さて。今回は大きく脱線してですね。
古墳でも塚でもなく。。。
「庚申塔」です。
今年の2月頃、思い立って西東京市の庚申塔巡りを企画しました。
西東京市内には高塚古墳の存在はなく、塚に関しても、私がこれまで見学したのは「南入経塚」と「北芝久保富士」の2基のみという状況でした。
これまで多くの古墳を見学する中で、元々あった古墳を流用する形で使用された「富士塚」や「経塚」、そして「庚申塚」など、多くの塚を見てきましたが、逆に庚申塔の散策を”入り口”とする事で、未知なる庚申塚が発見できればいいなあという狙いがあったかもしれません。
また、古墳が存在しなかったことであまり細かく散策しなかった西東京市を、自転車でゆっくり走りたいという思いもあったかも。
今年の初め頃は少々体調を崩していたのですが、少しずつ回復してきたタイミングで、この日はゆっくりと1日かけてのサイクリングにチャレンジでした。
前代未聞の緊急事態宣言発令の直前。2月のよく晴れた日曜日です。
思えばこの頃は、コロナウィルスの感染など考えもしませんでした。。。

1ヶ所目は、新町1丁目2番地に所在する「文字庚申塔」です。
西東京市の文化財第二十号に指定されている、高さ2メートル近くもある大きな庚申塔です。
五日市街道から分かれてまっすぐ新田の集落に入る道の入り口に位置しており、元々の所在地も現在地付近であったろうと推定されています。
五日市街道の改修により、一時武蔵野女子大学の構内に移され、昭和54年(1979)に修理のうえ、現在地に移されているそうです。

西東京市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。
西東京市指定文化財第二十号
文字庚申塔
現新町の全域は、江戸時代の享保九年(一七二四)から上保
谷新田として開発された新田村でした。それから六十年後の天
明四年(一七八四)九月、この大きな文字庚申塔は、上保谷新
田の入口に建立されました。塔右側面の銘文中に「願主新田中」
とあるのは、新田村の全戸によってこの庚申塔が造立されたこ
とを意味します。塔正面の左脇に、他の庚申塔には例をみない
「五穀成就」と 彫られています。村中あげて穀物が実ることを庚
申に祈った、その願いを読みとることができます。この塔造立
の前年の天明三年は、浅間山の大噴火・洪水 ・冷害が重なって
江戸時代最大の飢饉が始まった年であり、翌天明四年は関東各
地にその影響が及びました。村の入口から飢饉が侵入しないよ
うにと、それを防いでくれる庚申の強い霊力に祈願して建てた
のが、この塔であったはずです。
塔の下部には十万に通じる道しるべを銘文して、上保谷新田
の地理的な位置を示し、上端に庚申の種子「?」(ウン)、下
端に三猿を刻んで庚申の像客の一部を表現しています。天明四
年の原位置は、現在の場所とほぼ同じであり、塔の正面は東方
を向いていました。
昭和六十一年三月
西東京市教育委員会
庚申塔の様子です。
よく見ると、真ん中からポッキリと真っ二つに折れています。
昭和54年の修理とは、この修復なのかもしれませんね。。。
目の前を千川上水が流れていて、この上水が武蔵野市と西東京市の市境となっています。
この庚申塔の場所から東に数十メートルほどの武蔵野市側に、見事な塚の上に石橋供養塔と庚申塔が安置されているのですが、これはまたいずれ武蔵野市編で、多分紹介します。。。



2ヶ所目。
画像は、向台町2丁目13番地に所在する「閻魔堂」です。
この閻魔堂で寺子屋が開かれ、学制施行の明治5年頃まで住職玉井寛海法士が子供達に読み書きを教えていたそうです。
当時の閻魔堂は昭和20年の戦災で惜しくも焼失、現在のお堂は平成元年に再建されたものであるそうです。
この閻魔堂の南西隅に庚申塔が安置されています。

庚申塔の様子。笠付型の青面金剛像です。
小さな木製の屋根がいい感じですねえ。
真新しいお花が生けられていて、地元の人に大切に祀られている様子がうかがえます。

脇を通る江戸道に建立されたものですが、庚申塔の宝珠の下の露盤には文政七年講中十二人の銘文がみられ、享保六年に造立し、103年後に新たな講中により再興されたものであることがわかっているそうです。



3ヶ所目。
画像は、向台町3丁目5番地所在の庚申塔です。
現在の武蔵野徳洲会病院の南西角にある青面金剛像で、かつて病院の敷地にあったという石川島工場の正面にあったものを、工場の建設によりここに移されたものであるそうです。

武蔵野徳洲会病院は2015年にオープンしたばかりの病院で、周辺の開発も進んでいるようなのですが、よくぞこの場所に残されたものですよね。。。
ひょっとしたら、地元の人にはちょっとした待ち合わせのスポットになっているのかも。。。

画像は、向台町3丁目5番地所在の庚申塔です。
現在の武蔵野徳洲会病院の南西角にある青面金剛像で、かつて病院の敷地にあったという石川島工場の正面にあったものを、工場の建設によりここに移されたものであるそうです。
武蔵野徳洲会病院は2015年にオープンしたばかりの病院で、周辺の開発も進んでいるようなのですが、よくぞこの場所に残されたものですよね。。。
地元の人には、ちょっとした待ち合わせのスポットになっているのかも。。。
この庚申塔も閻魔堂の庚申塔と同様に、まず元禄十四年に建立され、109年後の文化七年に再興されているものであるそうです。
以下、次号に続く。。。
<参考文献>
保谷市教育委員会『保谷の石仏と石塔 一』
多田治昭『田無市の庚申塔』
田無市教育委員会『田無市の文化財 第3集』
- 2020/06/28(日) 22:07:48|
- 東京の庚申塔
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