
今回は、日光市手岡に所在する「五輪塚」を取り上げようと思います。
この塚は、旧今市市内となる、県道149号線(小来川文挟石那田線)の道沿いの手岡公民館北東に所在します。
方形を呈する大きな塚で、頂部には大きな五輪塔が安置されています。
『今市市史』によると、旧今市市内には古墳は存在しないということになっていますので、この塚も古墳ではないのかな?とは感じますが、塚にまつわる多くの伝承が残されており、また周辺にも複数の塚が存在するという状況はなかなか興味深いです。

天正年間に壬生義雄に攻められて猪倉城は落城しました。
城主である鹿沼右衛門は、多気山城の芳賀氏を頼り落ちる途中で、手岡付近で板橋将監により捕らえられ、討死したといわれています。
戦いが終わって、村人たちが戦死者を哀れんで遺骸を葬った塚があちこちに残されており、その中の1基であるこの「五輪塚」が鹿沼右衛門の墓であり、その供養のために建立されたのが五輪塔であると伝えられています。

西から見たところ。
道路側は多少削られているのかな?という印象です。
画像ではわかりにくいかもしれませんが、方形を呈する形状がおわかりでしょうか。。。

塚上には覆屋が建てられており、五輪塔やその他の石造物が置かれています。

五輪塔はとても大きくて立派なものです。
背後に回り込んで撮影しましたが、五輪塔は覆屋の奥にあってなぜか雨ざらしという、、、笑。

五輪塚の道路を挟んだ南方にもう1基、塚が所在します。
『今市史談 第3号』の4ページにある「手岡の文化財」の「伝・鹿沼右衛門の墓」に書かれている「村人たちが戦死者を哀れんで遺骸を葬った塚が今もそちこちにあり、、、」という内の1基がこの塚であると考えられます。

実はこの五輪塚の見学は、前回取り上げた正体不明塚の土地の所有者の奥様にお聞きした情報がきっかけになりました。
奥様は生まれがこの手岡で、若い頃に人に案内されて古墳だという塚を見たことがあるそうなのです。
この古墳を案内してくれたという人は『今市の歴史』の著者である佐藤治由氏で、さらには同書に古墳に関する記述があったはず、ともお聞きしました。
手岡にはかつて「長者が池」という地元ではかなり知られた池があり、そのすぐ近くに古墳らしき塚があり、佐藤治由氏の案内の下で見学したということなのですが、調べてみると長者が池は現在はゴルフ場の敷地となってしまっています。
したがって、古墳もゴルフ場に取り込まれてしまった可能性が高く、またそもそも正確な位置もわからないので、現在どうなっているのかは確かめようもありません。
その後、色々調べてから、あらためて後日に出直して手岡周辺を散策したところ、この五輪塚と向かいの塚を見つけた、ということになります。
ひょっとしたら奥様からお聞きした古墳というのはこの五輪塚なのかもしれませんし、はたまたまったく別の塚なのかもしれませんし、真相はわかりません。
『今市の歴史』も図書館で探して読んでみたのですが、古墳に関するという記述も見当たリませんでした。
この地域に存在する塚ということになるとやはり古墳ではなく、合戦の戦死者を埋葬した塚なのではないか?とも妄想してしまいます。
塚の頂部には、バラバラになった五輪塔の残骸が転がっていました。
<参考文献>
今市史談会『今市史談 復刊第3号』
渡辺武雄『故里百話 今市の懐旧』
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- 2023/06/01(木) 01:57:44|
- 日光市の塚
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