
画像は、北区赤羽西5丁目にある「赤羽スポーツの森公園」を西から見たところです。この周辺に所在したとされているのが「庚塚」です。
昭和5年(1930)に発行された『岩淵町郷土誌』にはこの「庚塚」について次のように書かれています。
庚 塚 同字庚塚1435にあったものは、同書に「一畝六歩、官有地」と見えているが、今はその形跡も残っていない。(『岩淵町郷土誌』361ページ)
また、同じ『岩淵町郷土誌』の「大塚古墳」の項にもこの「庚塚」についての記述が見られます。
[大塚古墳]
赤羽の臺地陸軍用地となってゐる原の中に一つの古墳がある。形式は所謂圓形墳に属するもので、周圍約百七十尺、高さ約十五尺程あり、この近郊では大きな部に入る方である。(明治初年の測圖によると百坪餘あった)元はこれを中心として十三の古墳が點在してゐて十三坊塚と呼んだものだと云ふ。想像すれば之はこの地方の豪族の葬られた所で、小墳は陪塚ではなかつたかと考へられる。
附近の地は大塚と云ふが、勿論この古墳から起つたものであらう。小石川の大塚・王子町上十條の大塚等も古墳から来た地名である。尚此處から南方七町程、今火工廠稲付射場の裏手の柵の際にも稍小さい圓形墳が辛じて残つてゐる。又被服廠の構内となつた所にも以前は餘程古墳があつたし、附近には庚塚と云ふ小字名もあるので、この一帯に古墳群の在つたことが考へられる。昔の人はこの多い古墳を見て、此處に何時か大戦争があつて、その戦死者を埋めたのだと云ふ戦争傅説を生み出したが、元より古墳は其のやうなものではない。第三章に記したやうに上代文化所産の貴重な遺跡であつて、その中に包藏されてゐる種々の副葬品によつて、記録以外の史實を探究することが出来るのである。(『岩淵町郷土誌』359〜360ページ)

「大塚古墳」のすぐ南側に所在したこの「庚塚」は、「十三坊塚」と呼ばれた古墳群のうちの1基ではないかと考えられます。塚は残念ながら消滅しており、痕跡は見当たりませんでした。
稲付字庚塚1435という番地は現在の「赤羽スポーツの森公園」の周辺にあたりますが、正確な所在地はわからず、また「庚塚」という小字名も町名の改称により消滅しています。。。
<参考文献>
東京都北区役所『新修 北区史』
歴史図書社『岩淵町郷土誌』
- 2014/05/01(木) 22:18:53|
- 北区/その他の古墳・塚
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