
「総泉寺(そうせんじ)」は、板橋区小豆沢3丁目板にある曹洞宗の寺院で、妙亀山総泉寺と号します。本尊は釈迦如来座像です。このお寺は以前は台東区橋場にありましたが、関東大震災で被災し昭和3年にこの地にあった大善寺と合併して移転して来たそうです。画像は、その総泉寺を南東から見たところです。
『東京都遺跡地図』には、板橋区の遺跡番号161番の名称のない塚がこの総泉寺の敷地内に残存扱いで登録されておりますが、現地を訪れてみたところでは、残念ながら塚は残されていないようで。昭和29年に発行された『板橋区史』の古墳表にも総泉寺墓地に1基記されていますので、少なくとも昭和初期には古墳らしき高まりが残されていたのかもしれません。

画像は、総泉寺の東方100mほどの地点で見かけた祠です。オリエンタル酵母工業株式会社の敷地内にあり、祠の周囲が塚状に高くなっていたので、ひょっとしたらこれが161番の塚かもしれないと思い(161番の塚ではないと思いますが)、カメラに収めておいた一枚です。この祠について後日調べてみたところなかなか面白いお話が見つかったので、紹介してみたいと思います。
この工場に祀られている神社は、稲荷神社で、京都の伏見稲荷神社から分霊を勧誘、祭祀した社で、「穣福稲荷」と命名されている。勧誘したのは、昭和十三年四月で、当時、出征していた兵士の武運長久と工場の安全、工員の健康の祈願をする神社として、代表者が伏見稲荷の本社から神霊を受けてきた。ところが京都から帰る途中、不思議なことに奉持していた御神体が、あるときは重く、またあるときはとても軽く感じられたという。「不思議なことがあるものだ」と、当時の代表者たちは話し合ったという。
ところが、勧誘した翌十四年五月、板橋の工業史上、最も悲惨といわれる大日本セルロイドの大災害が発生、六二棟を全焼、三四人の死者が出た。
その日、つまり昭和十四年五月九日は晴天であったが西風が吹いていた。ところが、わずかな煙草の火の粉が、セルロイドのくず袋に引火、その火が西風にあおられ、隣のマグネシウム工場に燃え移り、さらに隣の日本火工でほしていた火薬に引火、大爆発をおこした。そして日本火工の屋根で、マグネシウム工場の火事を見ていた三四人を吹きとばし、大日本セルロイドでも、倉庫や事務所を全焼、一三人のけが人を出した。まことに悲惨な爆発事故であった。
当時、オリエンタル酵母工業の隣は、トーハツ株式会社であったが、この社も類焼、煙は遠く都心の方からも、ながめられたという。
ところが、この大惨事にもかかわらず、オリエンタル酵母工業株式会社は類焼をまぬがれ、軽微な被害ですんだ。
そこで、これはまことに天の助けであり、当社で祀っている祭神の稲荷大明神「穣福稲荷」のおめぐみに違いないと語り合い、ますます信仰を深めたという。なお、昭和十九年・二十年の米軍の飛行機による爆撃の時にも、少しの被害も受けなかったが、これまた、稲荷様の霊験によるものと深い信仰を捧げている。(『板橋区史 資料編5 民俗』749〜750ページ)
<参考文献>
板橋区史編さん調査会『板橋区史 資料編5 民俗』
板橋区教育委員会『まち博ガイドブック(志村坂上・中台・蓮根・舟渡・前野)』
- 2013/10/10(木) 05:00:58|
- 板橋区/志村古墳群
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