅田甚右ヱ門以下
五十人の氏名が刻まれています。
青梅街道に面した家いえは江戸時代末期、半商半
農の生活を営んでおり、問屋場の置かれた街道筋に
は人家も多く、村内は上・中・下の三宿にわけられ
ていました。鳥居に刻まれた「小下中」というのは、
下町をさらに大・小にわけたうちの小下組中という
意味で、この近辺が小下に属していたのでしょう。
この文は、浅田澱橋氏を介し、明治の初め頃の漢字
者、南摩綱紀の依頼によって成瀬大域が書いたもの
で、その書風は、区内の金石文の中でも風格のある
名筆といわれています。
この鳥居に刻まれた金石文によって、地名の移り
変わりがわかるとともに、この地に住んでいた有
力者たちの姿を想像することができます。
昭和五十八年三月
中野区教育委員会 中野区や杉並区は古墳の分野では目立たないのですが、神田川流域では、善福寺川右岸に「高千穂大学大宮遺跡1号墳」があり、 善福寺川が神田川に合流する向田遺跡からも2基の古墳が検出されており、杉並区の「本村原遺跡」からは2ヶ所で埴輪片が採集されています。
この塔山古墳群も含めて、実際にはかなり多くの古墳が築造されたのではないかと妄想しています。
今後の調査の進展が楽しみですね。。。
<参考文献>
中野町教育会『中野町誌』
日本考古学協会『日本考古学年報7(昭和29年度)』
中野区史跡研究会『東京史跡ガイド⑭ 中野区史跡散歩』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
現地説明版
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- 2020/05/14(木) 23:43:20|
- 中野区の古墳・塚
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