
今回は、春日部市内牧(うちまき)字塚内(つかない)周辺に所在する「内牧塚内古墳群」の探訪の記録です。
この古墳群は南埼玉地域では最多の古墳数で、6~7世紀の古墳時代後期に築かれており、現在19基の古墳が確認されています。
このうち1~7号墳が春日部市の史跡に指定され、また発掘調査が行われた「塚内4号墳」の出土遺物が春日部市の有形文化財に指定されています。
最初の画像が「内牧塚内古墳群1号墳です。
古墳の目の前に、「内牧塚内古墳群」の説明板と石碑が建てられています。

1号墳は、開墾により消滅したとされているようなのですが、現地で表面観察した印象では、わずかな地膨れが認められます。(最初に訪れた日に出会った地元のボーイスカウトの方も、「あの膨らみが1号墳だ!」とおっしゃっていましたし。笑。)
角閃石安山岩の出土が伝えられ、横穴式石室を持った円墳と推定されています。

内牧塚内古墳群とその時代
春日部市指定史跡「塚内古墳群」
指定年月日 昭和三十四年一月三十日
内牧塚内古墳群が築かれた六世紀中頃から七世紀は、
古墳時代後期にあたります。大型の前方後円墳が徐々に
築かれなくなり、小規模な古墳が全国各地で増加します。
内牧塚内古墳群は二十基以上の古墳から構成されていま
すが、このように狭い地域に古墳が密集して形成された
古墳群は「群衆墳」と呼ばれ、この時期を代表する古墳
の在り方です。
前方後円墳をはじめとする大型の古墳は、一般的に大
王や地方豪族など一部の有力者が築いたものでした。一
方で、群衆墳に葬られた人々は、それらに仕えた地元の
有力者とその家族であったと考えられます。
このような群衆墳の広がりは、近畿地方を拠点とした
ヤマト政権の支配が各地方に浸透した結果と考えられて
います。内牧塚内古墳群は、古墳時代の春日部の地にも、
遠く離れたヤマト政権の影響がおよんでいたことを表す
遺跡といえます。
平成三十一年三月
春日部市教育委員会

この1号墳の目の前がバス停なのですが、このバス停の名称も「塚前古墳群」なんですわ。
素晴らしい!。。。

1号墳の北東側、道を挟んだにあるのが「内牧塚内古墳群2号墳」です。
1号墳とは10m程しか離れていないのですが、なぜか見学したのは別の日なので、2号墳の写真は曇ってますな。。。
個人の民家の敷地内にある古墳ですが、土地の所有者の奥様に許可を得て見学させていただきました。
部分的に削平されているそうですが、素人目には良好に残されている印象です。。。

ちょっと角度を変えて。
現存墳丘は直径約15m、高さは1.5mで、墳丘周辺には角閃石安山岩がみられ、横穴式石室が構築されていたと推定されています。

私がこう、地面を見ていてですね。
奥様が「植木鉢の破片が散らばっていて紛らわしいのよ~」みたいにおっしゃったんですけど、「いやいや奥さん!これなんかは植木鉢じゃなくて当時物っすよー」みたいな会話で、楽しかったです。

同じお宅の敷地内にある祠です。
位置的に、ここは16号墳の痕跡ではないかと高ぶりました。
旦那様曰く、若いころから墳丘らしき高まりはなかったそうですが。。。

いや、若干の高まりが残されているようにも感じるのですけどね。
いつもの妄想かも知れませんけどね。。。

祠の様子です。

このあたりに13号墳があったと思われますが痕跡なし。
正確な所在地は分かりません。。。
というわけで今回はここまで。
以下、次回に続きます。。。
<参考文献>
埼玉県教育委員会『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』
塩野博『埼玉の古墳 北埼玉・南埼玉・北葛飾』
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- 2022/05/22(日) 23:54:17|
- 埼玉県の古墳・塚
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