「瀬戸岡古墳群」は、多摩川の支流にあたる平井川の右岸、秋留台地上に所在する群集墳で、径約300mほどの範囲に約50基の古墳が分布しています。大正時代後半から昭和初年にかけて最初の発掘調査が行われており、7世紀後半に築造されたと考えられる古墳は「竪穴式石室的横穴式石室」と呼ばれる特異な石室構造が採用されており、また、石室内からは焼骨が入った蔵骨器が発見されたことから、後世に石室が再利用されて蔵骨器が新たに埋納されたと考えられているようです。この古墳群は大正15年に東京都の旧跡に指定され、平成18年には史跡へと変更されています。古墳群の大部分にあたる岸野氏の宅地内は東京都の「歴史環境保全区域」に指定されており、古墳が保存されています。
この瀬戸岡古墳群は以前に一度、この「古墳なう」にて探訪記録を掲載したことがあるのですが、その後に調べてわかってきたこともあり、また再訪して写真が増えたこともあったので、もう一度整理したいと考えていました。今回はあらためて瀬戸岡古墳群の全貌を書き留めておこうと思います。

さて、平成13年(2001)に東京都埋蔵文化財センターより発行された『天神前遺跡 瀬戸岡古墳群 上賀多遺跡 新道通遺跡 南小宮遺跡』の「瀬戸岡古墳群の再検討」において、この古墳群を平面分布図上5つの支群に区分できるとしてA~E群と仮称しています。このうち、今回取り上げるのはA群です。A群は標高158m前後の段丘面に位置しており、9基で構成されています。
瀬戸岡古墳群中の記録に残されている最初の発掘は大正15年(1926)、土地の耕作中に1基の古墳が発見されたことにより瀬戸岡青年団有志により1月5日に発掘が行われ、この報告を受けた稲村担元氏と後藤守一氏により1月13日に実地踏査が行われています。この「カスミノ古墳」の所在地については、『東京府史蹟保存物調査報告』第四冊にある「多西村大字瀬戸岡より、西隣平井村に通ずる府道に沿ふ小高き畠地にありしもの」という記述のみで、正確な所在地はわからなくなっているようですが、同書の掲載写真の位置関係の検討等により瀬戸岡神明社の西方150~160m程の畑地内と推定されているようです。つまりは、カスミノ古墳はA群の範囲内に含まれる古墳ということになるようですが、現在把握されている9基のうちの1基であるのか、それとも未確認の場所にこの古墳が存在するのかは不明であるようです。
画像は、「瀬戸岡古墳群9号墳」の跡地周辺のようすです。数ある瀬戸岡古墳群の分布図を参考にすると、画像の駐車場のあたりが所在地ではないかと思われ、瀬戸岡神明社の西方100m程の地点にあたることから「カスミノ古墳」がこの9号墳である可能性も考えられるかもしれません。古墳の痕跡は何も残されていないようですが『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」としており、地中に埋葬施設が残存する可能性は残されているのかもしれません。

続いて「瀬戸岡古墳群8号墳」の跡地周辺のようすです。道路が交差するあたりが古墳の所在地であるようですが、周囲は宅地化が進み、また道路の部分は削られていることから、恐らく消滅していると思われる古墳です。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』でも「消滅」とされているようです。

画像は、瀬戸岡791番地に所在する「瀬戸岡古墳群7号墳」を南から見たところです。50基以上を数える瀬戸岡古墳群中唯一の石室が見学できる古墳で、フェンスで区切られた敷地内にはあきる野市教育委員会による説明板が設置されています。

画像が、フェンス内の石室のようすです。昭和55年(1980)、当時地表に露出していたとされる3基の積石塚古墳の石室の実測調査が行われており、この7号墳はそのうちの1基です。ほかに「30号墳」と「34号墳」の調査が行われているようですが、その後公開されていた34号墳は現在埋め戻されており、また30号墳は都道の建設に伴い消滅、築造された場所で保存、公開されている古墳は、この7号墳の1基のみとなっているようです。

南から見た石室のようすです。ご近所の人の話では、公開当初と比べると少し石材が崩れてきているようです。。。

あきる野市教育委員会により設置された説明板には次のように書かれています。
都史蹟
瀬戸岡古墳群
所在 東京都あきる野市
瀬戸岡七九一番地他
指定 大正十五年五月
大正末から昭和初頭にかけて、
鳥居龍蔵、後藤守一両氏らによ
る発掘調査の結果、古墳時代終
末期から奈良時代にかけての古
墳であることが判明した。
また、この地域一帯に同型の
古墳が散在し、考古学上極めて
貴重なものであり、大正十五年
五月、都旧跡に指定された。
出土品には玉、直刀、土師器
須恵器、刀子、鉄鏃等がある。
東京都あきる野市教育委員会
「瀬戸岡古墳群6号墳」の所在地周辺のようすです。
瀬戸岡古墳群は、平成4年(1992)に多摩地区所在古墳確認調査団による分布調査と地形図の作成が行われています。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には「明確に確認できるのは6号墳の僅かな高まりのみ…」と、調査当時に6号墳の墳丘が残されていたことが記されているのですが、現在は整地されてしまったのか、それとも南側の集合住宅の建築の際に削平されたのか、墳丘らしきマウンドは消滅してしまったようです。

平成4年度の多摩地区所在古墳確認調査団による分布調査の際には6、7号墳の存在する地域の約30m×40mの範囲で地下レーダー探査が実施されており、2箇所から古墳の石室ではないかと思われる反応が認められているようです。画像は、このうちの1基である「瀬戸岡古墳群42号墳」の所在地周辺のようすです。この場所には現在、集合住宅が建てられています。図書館や郷土資料館で確認したかぎりでは発掘調査報告書等は刊行されていないようなのですが、調査が行われないまま消滅してしまったのでしょうか。古墳の痕跡は見ることが出来ないようです。

画像は、「瀬戸岡古墳群43号墳」の所在地周辺のようです。この古墳も、平成4年度の地下レーダー探査により反応が認められた古墳です。地下レーダー探査まで行われていながら、住宅建築の際に何の調査も行われないというのも不思議なことですが、この古墳についても発掘調査報告書等を見つけることは出来ませんでした。果たして石室が地中に残存しているのか、それとも消滅してしまったのか詳細はわかりません。

画像は、「瀬戸岡古墳群5号墳」の跡地周辺のようすです。画像中央の盛土のように見える場所は古墳とは特に関係がなく、古墳分布図から推定すると木立の中に存在するのではないかと思われます。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされているようですが、正確な所在地はわかりません。。。

画像は、「瀬戸岡古墳群4号墳」の跡地周辺のようすです。建物のあるあたりが古墳の所在地と思われ、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』でも「残存」とされている古墳ですが、正確な所在地はわかりません。4号墳と5号墳の跡地とされるこの場所は元は石材屋さんか何かが存在したのではないかと思われ、敷地内に大石がゴロゴロと置かれているので、古墳の石材なのか判別がつかない状況です。
A群最後の古墳は「天神前遺跡1号古墳」です。都道の建設に伴い平成9~10年にかけて行われた発掘調査により検出され、石室の全面調査が行われています。石室床面が検出されたものの石室内部の石材は抜き取られて遺存状況は極めて悪く、周溝等の外部施設も確認されなかったようです。石室は内法規模が0.35m×1.40mと小規模な石室で、横穴式石室の簡略形態の一つと考えられているようです。古墳は、都道秋多3・4・6号線用地となり、消滅しているようです。
次回、瀬戸岡古墳群その2(B群)に続く…
<参考文献>
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
瀬戸岡古墳群市道地区調査会『瀬戸岡古墳群』
東京都埋蔵文化財センター『天神前遺跡 瀬戸岡古墳群 上賀多遺跡 新道通遺跡 南小宮遺跡』
池上 悟 広瀬 和雄『武蔵と相模の古墳 (季刊考古学別冊 15)』
現地説明版
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- 2017/02/14(火) 01:49:31|
- あきる野市/瀬戸岡古墳群
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