
画像は、上三川町東蓼沼に所在する「星の宮神社」です。
大化二年(646)の創立とされ、盾部速川前公が磐裂命・根裂命・経津主命を郷土の氏神・守護神として奉祀したといわれる古社です。
この神社の周辺にはかつて「おさん塚」と呼ばれる大きな塚が存在したといわれています。
古墳時代末期に創立されたというこの神社のすぐ目の前にあったという塚が古墳であった可能性はないのかよと、いつもの妄想が止まらなくなってしまい、上郷地区の古墳を見学した跡にこの星宮神社まで足を伸ばしてみました。

まずは参拝ということで、画像は二の鳥居です。
「おさん塚」はかつての地名で、通りがかりの地元のおばあちゃんに場所をお聞きして、「星宮神社の目の前のなんにもないところだよ」と二つ返事で教えていただいて、「ホントになんにもないよ?」と念を押されました。笑。
上三川のおばあちゃん、いい人です。。。

星宮神社拝殿と境内の様子。

塚の跡地はだいたいこのあたり?
おそらく、空き地となっているこの地点か、隣接する民家のあたりではないかと思われますが、正確な跡地まではわかりません。
「おさん塚」の名称の由来はわからなかったのですが、往時には高さ4メートルほどの大きな塚があり、ここから上郷方向に古い堤防があったそうです。塚には多くな榎が立ち、船を結んだところだったといわれています。
地元の人にはこの塚は「ハンノキ山」と呼ばれており、薪採取や兵隊ごっこの場所だったそうです。
残念ながら塚の痕跡はまったくなし。塚が消滅したのは学術的な調査が行われるようになる以前で、出土品の伝承も見つからず、古墳であったか否か、塚の性格まではわかりませんでした。。。

この地には、平将門にまつわる有名な伝説が伝えられています。
敗戦により平将門の家来(四天王)が女や子供を連れ、上総国より鬼怒川を船で上がってきたものの、ちょうど東蓼沼のあたりで船が沈没して岸に登ってきたそうです。
画像の、「銅沼(どうぬま)」と呼ばれる三角形をした田んぼがこの場所なのだそうですが、ピンポイントに上陸した正確な場所まで伝えられているところがすごいですよね。。。
実は、祟りの伝説で知られる、東京大手町の「将門塚」に手がつけられている!ということで、将門塚がとても気になっていたのですが、ひょんなことから平将門にまつわる伝説に触れることになってびっくりしました。。。

東蓼沼の「上総堂墓地」です。もとの満福寺の跡地ですが、満福寺は鬼怒川の洪水により現在地に移されています。
上陸した平将門の家来たちはこの地に土着しており、持参した仏像を安置するために堂宇を建立してこれを上総堂(かっつぁどう)と呼び、一族のよりどころとしたそうです。

ここが現在の上総堂(かっつぁどう)です。
さてさて、ここで世の中に文句。笑。
栃木県は、他県と比べて説明板が少ない気がします(数えたわけではなく、あくまで私の印象ですが)。
訪れた当日、地元の方に道をお聞きした際に、平将門にまつわる伝説をお教えいただきました。
「きっと、地元の人の間では知らない人はいないような有名な伝説なんですよね?」とお聞きしたら、「年配者は知らない人はいないかもしれないが、若い人はどうだろうねえ?」というお答え。
前々回の「ネズミ観音」も然りこの上総堂も然り。
知る人ぞ知る地元では有名な伝承地なのだし、地元の人のためにも観光で訪れた人のためにも、説明板が設置されていて詳しい解説があったらいいのになあといつも感じてしまいます。
<参考文献>
上三川町『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』
栃木県神社庁『栃木県神社誌』
上三川町文化財研究会編集委員会『上三川町の地名調査』
上三川町教育委員会『上三川町の伝説と民話』
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- 2021/02/04(木) 22:00:55|
- 上三川町の古墳・塚
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