
画像は、中野区本町2丁目に所在する「成願寺」です。
山号を多宝山と称す曹洞宗の寺院で、開基は正蓮居士、俗名中野九郎(中野長者)で、開山は応永年間といわれています。
このお寺には、中野長者正蓮、つまりは成願寺の開基鈴木九郎の墳墓であるといわれる円形の塚が所在したとされています。
塚は成願寺の背後の丘陵上の台地縁辺部にあり、周囲には壕のあとがあったともいわれています。
Googleマップ等で確認したところでは、すでに塚は開発により消滅しているようなのですが、この塚が古墳ではなかったという妄想の真偽を確かめるべく、成願寺を訪れました。

さて、「鈴木九郎長者塚」の由来を知るためには、このお寺が建立されたいきさつについて理解しなければなりません。
成願寺HPの「
成願寺の歴史」にこのお寺にまつわる伝承について書かれていますので、転載させていただきました。
成願寺の歴史
およそ600年のむかし、今の成願寺のあるところには、鈴木九郎という馬売りが住んでいました。
そのころ、この成願寺のあたりは見渡すかぎりのススキの原っぱでした。九郎は荒れた土地を少しずつきりひらきながら、馬を育てていたのです。
食べもののない日が何日も続くような、たいへんまずしい暮らしでした。九郎の馬もやせていて、あまり高くは売れません。
ある日九郎はやせた馬を一頭つれて、千葉のほうの馬市に売りに行きました。その途中、浅草の観音さまにお詣りして、こんなお願いをしました。
「どうか観音さま、馬がよい値で売れますように。この馬が売れて、そのお金のなかに大観通宝がまざっていましたら、それはぜんぶ、観音さまにさしあげます」
大観通宝というのは中国のお金です。そのころは日本でも、中国のお金が使われていたのです。
さて、そうして馬市に行くと、馬は思ったより、ずいぶん高く売れました。
(これは観音さまのおかげじゃ)
九郎は大喜び。ところが受け取ったお金をよく見てみると、みんな大観通宝だったのです。
(これは困った。大観通宝はみんな観音さまにさしあげるといってしまった・・・)
九郎は迷いました。約束どおり、観音さまにお金をあげてしまうと一銭も残りません。せっかく千葉まで馬を売りにきたのに、それではあんまりです。
でも九郎はこう思いました。
(やはり約束は守らなければならない。馬が高く売れるようになどと願った自分がいけなかった。お金はしっかり働いて手に入れなければならないと、観音さまが教えてくださったのだろう)
こうして九郎は、それまで以上に働いて、とうとう中野長者といわれるほどのお金持ちになりました。
しかし、思わぬ不幸がやってきました。大事に育てていた小笹という一人娘が、病気で亡くなってしまったのです。
九郎の悲しみは、たいへん深いものでした。それで九郎はお坊さんになって名前を「正蓮」とかえ、家もお寺につくりかえて、立派な三重の塔も建てました。それが成願寺のはじまりです。
それから600年ものあいだ、成願寺は仏さまをしたう人々の心とともに生きてきました。中野や新宿の方はもちろん、古くから奥多摩や山梨方面への道筋にあたっていましたので、たくさんの旅人が成願寺にお詣りしたといいます。幕末に活躍した新撰組の近藤勇も、家族を成願寺にあずけていたという記録があります。(後略)

江戸時代から昭和初期にかけての地誌類には、この成願寺の塚について記されている文献も少なくないようです。
江戸時代の地誌『江戸名所図会』には
「中野長者正蓮墳墓 同じ境内叢林の中にあり、開基鈴木九郎の墓なり。其石塔今崩れて半土中に埋れてあり。紫一本といへる冊子に、武州多摩郡中野の中、正観寺といふ薬師の棟札に、朝日長者昌蓮と記してありと云云。昌正同音なり。同巻高田百八塚の条下と応照せてみるべし。」 とあり、また『江都近郊名勝一覧』には
「中野長者の墓 成願寺の境内に在り。長者は名を正蓮といふ、武州多摩郡中野正観寺薬師の棟札に、朝日長者昌蓮と記したり、則この人也といふ」 とあり、さらに『嘉陵紀行』には
「其うしろ乾に小高き塚あり、周りにから壕のあとあり、墳につゝぢ二三株生ず、其下に小さき五輪のかさニツ、半土に埋れてみゆ、伝ていふ、性蓮長者といふものゝ墳也と、又この山も、其人のすみし跡也と、又この山も、其人のすみし跡也と云…」 とあり、成願寺の裏山に存在する塚とから壕のようすが描かれています。
また、昭和6年に発行された『東京淀橋誌考』には
「開基、中野長者正蓮の墓は、寺背の丘陵松樹の傍らに在り、五輪の塔にて高さ五尺許、正面に梵字を刻するのみ他に文字を見す。前に一尺許の板碑に「明徳三年七月二十八日」と鐫れるがありたるも、正蓮が成願寺を創立せしは、應永年間にして其の死は永享十二年にあり、而して明徳は其の以前の年號なるは疑ふべし、惟ふに此の板碑は長者の墓に関係なきものならんか、墓は大正十四年五月、東京府史蹟bに定められ左の標示を建つ。
史 蹟 中野開拓 鈴木九郎長者塚
大正十四年五月 東 京 府 ちなみに、神田川左岸の同じ台地上縁辺部となる、この成願寺の北方数百メートルの地点には「塔山古墳群」が存在します。
多くの郷土史本の記述やこの鈴木九郎長者塚が築造された立地からすると、やはりこの鈴木九郎長者塚は実は古墳だったのではないか、と妄想したくなってしまいます。。。

お寺の墓地内で塚の跡地と想定される裏山を見上げてみると、塚状に盛り上がったようにも見える一角が視界に入りました。
江戸時代の地誌類に描写からすると、成願寺の本殿の背後の裏山を北方に登りきった台地の縁辺部が塚の跡地ではないかと想定されます。斜面の中腹であるこの場所が塚の跡地とは考えにくいところですが、それでもやはりこの目で確かめなくてはなりませんね。笑。

近寄ってみました。
塚状に盛り上がって見えるものの、特別何かが祀られているというような状況でもないようです。
墓地内の築山なのか、単なる自然地形なのでしょうか。。。

南東から見た塚状地形。
怪しい地形であるようにも思えますが、お寺でお聞きしたところでは、少なくとも鈴木九郎長者塚とはなんの関係もないようです。


出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=194185&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年(1948)3月3日に米軍により撮影された鈴木九郎長者塚跡地の空中写真のようすです。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
この塚の学術的な調査は行われていませんので、塚の性格や正確な所在地については知る由もないのですが、塚の跡地ではないか、と想定したあたりに円形の影を見つけました。
画像の中央に大きな円形の影、その左にも小さな円形の影が見えるように思えます。。。
第二次世界大戦後、空襲により焼け野原となった後の写真です。
これが鈴木九郎長者塚の周囲に巡っていたという「から壕のあと」なのでしょうか。。。

塚の跡地と想定した周辺の様子です。
空中写真の影を塚の跡と推定するならば、道路が突き当たったあたりが塚の跡地となります。
残念ながらすでに開発が進み、塚の痕跡は何も見られません。

画像右側あたりが塚の跡地でしょうか。
やはり塚の痕跡は何も見られません。。。

ここが、成願寺境内に所在する、現在の「鈴木九郎長者塚」です。
中野長者である鈴木九郎の伝承については、昭和の時代になって、ある驚愕の事実が判明します。
成願寺の開山、川庵宗鼎像の開山像の解体修理が昭和55年に行われますが、この際に像の胎内から人骨が発見されます。開山像は江戸時代初期に造られた70センチほどのお像で、胎内に収められていた骨は、粉々といってもいい状態の数百個に及ぶ細片であったそうです。これを鈴木尚東大名誉教授による約10ヶ月の鑑定の結果、熟年男性と若い女性の二体の人骨に、犬の骨が混ざっていることがわかりました。
男性の骨は、頭骨の縫合の具合やその状態からして筋骨たくましい熟年男性であると想定され、また女性の骨は、その形状から室町時代の女性と推定され、元来小柄である室町時代の女性の中でもさらに小柄であったようです。
これらの骨が大切な開山像に内蔵されていたということは、この成願寺において重要な人物の遺骨であることは間違いなく、また愛娘である小笹は結婚する前に亡くなったとも伝えらており、この伝説と人骨の鑑定結果はピタリと一致しています。
鑑定された骨片が中野長者と小笹の遺骨である可能性は、かなり高いのではないかと考えられます。。。

中野長者である鈴木九郎のお墓です。
お寺でお聞きしたところでは、第二次世界大戦中の空襲によりこの一帯は焼け野原となり、裏山にあったという長者塚も灰塵と化したそうです。

画像中央は、かつて丘陵上に所在した「鈴木九郎長者塚」に建てられていたという石碑です。
『史蹟 中野開拓 鈴木九郎長者塚 東京府』、背面には『大正十四年 五月』と刻まれています。
かつては塚が東京府の史跡として指定されていたことがわかります。
戦後になって、この石碑のみが現在地に移されたようです。
唯一の塚の痕跡ですね。。。



さて、ここからはわりとタイムリーな画像で、最近再訪した時の画像です。笑。
この成願寺の裏山には、第二次世界大戦中に使用されたという防空壕が残されています。
事前に申し込みをして、この日は防空壕の内部を見学させていただきました。
画像が防空壕の入り口で、ここから内部に入ることができます。

防空壕内部のようです。
防空壕の内部は、総延長30数m、総面積は約80平方メートルです。
内部は堀きりで中が剥がれだし、また上の木は大きく崩落の危険があったことから平成12年(2000)に補強工事が行われており、画像に見えるように壁面が全て鉄板によって保護されています。
戦争当時は、アメリカ空軍の空襲のたびに近隣から多くの人が逃げ込んだそうです。
また、空襲により堂宇や仏像は全焼しましたが、かろうじてご本尊様、ご開山さまと古文書の一部が防空壕によって守られたそうです。
東京都内で、現代まで残されていて、しかも内部を見学できるという防空壕はなかなか稀有で、貴重な存在です。
壁にくり抜かれている空間には、仏像を安置しようとしたそうですが、実際には水漏れが激しく、また木の根が突き出してきたりと、計画通りにはいかなかったそうです。

内部はかなり広くてびっくりです。
中に本堂もあり、風呂や雪隠も備えています。
5月25日夜の空襲の際には、南からの火の手をおそれて北へ転進したところ、逆から火が襲い犠牲になったという悲しい話もあるそうです。境内では、焼かれて骨だけになったしゃがみこんだ遺体が三柱もあったそうです。
以前、5月14日の『古墳なう』の「塔山古墳群」の回でも、焼かれて変形した庚申塔の写真を紹介しましたが、この周辺はかなり激しい空襲が行われたといわれています。。。

防空壕内部の一室には、謎の像と温度計が置かれていました。
内部の気温は22度です。。。

空襲の際には大勢でここに逃げ込んで、皆でガタガタと震えていたのかもしれませんよね。
内部に電気がついていたかどうか微妙だし、想像すると恐ろしいです。。。

再訪した日に御朱印をいただきました。.゚+.(・∀・)゚+.



周辺を歩くと、「長者」の名称がそこかしこに残されています。
画像は「長者橋」。
下を流れているのは神田川です。

「中野区立長者橋公園」。

成願寺の周辺は、中野区の遺跡番号72番の「成願寺遺跡」として登録されており、古墳時代から奈良時代にかけての横穴墓が数多く存在したようです。
画像の周辺にも横穴墓が存在したはずですが、痕跡は全くみられません。
むしろ、成願寺の境内にこそ残されているかもしれませんね。。。

画像は「象小屋の跡」です。
江戸名所図会に「中野に象厩を立ててそれを飼わせられし」と書かれている中野の象小屋は、このあたりにあったといわれています。
当時、象は、まだ珍しい動物で、人々の好奇心をそそり、「象志」「馴象論」「馴象俗談」などの書物が出版され、また、象にちなんだ調度品、双六や玩具類
もさかんに作られました。
中野に来た象は、享保十三年(1728)中国人貿易商鄭大威が将軍吉宗に献上するため、ベトナムからつれて来たもので、途中、京都で中御門天皇と霊元法王の謁見を受け、江戸に着いて将軍吉宗が上覧したあと、しばらく浜御殿に飼われていました。のち、中野村の源助にさげわたされ、源助は、成願寺に近いこのあたりに象小屋を建てて飼育を続けましたが、寛保二年(1742)に病死しました。死後、皮は幕府に献上され牙一対は源助に与えられました。この牙は、宝仙寺(現 中央二丁目)に保存され、戦災にあいましたが、その一部がいまも残っています。(中野区教育委員会説明板より)
というわけで、「鈴木九郎長者塚」が古墳であったか否かの真相はわかりませんでした。
今、両国にある江戸東京博物館で「東京府史蹟」という地域展を開催しています。
ひょっとしたら、「鈴木九郎長者塚」の往時の姿を写真で見られるのではないかという期待があって見学に行きましたが、残念ながら取り上げられていなかったようです。
展示は「館蔵及び寄託資料で「史蹟名勝天然紀念物保存法」成立当時における東京府史蹟の一部を紹介する」ということでしたので、大正14年5月に指定されたという「鈴木九郎長者塚」は含まれていなかったのかもしれません。(ちなみに「発掘された日本列島2020」なる企画展も開催されています。この時期とっても空いていますので、ゆっくり見て回るチャンスかも)
昭和初期までは存在した塚ですので、もう少し深追いをすれば当時の塚の写真が見つかったかもしれませんが、これは今後の宿題ということで。。。
<参考文献>
中野区史跡研究会『東京史跡ガイド⑭ 中野区史跡散歩』
小林貢『中野長者の寺・成願寺』
中野区教育委員会『中野を読むⅠ 江戸文献史料集』
曹洞禅 多宝山 成願寺『「戦争体験」「成願寺界隈の大正・昭和」について』
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- 2020/07/07(火) 23:39:19|
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