
画像は、狛江市中和泉3丁目に所在する「白井塚古墳」を東から見たところです。『東京都遺跡地図』には、狛江市の遺跡番号58番に登録されている古墳です。
この周辺は〈狛江百塚〉と呼ばれ、江戸期にはすでに人々の関心を集めていました。江戸時代の地誌類にも多くの記述が見られ、『武蔵名勝図会』の和泉村の項には「この地并に近村に古き塚多し。謂われあることならんに、絶えて土人の言伝えも聞かず。」とあり、また古塚の項には「大なるは六ケ所、小なるは三ケ所」とも記されています。おそらくは「大なるは六ケ所」という古墳の中にこの白井塚古墳が含まれているのかもしれません。「江戸時代後期の『世田谷領二十ヶ村絵図(嘉永年間頃)』や『和泉村彩色絵図(年代不詳)』にもにもこの白井塚が描かれているようです。
昭和51年(1976)2月には、述べ10日間にわたる調査が行われており、古墳全景の測量や周溝の位置が記録されています。墳丘の規模は、円墳であるとするなら直径36m内外、高さ3.5mで、墳丘の周囲を幅2mのテラスと幅約10mの周溝が取り巻いていることが判明しています。
白井塚古墳の形状は、1961年に西側が2/5ほど、またそれ以前に南側が1/4ほど削平されているようですが、北東部は良好に残されていて埋葬施設の破壊は免れているのではないかと考えられています。造り出し付きの円墳や前方後円墳など、円墳ではない可能性も残されているようです。

墳頂部には、鳥居が建てられており、その奥には稲荷大明神の祠が祀られています。
白井塚古墳は、狛江古墳群の中では比較的大型の古墳です。兜塚古墳や絹山塚古墳と類似する規模で、帆立貝式古墳である亀塚古墳の後円部ともほぼ等しいとこから、古墳群の造営にあたって何らかの統一的企画が存在していた可能性も考えられているようです。
白井塚古墳の埋葬施設は竪穴系であると推定されており、これも亀塚古墳や絹山塚古墳、亀塚古墳などと年代的に近似していると考えられています。白井塚古墳の築造は5世紀後半から6世紀前半と推定されています。

墳頂部から見下ろして見たところ。
周囲はかなり削平されてしまっているようですが、高さはまだ残されているようすがわかります。

画像は、墳頂部に建てられている「稲荷大明神」と刻まれた石碑です。
稲荷祠に祭られている棟札の1枚に「文化十年寅年二月初牛」と記されていることから、この祠が少なくとも江戸時代後期には建てられていることが判っており、またその以前から稲荷大明神が祀られていると推定されているそうです。。。

墳丘には、散在する河原石が見られることから、葺石の存在が考えられているようです。

西側の路上から見た白井塚古墳のようすです。建物の間から、墳頂部の祠を見ることが出来ます。
古墳を削平した際の断面には、ロームの赤土がいくつもの層にわかれた古墳の築造当時のもようがはっきりと残っていたそうですが、古墳の周囲は宅地化が進んでいて見学は困難な状況でした。
当日は、土地の所有者の方に許可を頂いて古墳を見学させていただきました。ありがとうございました。
白井塚古墳は、狛江古墳群の解明にあたって重要な位置を占める、貴重な文化遺産であると思います。
今後も良い形で保存が行われるとよいですね。。。
<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
狛江市教育委員会『市内遺跡発掘調査報告書Ⅰ』
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- 2018/05/15(火) 23:25:28|
- 狛江市/狛江古墳群(和泉)
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