
今回も上三川町の下蒲生地区に所在する古墳。前回に引き続き「Ⅱ支群」に属する古墳の特集です。
まず最初の画像は「下蒲生4号墳」です。
この古墳はよくわからない点が多いのですが、昭和54年(1979)に上三川町により発行された『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』にはこの古墳について、
下蒲生4号墳(下蒲生蒲生原)は、蒲生神社境内にあり、参道半ばにある鳥居の両側にある円墳である。小丘で、径4メートル弱、高さ0.5メートルを計る。 と書かれています。
まず、「参道半ばにある」という記述ですが、現在の古墳らしき高まりは参道半ばではなく、参道の入り口のあたりに存在します。ひょっとしたら、町史の書かれた40年前には今よりもずっと長く参道が伸びており、現在の塚の場所が参道半ばの鳥居だったのでしょうか。
さらに「鳥居の両側にある円墳」という記述も気になります。「両側」ということは古墳は2基あったのか?と思われますが、現在残されている高まりは1基のみです。
現在見られる参道を直線上に伸ばすと、現在の高まりは参道の東側にあたると想定されますので、ひょっとしたらかつては西側にもう1基存在したのかもしれませんが、西側は舗装された道路となっていますので、もうすでに消滅してしまったのかもしれません。。。

墳丘頂部に建てられ石碑の様子です。
これが古墳であれば、かなり良好に残されている印象です。
古墳なのかな。。。?

墳丘裾に建てられた「勝善神」と刻まれた石碑。

さて、蒲生神社の社殿の西南にもう1基、「下蒲生5号墳」が所在するはずです。きちんと参拝してから見学しようということで、蒲生神社に向かいます。
画像は鳥居と参道の様子です。
町史にある「参道半ばにある鳥居」とは最初はここかな?と思いましたが、鳥居の両側に古墳らしき高まりはまったく見られません。。。

社殿の様子です。
この神社の主祭神は大己貴命、配神は豊城入彦命・事代主命で、上古に蒲生稻置が奉祀したと伝えられています。明治期に村社に加列。現在の社殿は平成9年に改築されたものであるそうです。
この西南に下蒲生5号墳が所在します。
早速見てみましょう。

下蒲生5号墳です。
とてもきれいな高まりです。
『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』には「墳丘南側は若干変形しているが、径約6メートル、高さ1メートルを計る」とあり、この規模は現在もあまり変わっていないように見受けられます。

塚の周囲に周溝らしき堀がきれいに周回しているのですが印象的です。

墳丘頂部には、江戸期のものと思われる庚申塔が1基、建てられています。

社殿の北東にも塚状の高まりが見られ、境内社として稲荷神社・星宮神社・須賀神社が祀られています。
ここは古墳じゃないんだよね、きっと。。。

蒲生神社の東方、現在の新4号国道の西側に所在したといわれているのが「おしじる塚古墳」です。
墳丘径約15m、高さ約3mほどの円墳であったといわれていますが、昭和47~48年頃に破壊され、消滅しています。
<参考文献>
上三川町『上三川町史 資料編 原始・古代・中世』
上三川町教育委員会『上三川町の古墳Ⅰ』
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- 2021/02/10(水) 23:07:48|
- 上三川町の古墳・塚
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| コメント:2
こんにちは!古墳への探求は、ゴールがありませんね(*^_^*)
写真の勝善神というのが気になって検索したら「そうぜんしん」と読むようですね。あるサイトによると・・・
昔(昭和時代前半までくらいかな)馬を飼っていたところに、このような石塔が多いようです。田畑が多いところであれば、農耕馬。栗山地区あたりでは林業にも馬が係わり山から木を切り出す仕事をしていたのでしょう。その馬達の神様が勝善神のようです。勝善神は、主として馬産地において名馬の誕生を祈願する意味の強い信仰のようです。また、よく見かける、馬頭観音碑は馬の安全や健康を祈ったり、亡くなった馬の冥福を祈ったり、戦争に供出された馬の無事を祈願する意味あいもあったようです。勝善神・馬頭観音碑どちらとも馬を家族同様に大切にしていたということが理解できます。
なんて書いてあって、いやぁ勉強になりましたm(__)m
- 2021/02/14(日) 11:52:50 |
- URL |
- torikera #frK3hhYY
- [ 編集 ]
torikeraさま、こんばんは。
貴重な情報ありがとうございます。
「そうぜんしん」と読むのですね。頭の中では「しょうぜんしん」という語感が響いていました。。。
都内在住の頃は、馬頭観音の石塔を比較的よく見かけた気がしますが、栃木県内では馬頭観音はもちろんのこと、「馬力神」や「勝善神」といった石碑もかなり多く見かけます。地域によって特色があるのだなと思います。
江戸時代から変わらず現代まで農業が盛んな地域なのだと感じます。
ちなみにこちらでは、未だに一度も富士講により造られた富士塚を見かけません。まだあまりふyかく調べていませんが、1基も存在しないのかもしれません。。。
- 2021/02/17(水) 14:26:19 |
- URL |
- ご〜ご〜ひでりん #G67hs.TE
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