
画像は、板橋区小豆沢4丁目にある「小豆沢観音塚古墳」を南東から見たところです。板橋区の遺跡番号163番の塚として登録されています。
「志村古墳群」は志村台地の縁辺に位置する、志村2丁目から小豆沢4丁目にかけての古墳群です。小豆沢観音塚古墳はこのうちの1基とされていますが、未発掘の塚であるため古墳であると確定はされていないようです。『東京都遺跡地図』には、「小豆沢観音塚古墳」という名称で登録されていながら、遺跡の概要が古墳ではなく「墳墓」とされています。
1935年の中山道拡幅および土地区画整理工事に伴い後藤守一氏により測量調査されており、『東京府史蹟名勝天然記念物調査報告書』第十三冊「東京府下の古墳」には次のように書かれています。
「俚称観音塚という。上に小豆沢神社祠をおいてあるが、今は墳丘の変形甚しく、僅かに南西隅にその処女状態を保っているに過ぎない。高さ四米あるが、恐らく原形においては五米近くあったでろう。径四十米近くあったろうか、本墳は今回の発掘調査関係以外のものである。」

昭和40年の社殿改築により墳丘は大きく削平されてしまったようですが、それ以前はもっと高い墳丘が残されていたそうです。境内の南西寄りには大きな窪みもあったそうですので、ひょっとしたら盗掘されたか、もしくは崩落した石室が残されていたのかもしれません。今後の調査次第で周溝や埋葬施設など古墳の痕跡が発見される可能性もあるかもしれませんし、本格的な調査を期待したいところです。

大きな窪みがあったとされる墳丘上の南西側のようすです。境内はかなり広く、多くの祠が祀られています。
この周辺はかつて「かに山」と呼ばれていたそうで、板橋区教育委員会から発行されている『いたばしの地名』には次のように書かれています。
かに山(四丁目)小豆沢小名…小豆沢四丁目の台地上地域を言います。ここから南にかけての地には古墳の塚が多く在ったといいます。これらのことから祭祀に必要な土器などに用いられる良質な赤土と共に、土器(埴師)が居住していた可能性があります。埴はハニワ(埴輪)のハニで粘土のことで、ハニがやがてカニに転化したと思われます。近くの赤羽も関東ローム層の赤土を赤埴と呼び赤羽に転じたといいます。または荒川が大きく弧を描いている台地上に位置していて、地形が蟹の姿ににていることからこの名が付いたともいわれています。(『いたばしの地名』101ページ)
この周辺には志村古墳群1号墳、2号墳、善右衛門の首塚、びく塚といった多くの塚があったとされています。かつてはかなり大きな古墳群が存在していたかもしれませんね。。。

画像は、西から見た小豆沢観音塚古墳です。
唯一、『板橋ものがたり ―史跡篇―』ではこの観音塚が前方後円型の古墳であるとされています。その根拠については何も書かれていないのですが、「Googleマップ 」でこの地点を上空から見ると、確かに周囲の道路が墳丘に沿うような形状になっていて、じっと眺めていると前方後円墳に見えてくるから不思議です。この古墳が前方後円墳であるなら、画像は前方部から後円部を見たところ、ということになるのですがいかがでしょうか。ちなみに、板橋区立郷土資料館で伺ったところでは、「小豆沢観音塚古墳」は古墳かどうかは微妙であるそうです。。。
<参考文献>
板橋区史編さん調査会『板橋区史 通史編 上巻』
板橋区史編さん調査会『板橋区史 資料編1 考古』
板橋区教育委員会『文化財シリーズ第81集 いたばしの地名』
板橋史談会『改訂版 いたばし郷土史辞典』
板橋史談会『板橋史談 第93号』
板橋ものがたり刊行会『板橋ものがたり ―史跡篇―』
- 2013/09/20(金) 02:18:47|
- 板橋区/志村古墳群
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紅一点さま。
いつもコメントありがとうございます。
志村古墳群、待っていたのですね。。。
墳丘が残されているのがこの「小豆沢観音塚古墳」しかなかったので、これで終わろうか迷っていたのですが、頑張ってみます!
- 2013/09/22(日) 03:06:47 |
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- ご〜ご〜ひでりん #hzwp2T5Q
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