
画像は、豊島区高松2丁目にある「豊島長崎の富士塚」を南から見たところです。
この豊島長崎の富士塚は、周辺にある江古田富士塚(練馬区小竹町)、落合の富士塚(新宿区上落合、現存せず)とともに、元々は古墳であるといわれています。豊島区立郷土資料館が発行した『鬼生活と文化 研究紀要 第1号』では、古墳の言い伝えについて次のように紹介しています。
この富士塚は現存する七つの江戸期築造の塚の中で旧態の良く保たれているものである。創建は文久二(1862)年四月。伝承によると本橋源蔵先達の父万五郎が、古塚のある地域を開墾しようと掘りはじめると、鍬先に銅鏡がひっかかって出てきた。円鏡の直径十五センチ、柄の長さ九センチ、裏に南天の模様が鋳てある。南天は難転に通ずるので鏡にはよく描かれたという。作者銘として「天下一藤原作」と鋳込んである。藤原は個人の名前ではない。金工、大工棟梁などの技術者はみな藤原姓を許し名として名乗っていた。天下一は和鏡作者のほとんどがそう自負して用いているものである。
要するに逸品というほどの代物ではなかったが、出た場所を考えると万五郎は何か新甥的なものを感じ、この古墳を富士塚に改装することを講と相談したのだと伝える。(『生活と文化 研究紀要 第1号』31ページ)
この伝承からすると、元々存在した塚に盛土をして富士塚を築造したことは間違いないようですが、塚は古墳というよりはもっと後世の塚である可能性もあるかもしれません。
富士塚は、開発の進んだ住宅街にあって良好な状態で保存されています。塚は柵で囲われていて立ち入ることは出来ませんが、隣接する児童遊園から見学することが出来ます。豊島区教育委員会による説明板には、次のように書かれていました。
国指定重要有形民俗文化財
豊島長崎の富士塚
所在地 豊島区高松二―九―三
富士塚は、富士山を神の宿る地として信仰する人々の集まりである富士講
によって、江戸時代後期以降、主として富士登山が困難な人々のために、江
戸とその周辺地域に築かれたものです。
この富士講は、角行を開祖とし、江戸時代中期には身禄によって広められ、
最盛期には、八百八講と称されるほどの講が結成されて代表的な庶民信仰の
一つとなりました。
豊島長崎の富士塚は、文久二年(一八六二)に富士講の一つである豊島郡
長崎村の月三講(講祖は三平忠兵衛)の椎名町元講の人々によって築造され
ました。高さ約八メートル、直径二十一メートルで、表面は富士山の黒ボク
石(溶岩)でおおわれています。
塚内には、頂上に大日如来坐像、小御岳石尊大権現碑、烏帽子岩奉献碑が
あるほか、合目石、講碑、石仏、天狗像、御胎内などが配置され、約五十基
の充実した石造物群で構成されています。浅間神社では、かつてお焚き上げ
が行われており、奉献された数多くの講碑からは長崎村の人々の富士信仰の
強さと、近隣地域の人々との交流をうかがい知ることができます。
この富士塚は、東京都内にある江戸時代に築造された富士塚の中でもよく
原型をとどめていることから、昭和五十四年五月二十一日に国の重要有形民
俗文化財に指定されました。その美観と偉容を永く後世に伝えるため、昭和
六十二年には昭和大修復が行われ、以後浅間神社豊島長崎富士塚保存会によ
って山掃除や保存修復事業が定期的に実施されています。
昭和五十五年三月
豊島区教育委員会<参考文献>
豊島区立郷土資料館『生活と文化 研究紀要 第1号』
現地説明版
- 2014/01/15(水) 03:39:07|
- 豊島区の古墳・塚
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