
前回に引き続き、今回も上三川町で見かけた塚をテーマに、今回は源頼家にまつわる伝承の残る、「勝善神」の塚を取り上げようと思います。
上郷地区に広がる田園の真ん中を流れる江川の堤防にかかる塚田橋のほとりに、「勝善神」と刻まれた供養の碑が建っています。
ここにはある伝説が残されています。
平安時代末期のお話ですが、欧州で起こった反乱を平定するため、源頼家の一行が当地にさしかかった際に、長い旅の疲れからか愛馬が病に倒れてしまいました。頼家は近くに陣幕を張り、愛馬の回復を祈りますが、その甲斐なく愛馬は数日間の闘病の末に死んでしまいました。
そこで頼家は近くに塚を築き、馬をねんごろに葬り、供養のために一本の 松を植えて別れを惜しみました。
頼家は愛馬を失った悲しみから代わりの馬には乗らず、篭に乗って発っていったといわれており、その場所は今でも「お篭立ち」といわれているそうです。
その後、塚の付近では濃厚に働いた馬が次々と病に倒れ、あるいは足を折り、また死んでしまうといった不幸が続き、地元の人たちは大変驚きました。これは亡くなった馬の祟りではないかということになり、地主が鎮魂のための石碑を建てて供養したところ、それ以来ウソのように不幸な事故は起こらなくなったそうです。
頼家が陣を張ったという「幕内」の地に食事に使った杉の箸を挿しておいたところ、根がついて枝の下がった大木となり、この杉は明治の始め頃まで立っていたそうです。

塚の横には舗装道路が造られており、この道路は周囲よりも高くなった江川の土手に向かっています。
したがって、道路が塚よりも高く盛られてしまっている状況ですが、以前はここが塚状に周囲の田畑よりも高くなっていたのではないかと妄想できます。
かつては田園の中の塚であったことが偲ばれます。
この塚の下に、頼家の愛馬が眠っているのでしょうか。。。

勝善神の石碑の背面の様子です。
頼家の愛馬の伝承について刻まれています。

江川にかかる「塚田橋」です。
「塚田」の名称が気になるところですが、やはり由来は頼家の伝承となるのでしょうか。。。
<参考文献>
上三川町『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』
上三川町教育委員会『上三川町の古墳Ⅰ』
上三川町教育委員会『上三川町の伝説と民話、続編』
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- 2021/02/03(水) 00:10:37|
- 上三川町の古墳・塚
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