
画像は、北区赤羽西1丁目にある「静勝寺」を南西から見たところです。この静勝寺から南へかけての丘陵一帯が、室町時代の武将、太田道灌が築造したといわれている「稲付(いねつけ)城」の跡地で、後年、道灌の子孫である資宗が城址を含めた地を同寺に寄進して、道灌とその父道真の法号により自得山静勝寺と改めました。稲付城跡は北区の遺跡番号15番の遺跡として登録されており、昭和36年1月31日に東京都の旧跡に指定されています。

この「静勝寺」の付近にも古墳らしき塚があったと云われています。『岩淵町郷土誌』にはこの塚について「同字番場543、瀞勝寺前にも面積七歩の塚があった、これも跡も判らない。」との記述が見られます。また『新修 北区史』には『新編武蔵風土記稿』に掲載されている塚として「稲付瀞勝寺前古墳」の名称で「面積七歩といわれる古墳があった。」と紹介しています。この「稲付瀞勝寺前古墳」の跡地である番場543番地とは「静勝寺」のすぐ門前の画像の周辺であると思われますが、残念ながら何の痕跡も残されていないようです。

静勝寺の敷地内には東京都教育委員会による2種類の説明板が建てられていますが、どちらも「稲付城跡」についての記述が中心で、古墳についてはふれられていないようです。説明板には次のように書かれていました。
東京都指定旧跡
稲付城跡
所在地 北区赤羽西1–21–17
静勝寺
指 定 昭和36年1月31日
稲付城跡は、武蔵野台地北東端部の標高21m程度の舌状台地先端上に立地する自然地形を利用した中世の城館跡です。文化・文政期の地誌「新編武蔵風土記稿」にも「堀蹟」として登場します。
現在静勝寺が所在する平坦面に主郭があったと考えられています。北面と東西面は崖面で、南側は台地が続き平坦な地形になっています。周辺からは、発掘調査によって幅約12m、深さ約6mの空堀の跡等が検出され、その際に16世紀前半頃の遺物が出土しました。
静勝寺には室町時代の武将、太田道灌の木造座像が所蔵されています。寺伝によれば、城はこの道灌による築造とされています。今のところ築造した人物を特定する明確な根拠はありませんが、荒川を全面にひかえ北方の防御を重視した城の構造と、発掘調査の成果などから、南側に勢力をもった扇谷上杉氏にかかわりのある城館であったと推測されます。道灌が扇谷上杉氏の家宰であったことから、道灌築城の可能性も考えられます。
平成25年3月 建設
東京都教育委員会

東京都指定文化財(旧跡)
稲付城跡
北区赤羽西1-21-17
稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
昭和62年(1987)、静勝寺南方面で行われた発掘調査によって、永禄年間(1558–1569)末頃から天正10年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。
また、静勝寺に伝存する貞享4年(1687)の「静勝寺除地検地地図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。
この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
道灌の死後、この城は孫の資高が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。
明暦元年(1655)に道灌の子孫資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木造を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。
平成13年3月
東京都北区教育委員会

静勝寺の敷地内、石段を登った右側には、昭和62年(1987)に行われた発掘調査によって出土した遺跡が保存されています。
<参考文献>
東京都北区役所『新修 北区史』
歴史図書社『岩淵町郷土誌』
名著出版『北区の歴史』
現地説明版
- 2014/04/28(月) 02:05:57|
- 北区/その他の古墳・塚
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