
画像は、赤羽西5丁目の「大塚古墳」が所在したとされる推定地を西から見たところです。北区の遺跡番号14番の古墳として登録されており、円墳であったとされています。
この周辺には十三坊塚と呼ばれるほど、多くの古墳が存在したといわれています。中でも「大塚古墳」はこの古墳群の盟主墳ともいえるかなり大きな古墳で、終戦後までは残されていたようです。「東京都遺跡地図」のインターネット公開版では現存マークが付けられていますが、発掘調査等は行われず、現在は破壊されて消滅しています。
この「大塚古墳」について、『岩淵町郷土誌』には次のように書かれています。
[大塚古墳]
赤羽の臺地陸軍用地となってゐる原の中に一つの古墳がある。形式は所謂圓形墳に属するもので、周圍約百七十尺、高さ約十五尺程あり、この近郊では大きな部に入る方である。(明治初年の測圖によると百坪餘あった)元はこれを中心として十三の古墳が點在してゐて十三坊塚と呼んだものだと云ふ。想像すれば之はこの地方の豪族の葬られた所で、小墳は陪塚ではなかつたかと考へられる。
附近の地は大塚と云ふが、勿論この古墳から起つたものであらう。小石川の大塚・王子町上十條の大塚等も古墳から来た地名である。尚此處から南方七町程、今火工廠稲付射場の裏手の柵の際にも稍小さい圓形墳が辛じて残つてゐる。又被服廠の構内となつた所にも以前は餘程古墳があつたし、附近には庚塚と云ふ小字名もあるので、この一帯に古墳群の在つたことが考へられる。昔の人はこの多い古墳を見て、此處に何時か大戦争があつて、その戦死者を埋めたのだと云ふ戦争傅説を生み出したが、元より古墳は其のやうなものではない。第三章に記したやうに上代文化所産の貴重な遺跡であつて、その中に包藏されてゐる種々の副葬品によつて、記録以外の史實を探究することが出来るのである。(『岩淵町郷土誌』359~360ページ)
また、『北区史 通史編 原始古代』には次のように書かれています。
赤羽地区には、赤羽台古墳群の他にかつて古墳があったことが伝えられている。昭和5年(1930)に刊行された『岩淵町郷土誌』には赤羽台の当時の陸軍用地内に大きな塚があったことを記している。古墳のあった場所は、現在の赤羽5丁目のあたりである。編者の平野実・桜井泰仁はこれを古墳であるとし、「大塚古墳」の名で紹介している。『岩淵町郷土誌』によればこの「大塚古墳」は、「周囲約百七十尺、高さ十五尺程」であったようである。つまり、高さ4.5メートル、直径約20メートルにもなり、高さに比べて径が小さいがかなり大きなものであったことがわかる。墳頂部には「明治天皇駐蹕之跡」の碑が建っている。先の平野・桜井はこの碑が建立されたおかげでこの「大塚古墳」が保存されることになったことを記しているが、残念ながらその後に壊されてしまい、現在ではまったくその面影もない。果たしてこの「大塚古墳」がいつごろのものなのかは不明であるが、その規模からして単なる塚でないことは明白であろう。(『北区史 通史編 原始古代』201ページ)

画像は、『岩淵町郷土誌(364ページ)』に掲載されている大塚古墳です。かなり大きな墳丘を見ることができ、墳頂部には立派な記念碑が建てられています。この「明治天皇駐蹕之跡」の碑について『岩淵町郷土誌』によると、明治7年9月および12月の2回にわたって行われた陸軍創始以来最初の機動演習が岩淵町を中心に行われ、このようすを明治天皇が「大塚古墳」の墳丘上に立たれて御覽遊されたそうで、これを記念して建てられたのがこの「明治天皇駐蹕之跡の碑」であるそうです。四国特産の御影石造りの礎石の台上に青銅製の砲身を4個の砲弾で囲む、かなり立派な記念碑であったようです。
さて、明治天皇の記念碑まで建てられていたこの地域の盟主墳ともいえる大塚古墳がなぜ忽然と消滅してしまったのか、あまりにも情報が少ないことを不思議に思ったので調べてみたところ、少しだけわかってきました。
昭和20年の終戦までは古墳は残されていたようで、米軍が撮影した昭和22年(1947)の航空写真にはこの「大塚古墳」ははっきりと写っています。しかし、戦後すぐに米進駐軍により記念碑の砲身が切り落とされ、墳頂部には御影石の礎石だけが残されていたそうです。その後、大蔵省印刷局赤羽宿舎(戦災者や海外引き揚げ者の簡易住宅という説もある)建設のため、周囲に高い塀を張り巡らしての工事が始まり、完成した時には塚は跡形もなく消滅して記念碑もなくなっていたそうです。更にはその工事の際、記念碑の土台となっていた御影石を密かに搬出して庭石にしていたという町の住人がおり、この行為を許せない人により訴訟にまで発展したそうですが、「払い下げ」という判決で終わっているそうです。このあたりの経緯が「大塚古墳」についての情報の少なさに繋がっているのかもしれません。。。
残念なのは、埋葬施設や周溝の有無、出土遺物等についての記録はまったく見つからず、この塚が果たして本当に古墳であったかどうかはまったくわかりませんでした。

近くの歩道橋の上から敷地内を見ることが出来ましたが、現在は更地となっており、古墳の痕跡は残されていないようです。画像の右下辺りに古墳が存在していたと思われます。

大塚古墳の跡地の向かいに所在する「善徳寺」の門前には「富士見坂」についての案内碑が立てられており、大塚古墳についての記述が見られます。案内碑には次のように書かれています。
富 士 見 坂
この坂を富士見坂という。このあたり、昔は人家のない台地で、富士山の眺望がよかったところからこの名がついた。江戸時代の「遊暦雑記」には、「左右只渺茫たる高みの耕地にして折しも夕陽西にかたぶきぬれば全景の芙嶽を程近く見る、此景望又いうべき様なし」と記されている。
かつてこの近くに周囲五〇〇余メートルといわれる大塚古墳(円墳)があったが、いまはみられない。
昭和五十九年三月
東京都

案内碑では、大塚古墳の在りし日のスケッチを見ることが出来ます。
<参考文献>
歴史図書社『岩淵町郷土誌』
東京都北区『北区史 通史編 原始古代』
北区史を考える会『会報 第8号』
北区史を考える会『会報 第24号』
現地説明版
- 2014/05/10(土) 23:52:09|
- 北区/その他の古墳・塚
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こんばんは。
昔の写真だと、何だか立派な船みたいに見えますね…。
古墳もいっぱい消滅してしまっていて、調べなければ知らないものがまだあるんだなぁと改めて勉強になりました◎
- 2014/05/11(日) 00:41:25 |
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- 紅一点 #-
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東京にも他県と同様に多くの古墳があったのだと思いますが、開発により消滅してしまったものは仕方がないですね。
昭和22年の航空写真で比べると、大塚古墳は世田谷の野毛大塚古墳の後円部より一回り小さい感じです。
- 2014/05/13(火) 00:56:20 |
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- ご〜ご〜ひでりん #hzwp2T5Q
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善徳寺の上の辺りを、Google地図で見ると、裏手に円弧上の坂道があり、案内碑の鉄柵の一部と思われるものが、まだ残っていますよ。たぶん古墳の周囲を囲っていた鉄柵を流用したんだと思います。地形から見ると崩したのではなく、東側の勾配を余所から土を持ってきて、なだらかにしたんだと思います。
- 2016/04/05(火) 22:47:11 |
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- この辺の徘徊人 #4RtvEo.U
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この辺の徘徊人さま、はじめまして。
本当ですか?善徳寺は大塚古墳の跡地を訪れた際に見学しましたが、まさか鉄柵はノーマークでした。周辺のお寺や神社を探すと、まだ大塚の痕跡が残されているのでしょうか?
- 2016/04/06(水) 23:54:07 |
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- ご〜ご〜ひでりん #OsZoF7Es
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善徳寺が鉄柵を流用したということは、善徳寺のどこかが古墳の中心に当たるんだと思います。
- 2016/05/08(日) 20:40:11 |
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- この辺の徘徊人 #-
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善徳寺周辺の旧地名は「島下」って言います「島」というのはたぶん遠くから見て、古墳が島のように見えたからなんじゃないかって思ってます。
- 2016/05/08(日) 20:47:21 |
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- この辺の徘徊人 #-
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この辺の徘徊人さま、こんばんは。
残念ながらまだ善徳寺を訪れることはできていないのですが、確かに、残されている写真とグーグルマップで見ることのできる鉄柵はかなり似ているように思います。
本文にも書きましたが、御影石を庭石に流用したお家もあるようですし、まだほかにも痕跡は残されているのではないかと思うので、調べてみようと思っています。
- 2016/05/10(火) 00:52:40 |
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- ご〜ご〜ひでりん #OsZoF7Es
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http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=745893&isDetail=true
陸軍撮影の1944年の写真です。善徳寺の南側の角に丸いシルエットが薄ら見え、中心を少しずらした盛り上がりがあるように見えます。たぶんこれが古墳だったんだと思います。その中心から棒状に影が出てます。これが砲身の影かと。
- 2016/05/11(水) 22:15:46 |
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- この辺の徘徊人 #-
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さっきのは間違えでした!笑々。
米軍撮影の"USA-M860-215" で引き込み線の終点あたりに丸いシルエットと砲身らしい点がありますね。
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=36782&isDetail=true
- 2016/05/11(水) 22:33:24 |
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- この辺の徘徊人 #-
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やっと納得いきました。今の特老介護施設のレストヴィラ赤羽の道を挟んだ真向いだったんですね! 前に書いた島下公園が沼だったようなので、ここを埋めるのに土を使ったのかもしれませんね。今ここが包蔵地の指定なのもそのためでしょうか? お騒がせしました。笑。
- 2016/05/11(水) 22:43:57 |
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- この辺の徘徊人 #-
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この辺の徘徊人さま
航空写真を見ると、昭和22年頃までは大塚は存在するようですが、昭和30年代になると消滅してしまっているようですので、やはり大蔵省の宿舎の建設の際に削平されてしまったのだと思います。
この大塚は古墳ではなかったという話を聞きましたので、ひょっとしたら発掘調査が行われたのかもしれません。。。
- 2016/05/15(日) 01:57:24 |
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- ご〜ご〜ひでりん #OsZoF7Es
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あきる野市の大塚古墳や青梅市の富士塚のように、古墳ではないかと考えられながらも周溝などが見つからなかった塚もありますし、何か宗教目的の塚だったのかもしれませんね。
- 2016/05/17(火) 09:04:29 |
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- ご〜ご〜ひでりん #OsZoF7Es
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