
画像は、台東区鳥越2丁目にある「鳥越神社」を南から見たところです。
この鳥越神社には蕨手刀、高杯、勾玉、管玉、銀環が所蔵されており、特に蕨手刀と高杯はこの周辺で発掘されたものであることから、付近に古墳が存在したことを示すものとして昭和5年(1930)に鳥居龍蔵氏により紹介されています。
高杯は昭和24年7月に、蕨手刀は8月に鳥越神社に献納されており、蕨手刀が収められていた木箱には「天保七年丙申八月従土中掘出之 源通文蔵」墨書されているそうです。また、勾玉、管玉、銀環はこの神社に伝えられているものであると云われています。木箱に書かれている源通文という人物はこの鳥越神社の付近に居住していた人であるそうなので、蕨手刀がこの周辺から発掘された可能性は高いのではないかとも思われますが、確実に付近に古墳が存在していて、そこから出土した遺物であるという客観性にも欠けるというのが現状の考え方のようです。
葛飾区立石には、大正12年以来の鳥居龍蔵氏の調査により古墳であると主張されていたもののその後の開発により古墳の正確な位置や規模がわからなくなり、近年の発掘調査により散布する埴輪片が発見されて推定地が確認された「南蔵院裏古墳」があります。その後、同じ立石8丁目に「熊野神社古墳」の周溝が検出され、鳥居龍蔵氏の主張通り古墳群が形成されていたことがわかっているケースもあります。この「鳥越古墳」も、今後の学術的な調査がされる日を楽しみに待ちたいところです。

この周辺は江戸時代以前は丘陵であったそうで、徳川家康の入国以降の何度かの埋立てにより崩されてしまったそうです。埋立ては天正十八年(1590)以降、元和六年(1620)、正保二年(1645)の3度行われていて、正保2年の埋立てにより現在のように平坦な地となってしまったそうですので、もし仮に鳥越古墳が丘陵上に存在しており、古墳が崩されて蕨手刀が発掘されたのが木箱に書かれている天保7年であるならば、天保7年は西暦1836年ですからちょっと矛盾するとは思います。もちろん古墳が低地に存在した可能性もあるかもしれませんが、このあたりは良くわかりません。
画像は、同じ台東区鳥越2丁目にある「鳥越古墳」の推定地を南から見たところです。『東京都遺跡地図』には、台東区の遺跡番号9番の古墳としてこの地点に登録されています。。。
東京都台東区役所『台東区史 上』
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
東京都台東区『台東区史 通史編Ⅰ』
- 2014/02/06(木) 01:09:07|
- 台東区/その他の古墳・塚
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