
画像は、さいたま市北区別所町にある「別所稲荷神社」です。
埼玉県神社庁より発行された『埼玉の神社』によると、このお稲荷さまは元々、鎮守の三十番神社に境内社として祀られていたそうです。おそらくは、三十番神社が法華経を守護する三十柱の神々を祀った神仏混淆の社であることから、神仏分離に際し、境内社であった当社を本社として祀り、代わって三十番神社を当社の境内社としたのではないかと考えられています。
現在、当社の傍らに鎮まる三神社が三十番神社の後世の姿といわれています。
明治6年4月に村社に列格、その後明治40年5月に同村大字吉野原の諏訪社に合祀され、これにより諏訪社は南方神社と改称されています。しかし、当社の社殿はそのまま残され、祭祀は旧地において継続して行われました。
終戦後、氏子の間から旧地で正式に神社を祀りたいという声が徐々に上がり始め、続いて昭和32年に区画整理が始まると「このままでは境内地が削られるおそれがある」として、その年の内に南方神社の承認を得て合祀を解き、更に宗教法人としての認可を受け、昭和32年に復祀したといいます。
この稲荷神社の参道の東側に「仙元様」の塚が所在します。

ちょっと離れてみるとこ〜んな感じ。
塚の規模は、東西9m、南北15mで形状は長方形を呈しており、高さは3mと比較的大きな塚です。

北西から見たところです。
この塚は、鴨川左岸の段丘縁辺部に所在しており、鴨川をもう少し下って西区から大宮区内に入ると古墳が集中して築造された地域ということになります。
元々その場所にあった古墳を富士塚に転用したという事例は数多く存在しますが、地元の人の話では、この塚はかつて南方にあった弁天社の堀を掘削した際の残土を盛り上げて築造されたといわれています。
これが史実であれば、古墳である可能性はなさそうです。。。

塚の頂部には東西2m、南北2mの平坦部が設けられており、石造の祠が祀られています。

頂上には2基の「富士仙元宮」の石塔が建てられています。
おそらくは、奥に見える石塔が破損したために、新たに手前の石塔が再建されたものであるようです。

塚の南裾、石段の登り口右手にある「富士登嶽記念碑」の石碑。
大正9年(1920)に建立されたもので、以前は塚の南東のやや離れた位置にあったそうです。
<参考文献>
さいたま市教育委員会『さいたま市の塚調査報告』
埼玉県神社庁『埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉』
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- 2021/11/27(土) 23:58:33|
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