
前回に引き続き「狛江百塚コンプリート2020」、今回は「その5」です。
最初の画像は、「狛江古墳群地名表」の21番に掲載されている「無名古墳」の跡地周辺の様子です。
旧番地の「和泉954〜960番地」が所在地となるようですが、ピンポイントに正確な跡地までは特定できず。唯一、畑地として残されていた画像の地点が気にはなったものの、古墳らしき高まりは確認できませんでした。。。

画像は、「狛江古墳群地名表」22番の「無名古墳」の跡地周辺の様子です。
所在地は、旧番地の「和泉986〜991番地」とされていますが、これもピンポイントに正確な跡地までは特定できず。画像の道路の突き当たりあたりが跡地かと推定しましたが、やはり古墳らしき高まりは確認できません。。。

画像は、「狛江古墳群地名表」23番の「無名古墳」の跡地周辺の様子です。所在地は、旧番地の「和泉1027〜1028番地」とされていますが、これもピンポイントに正確な跡地までは特定できません。
地元の旧家と思われるかなり広い敷地を持つ個人の邸宅内となるのですが、あてもなくピンポンして「敷地内をみしてください」なーんて言えるわけもなく、古墳の残存の可能性を感じながらも手も足も出なかったという案件です。。。

画像は、「狛江古墳群地名表」24番の「無名古墳」の跡地周辺の様子です。
所在地は旧番地の「和泉1048番地」となっています。
このあたりではないかとあたりをつけて向かった場所が、マンションの敷地の一部がポコっと突き出たような形状となっていて、「こりゃ怪しい!」と感じましたが、フェンスの外から観察したところでは古墳らしき高まりの存在もなく、真相を突き止めるには至りませんでした。。。

画像は、「狛江古墳群地名表」25番の「北久保塚」の跡地周辺の様子です。
所在地は、旧番地の「和泉1225番地」とされていますが、これもピンポイントに正確な跡地を特定するには至らず。古墳の痕跡は残されていないようです。。。

画像は、「狛江古墳群地名表」26番の「手向山」の跡地周辺の様子です。所在地は、旧番地の「和泉1600番地」とされています。
昭和35年(1960)の分布調査時には半壊状態で痕跡が残されていたとされ、存在のきわめて高い古墳であるとされています。
跡地周辺は集合住宅となっており古墳の痕跡は残されていないようです。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-287.html(「手向山」)

画像は、江市和泉本町1丁目に所在する「松原庚申堂」です。
この庚申堂の場所には大昔には塚があり、「庚申塚」と呼ばれていたそうです。この塚は古墳ではないかとも考えられており、「狛江古墳群地名表」には27番に記載されています。
松原にはかつて、あちこちの道路の交差点や路傍に庚申塔などが祀られていたものの、宅地開発などで行方不明になるものもみられました。地域内では事故なども多発し、よくないことも相次いだことから、これらの庚申塔を一箇所に集め、きちんと祀った方がよいであろうということになり、昭和39年(1964)4月に最初の庚申堂がここに建てられたそうです。
その後、さらに庚申塔や石地蔵が集められ、行方不明となっていた石像も発見され、この場所に移されました。
その後は、この地域には事故などがなくなったそうです。

お堂の中には、2基の庚申塔が安置されていますが、堂の外にも数体があり、いずれも各地から集められてきたものであるようです。
「狛江古墳群地名表」には、「10m内外の規模か 台地の中央部より北側の位置」とあり、また「寺境内」とも書かれているのですが、調べてみると、この庚申堂の場所は泉龍寺の所有地であったようです。
また、古墳の所在地は旧番地の「和泉1678番地」となっていますが、『狛江村土地宝典』で確認したところではこの場所が跡地となるようです。
現在、塚は学術的な調査が行われることなく削平されており、塚が古墳であったかどうか塚の性格は不明なままです。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-846.html(「庚申塚」)

画像は、「狛江古墳群地名表」28番の「善明寺古墳」の跡地周辺の様子です。「狛江古墳群地名表」にある所在地は、旧番地の「和泉1225番地」とされています。
品川道を東から歩いてくると、この場所で道路がまるで二股に分かれているような形状となっているのですが、品川道は右側に続いていきますが、二股の左側はすぐに行き止まりとなっており、その間の三角地が小公園となっています。
どういう経緯でこういう形状となったのか真相はわかりませんが、善明寺古墳の所在地はこの三角池の周辺になるようです。

よくみると、丸石で造られた道標が設置されています。
戦後の空中写真で確認すると、むしろ二股の左側の道が品川道で、そもそも二股の分かれ道ではなかったようです。したがって、道標は正しい位置に設置されているということになるようですが、かつての品川道はここに存在する古墳を避けるためにカーブを描いていた、という可能性も考えられますし、なかなか興味深い場所です。

三角地は小公園となっており、砂場や滑り台、ベンチなどが設置されています。

画像は「松本塚」と推定した塚状地形です。
『東京都遺跡地図』にも未登録で、昭和35年に当時の狛江町教育委員会により行われた狛江古墳群の分布調査により作成された「狛江古墳群地名表」にも掲載されていない塚で、古墳ではないかもしれないのですが。。。(ただし、この地名表には名称もなく所在地の不明という古墳が和泉地区の中だけでも9ヶ所あり、ここに含まれていたという可能性は考えられます。)
私はいまだ、石井千城氏により書かれた『狛江百塚』を拝見する機会には恵まれていないのですが、この『狛江百塚』の内容の一部を紹介した『狛江市史』には「松本塚」の名称が見られます。
狛江市内の古墳の多くは、「○○塚」という具合に古墳の敷地の所有者の名前がつけられているパターンが非常に多く、したがって松本家の敷地内にあるというのみで、この塚が松本塚ではないかと想定したわけなのですが、松本家の奥様にお話をお聞きしたところではやはりこの塚は古墳ではないのかな?という印象ではあるのですが、これは今後の宿題ですね。
いづれにせよ、いつの日か『狛江百塚』の閲覧の夢がかなう日を夢みて今後も古墳活動を続ける次第です。。。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1019.html 今日はここまで。さらに次回のその6に続きます。。。
<参考文献>
塩澤栄八郎『東京府北多摩郡狛江村土地宝典』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市農業協同組合史編纂委員会『狛江市農業協同組合史』
狛江市『新狛江市史民俗調査報告書6 和泉の民俗』
人気ブログランキングへ
- 2020/11/29(日) 15:41:18|
- 狛江市/その他の古墳・塚
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0