
今回も引き続き、北区中十条2丁目所在の「富士塚古墳」の探訪の記録、その6です。
時期的にそろそろ発掘調査が始まっているのではないか、ということで今年の2月に立ち寄りました。が、週末に訪れたため、シートで覆われていて墳丘の様子を見ることができませんでした(がっくし…)。
ただし、調査はすでに始まっているとみられ、黒ボク石や石碑、参道となっていた石段や頂上の石祠は撤去されているのがシート越しにもわかります。
発掘の様子はまた平日に出直したわけですが、これはこれで楽しめました。笑。

さて、北区内には、現在はすでに消滅してしまったものの、古い郷土史本などを紐解くと、伝承としてのみ残る古墳は少なくないようです。
これについてはこれまでに色々と調べていたのですが、結局わからないことも多く、最近はコロナの影響などもありなんとなく放置になっていました。
せっかくなので、今わかっていることを書き記しておこうと思います。
この周辺のかつての地名は上十條の小字の「大塚」で、これはこの地域に所在した大きな塚が由来であるとされています。
この大塚は、この地域が室町時代の太田道灌と豊島氏との間の古戦場であったことから、道灌が板橋氏を攻めるために城中をうかがうべく、一夜にして築いた塚である、ともいわれているようですが、塚はかなり大きなもので、古墳であったともいわれているようです。
また、同じ十條の小字大塚には「平塚」と呼ばれる塚も所在しました。
この塚は明治初年に発掘され、武器の類がかなり出土したようですが、そのまま埋め戻されたようです。
この塚も、室町時代後期の豊島泰経と太田道灌との間で行われた合戦の戦死者を埋葬した塚であるともいわれているようですが、やはり古墳であるとも考えられていたようです。
ちなみにおとなりの、十條の小字仲原には「遠藤塚」と呼ばれる塚が所在しました。
近世の領主遠藤角右衛門の祖麁先の墳墓であるとといい伝えられていましたが、これも古墳であったと考えられているようです。
残念ながらどちらの塚もすでにまったく跡形はなく、正確な所在地を突き止めることはできなかったのですが、この中十条2丁目の「富士塚古墳」の旧番地を調べてみると、神社の境内地が上十条1415番地、塚の部分が同1416番地と、小字大塚の町内に当てはまっており(小字大塚は1413番地から1597番地までで、十条富士は小字大塚の東端にあります)とても興味深いです。
十条富士と同じ中十条2丁目の住宅地から、密集する3基の小円墳が検出されている(十条台古墳群)あたりから考えても、この地域に存在した大古墳群を妄想してしまいますね。。。

頂上にあった石祠は仮宮ということで、歩道に移設されていました。
以前は「中十条二丁目児童遊園」として砂場があったあたりですね。
仮宮とはいえ、周囲よりも若干小高くして祀られているところが興味深いです。

石祠の現在の様子です。
基壇の部分が新しいことが、逆に祠の長い歴史を感じさせますね。。。

北区教育委員会による説明板も、この仮宮を覆うフェンスに移設されていました。

「十条富士塚の再整備(現状変更)のお知らせ」が設置されていました。
以前に貼られていた掲示からすると、墳丘はほぼすべてが一度削平されてしまい、そのあとに新しい富士塚を築造するものだと解釈していましたが、このお知らせには「富士塚および古墳を可能な限り保存する。」と書かれており、どうやら古墳は消滅してしまうわけではなさそうです。
ていうか、この段階ですでに古墳であると断言されていますね。笑。
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-67.html(2012/10/16「富士塚古墳」)
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1287.html(2021/03/22「富士塚古墳 その2」)
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1288.html(2021/03/23「富士塚古墳 その3」)
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1289.html(2021/03/25「富士塚古墳 その4」)
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1290.html(2021/03/26「富士塚古墳 その5」)
<参考文献>
東京都北区役所『新修 北区史』
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- 2021/03/28(日) 21:05:29|
- 北区/十条台古墳群
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