
画像は、志木市柏3丁目に所在する「館氷川神社」です。
素盞雄命を祭神として祀る神社で、館之郷に属した館村・引又村・中野村・針ケ谷村・北野村の総鎮守として崇められ、「館のお氷川様」と呼ばれていました。
埼玉県神社庁発刊の『埼玉の神社 北足立 児玉 南埼玉』にはこの神社について、『館の地名は平安時代にこの地を領した藤原長勝の居館があったことにちなんでいる。長勝は、沼に棲んでいた大蛇を退治し広大な田を開いたことから「田面長者」と称された。鎌倉時代には荏柄平太胤長・二階堂土佐守が相次いで居住し、室町期には大石信濃守により改築がなされた。その遺構は「柏の城」と呼ばれ、現在の志木第三小学校敷地が本丸、その東側が二の丸、南側が三の丸、西側の長勝院境内が西の丸と伝えられている。
この「柏の城」の空堀跡の南東にあるのが当社で、社伝によれば、貞観年間(859-877)に藤原長勝が勧請したのに始まり、室町期には「柏の城」の守護神とされたという。このほかにも、延暦年間(1782~1806)に坂上田村麻呂が蝦夷征伐に向かう途中、賊徒に行く手を阻まれた際、大宮の氷川神社の加護によって賊徒を倒せたことから同社を勧請したという説や久安五年(1149)に新座郡の郡司高野大膳亮師之が郷村の鎮守として勧請したという説が伝えられている。いずれにしても平安期から鎌倉・室町期にかけて、土地の開発に当たった有力土豪により崇敬されたことは間違いないであろう。』と書かれています。。。

氷川神社境内の様子です。
想像したよりも明るい雰囲気で、とても素敵な神社でした。
この神社の境内には、古墳ではないかといわれている塚状の地形が存在します。
すでに社殿の右側に塚が見えていますね。。。

画像の地点が、古墳ではないかといわれている地点です。
館氷川神社の境内社となっている場所で、確かに自然地形ではなく、人為的に盛られたのではないかと感じられる、塚上地形が見られます。

塚上の石碑には「木花佐久夜姫命」と刻まれています。
「コノハナサクヤヒメ」と読むわけですが、「サク」の文字が「咲」ではなく「佐久」と刻まれています。また、台座に対してその上の碑が斜めに建てられています。なんとも興味深いです。
志木市内の富士塚としては「田子山富士塚」や「羽根倉富士嶽」が知られているのではないかと思いますが、この舘氷川神社の富士塚(浅間塚か?)の存在は、私も訪れて初めて知りました。

私がこの神社を訪れた際、境内の道場で子供たちの柔道の稽古が行われていました。
そしてお稽古が終わると、三人の少女たちが一目散に走ってきて塚の階段を駆け上がり、塚上に建てられている石碑の周りに集まりました。
純粋な子供たちには神様の姿が見えていて、神様と遊んでいるのかな?などと、すぐに私はそういうことを考えるのですが、なんとも微笑ましく、また不思議な光景でした。。。
立地的には、この高まりが古墳を流用したものである可能性も考えられるのではないかと思われますが、学術的な調査が行われていないことから塚の性格はわかりません。。。
<参考文献>
志木市『志木市史 原始・古代資料編』
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- 2020/11/19(木) 23:01:17|
- 埼玉県の古墳・塚
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| コメント:2
こんばんは!
こちらも初めて知りました。見た目はどう見ても塚ですね。
しかし、建っている石碑は富士塚に関係するもののようで、そういう意味では浅間塚として紹介されていてもよさそうですが、そのような資料は見たことがありません。不思議?!
子どもたちの行動が面白いなぁ。なんで、登っているのかな(笑)
- 2020/11/19(木) 23:12:33 |
- URL |
- torikera #frK3hhYY
- [ 編集 ]
torikeraさま、こんにちは。
人の手によって盛られた塚であるように感じますが、古墳ではないかもしれません。。。
子供達の行動は本当に不思議で、稽古が終わったら塚の上に一直線に走ってきました。笑。
神さまがいれば喜んでいそうです。
- 2020/11/22(日) 13:07:51 |
- URL |
- ご〜ご〜ひでりん #G67hs.TE
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