
画像は、「多摩川台古墳群8号墳」を西から見たところです。
多摩川台古墳群の築造は前方後円墳である1号墳から始まり、7世紀前後に3→4号墳と5→6号墳と併行して造られ、7世紀第2四半期に7号墳と、ほぼ15年前後で順次築造されているとされており、多摩川台古墳群中最後の7世紀中頃に築造されたのがこの8号墳です。直径16.5m前後の円墳で、列をなす1~7号墳から少し離れた場所に所在しています。
周溝は幅の狭いU字形をしており、また石室の奥壁が墳丘の中心となっているのは、古墳の所在地の尾根地形が影響していたのではないかと考えられているそうです。
この8号墳前に、「多摩川台古墳群」についての東京都教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。
東京都指定史跡
多摩川台古墳群
所在地 大田区田園調布一丁目六十三番
同四丁目三番
指 定 平成十二年三月六日
多摩川台古墳は、八基からなる古墳時代後期の古墳群である。古
墳群の南側には国指定史跡亀甲山古墳、北側には東京都都指定史跡
宝莱山古墳の二基の大型前方後円墳が古墳時代前期(四世紀)に築
造されている。
古墳群は、最初に二号墳が六世紀前半に築造され、二号墳を前方
部として利用し、一号墳を後円部とする一基の前方後円墳(全長三
十九メートル)が六世紀後半に築造された。その後、三号墳から八
号墳までの円墳(直径十三~十九メートル)が七世紀中頃まで継続
して築造された。
発掘調査された古墳の横穴式石室内からは、副葬された直刀や鉄
鏃等の武具類、耳飾りや管玉等の装身具類、馬具の轡、須恵器や土
師器が出土し、墳丘部からは円筒埴輪が発見された。
本古墳群は、大田区田園調布付近から世田谷区野毛付近に所在し、
昭和初期に五十四基の古墳が確認されていた荏原台古墳群の一支群
にあたる。今日、荏原台古墳群の多くの古墳が都市化の波に埋もれ
てしまっている中で、本古墳群は往時の姿をとどめているだけでな
く、当時の多摩川下流左岸地域の首長墓群の変遷をたどることがで
きる貴重な古墳群である。
平成十三年三月三十一日 設置
東京都教育委員会
小金井市の小金井公園内にある「江戸東京たてもの園」には、この「多摩川台8号墳(旧9号墳)」の石室のレプリカが展示されています。凝灰岩を用いた横穴式石室で、金環、小玉、直刀、刀子、須恵器、土師器杯形土器などが出土しています。

かなり前の話ですが、あきる野市の「瀬戸岡古墳群」を見学した際に、瀬戸岡32号墳(旧1号墳)の石室が移設されていることを土地所有者の岸野氏に教えていただいたことから、この石室を見るために江戸東京たてもの園を訪れたのですが、瀬戸岡32号墳の隣に多摩川台8号墳の石室の存在を知った時には気持ちが高ぶったよなあ、と当時を思い出します。。。

多摩川台公園内の古墳展示室には、8号墳から出土した須恵器長頸瓶のレプリカが公開されています。説明板には「横穴式石室の前室から3点、土師器坏形土器1点と共に出土した。そのため、前室では葬送祭祀が行われたのではないかと考えられている。長頸瓶の中には、酒などの飲物でも入れたのであろうか?その姿からフラスコ形瓶とも呼ばれ、2つの半球形を合わせ、側面に孔を開け長い口頸部を接合して作られる。これらの生産地は東海地方に限られるとされ、7世紀前半に始まり、8世紀に続くと考えられている。」と書かれていました。
<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
野本孝明「南武蔵 多摩川台古墳群」『武蔵と相模の古墳』
大田区立郷土博物館『大田区古墳ハンドブック―多摩川に流れる古代のロマン』
大田区立郷土博物館『大昔の大田区 原始・古代の遺跡ガイドブック』
現地説明版
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- 2017/07/28(金) 01:15:21|
- 大田区/田園調布古墳群
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