
今回は、茨城県大子町に所在する「上岡古墳群」の探訪の記録です。
この古墳群は「弥平土地(やへいどぢ)」と呼ばれる台地の突端に位置しており、南には押川が東流しています。
2基の円墳で構成される古墳群で、昭和52年6月19日に大子町の史跡に指定されています。
古墳の南には県道大子黒羽線が東西に走っており、当日は「このあたりかな?」と思うあたりで車を停めて徒歩にて坂道を上ってみましたが、ちょうどそこが古墳の所在地で、土地の所有者であるN野氏に声をかけて見学させていただきました。
写真は、右奥が1号墳、左手前が2号墳という状況です。

1号墳を南東から見たところです。
上岡古墳群は「うわおか」と呼ぶそうで、これは大字名からくるものです。
この地域は天保13年(1842)に当時の上沢村と高岡村が合併して、両村の一字をとり上岡村となったそうですが、ちなみに古墳群は当時の高岡村に属していたそうです。
墳丘の南西側には「上岡古墳群」の看板と説明板が設置されており、説明板には次のように書かれていました。
大子町指定 史 跡
上岡古墳群 二 基
昭和五十二年六月十九日指定
管 理 者 仲 野 六 蔵
上岡古墳群は、押川の北約二〇〇メートルに位置する
台地の突端部に築造された二基の円墳からなる。
周囲な畑地で、古墳二基はそれぞれ独立した原野とな
っている。
一号墳は基底長約八.〇メートル、高さ一.四メートルの
不整合な円墳で、横穴式石室の奥壁及び東壁の一部が露
呈している。
二号墳は一号墳の北側約一〇メートルに位置し、基底
長径七.八メートル、高さ一.六メートルのやはり不整合な
円墳である。
一号墳については、明治から大正時代にかけて地元の
人により一部発掘され、人骨や副葬品ガ若干出土したと
されるか、その記録はなく、出土品も不明である。
二号墳については、未調査である。
上岡古墳群は詳細な調査がなされていないため、その
成立時期は明らかではない。
しかし、周囲の畑地には古墳時代を代表する土師式土
器を包蔵する遺跡が多く、この古墳の被葬者をこうした
集落の中に求めることもできよう。
平成八年三月
大子町教育委員会

この1号墳は、明治から大正にかけて地元の青年会員が発掘を試みており、人骨や副葬品が出ているようですが、発病するなどの「祟り」があり、出土品は寺や墓地に収めたといわれています。
私個人的には、祟りの伝承はあくまで伝承であり、祟りは存在しないよ、と思うこともあるのですが、それにしては古墳にまつわる祟りの伝承は非常に多く、やっぱり目に見えない不思議な出来事もあるのかな?とも感じます。

1号墳は、説明板にも書かれているように盗掘を受けており、墳丘はかなり改変されています。
横穴式石室が南に向いて開口しますが、その形状に墳丘はべっこりと窪みになっています。

一枚岩の奥壁は砂岩自然石で、幅1.2m、厚さ約15cmあります。
奥壁のすぐ横に「ツルマサキ」の木が生い茂っていて、奥壁にペローンともたれかかっているのが面白いし、なんだかちょっと絵になる光景です。笑。

墳丘上の様子。
おそらくは、真冬に訪れれば残存するという東側の側壁が見られるのではないかと思われますが、この日はまだ下草が多く、写真に収めることはできませんでした。。。

1号墳の南側はすぐに急崖になっていますが、土地の所有者のN村氏によると崖の途中に1号墳の石材が転がり落ちているということで、2人で崖を降りかけました。
下草が多く視界が良くないうえに、ちょっと危険を感じたのですぐにやめましたが、盗掘の際に放り投げたのでしょうか?
一説によると、失われた天井石は某所で墓石になっているそうです。

2号墳を南西から見たところです。
1号墳の祟りの伝承に悩まされて、未発掘であるといわれる古墳です。

2号墳の墳丘表面には、葺石なのか石室の石材なのか、河原石が見られます。
ちなみにこの古墳群の南側の小字名は「入定塚」です。
残存する2基は間違いなく古墳であると思われますので、入定塚は後世につけられた地名であると考えられますが、こちらもいったいどんな謂れがあるのか、とても興味深いです。。。
土地の所有者であるN村さんには色々と解説いただき、紙の資料までいただきました。
とても良くしていただき感謝しております。
ありがとうございました。。。(•ᵕᴗᵕ•)⁾⁾ぺこり
<参考文献>
大子町史編さん委員会『大子町史研究 第6号』
現地説明板
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- 2023/11/15(水) 23:46:10|
- 茨城県の古墳・塚
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