
今回紹介するのは「瀬戸岡古墳群 C群」です。C群は構成する古墳が2基と少なく、標高153mの段丘面に東西に並んでいます。画像は、このうちの1基である「瀬戸岡古墳群34号墳」を東から見たところです。あきる野市遺跡番号67-34番にあたる古墳です。
この古墳は、昭和55年(1980)に、当時地表に露出していたとされる「7号墳」と「30号墳」とともに石室の実測調査が行われており、玄室に胴張りを有する全長3.8mの河原石による横穴式石室的竪穴式石室であることがわかっています。調査後には7号墳と同様に露出した石室が公開されていたようなのですが、当時、車のタイヤが石室に脱輪するなどの事故もあり、10年数年ほど前?に埋め戻されてしまったそうです。

現在石室はフェンスで覆われて保護されて現状保存されています。近くで観察すると地表に露出した石室の一部と思われる石材を見ることができます。あきる野市教育委員会により説明板が立てられていますが、これは34号墳についての説明ではなく、「瀬戸岡古墳群」を総括するかたちで解説されています。
東京都指定史蹟
瀬 戸 岡 古 墳 群
所在地 あきる野市瀬戸岡七九一番 他
指 定 大正十五年五月
瀬戸岡古墳群は、大正十五年(一九二六)に発見さ
れた、径約三〇〇mの範囲に五十基ほどの小規模な
古墳が分布する古墳群です。
古墳は、「竪穴式石室的横穴式石室」とよばれた
特異な石室構造と、焼骨が入った蔵骨器が発見され
たことから、すでに火葬が始まった奈良時代以降の
古墳とされ、当時の考古学会に波紋を呼びました。
現在では、古墳が造られた年代は七世紀代と考え
られ、後世に石室が再利用されて、蔵骨器(八世紀末
~九世紀初頭)が新たに埋納されたものと考えられ
ています。
瀬戸岡古墳群は、南武蔵地域の中で類例が少ない
横穴式石室を構築する高塚古墳で、後期古墳群とし
て最大級の群集をし、学史的にも貴重な古墳群です。
平成十八年三月十六日、旧跡から史跡へ変更しま
した。
平成二十年三月 設置
東京都教育委員会
C群を構成するもう1基の古墳が「瀬戸岡古墳群35号墳」です。34号墳の南東方向に並ぶように存在するとされる35号墳は、酒屋さんの西側の駐車場の出入り口あたりが所在地となるはずなのですが、痕跡は全くなし。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされていますので地中に埋蔵する形で残されているのかもしれませんが、この古墳に関しては詳細は不明です。
次回、瀬戸岡古墳群その4(D群)に続く…
<参考文献>
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
瀬戸岡古墳群市道地区調査会『瀬戸岡古墳群』
東京都埋蔵文化財センター『天神前遺跡 瀬戸岡古墳群 上賀多遺跡 新道通遺跡 南小宮遺跡』
池上 悟 広瀬 和雄『武蔵と相模の古墳 (季刊考古学別冊 15)』
現地説明版
人気ブログランキングへ
- 2017/02/17(金) 02:53:09|
- あきる野市/瀬戸岡古墳群
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
ご~ご~ひでりん様
いつも楽しくブログを拝見しております。
たしか、小金井公園内にある江戸東京たてもの園の屋外展示施設に瀬戸岡古墳があったと思うのですが、あれは今回ご紹介されている古墳群の一つを破壊される前に移設したものなのでしょうか。
- 2017/02/19(日) 17:58:52 |
- URL |
- 路傍学会長 #-
- [ 編集 ]
路傍学会長さま、こんばんは。
江戸東京たてもの園の古墳は、瀬戸岡1号墳と書かれていたと思いますが、これは現在の32号墳のことで、発掘調査後に移設されたようです。瀬戸岡古墳群は著名な古墳群ですが、実際に見学できる古墳は少なくなっているようです。。。
- 2017/02/19(日) 23:55:09 |
- URL |
- ご〜ご〜ひでりん #OsZoF7Es
- [ 編集 ]