
荒川区の古墳については昭和60年(1985)に刊行された『都心部の遺跡』に記載がなく、また平成22年(2010)年に刊行された「東京都遺跡地図」のインターネット公開版にも古墳の記載がないという状況です。しかし、荒川区内には古墳時代の集落の存在が想定されており、また多くが開発のため消滅してしまったものの多くの塚の言い伝えが残されており、古墳の可能性が考えられるものも少なくないようです。
「妻夫塚」は、現「東京都下水道局三河島水再生センター」の敷地内に所在したとされる2基の塚の総称で、画像はその三河島水再生センターを南から見たところです。
この「妻夫塚」と呼ばれる2基の塚は、1基は字八千代田1288番地乙号に所在したとされる6坪程の円形の塚、もう1基は次郎田前1522番地に所在した18坪程の円形の塚であるといわれています。文政7年の名主書上に『塚五ヶ所あり一つは妻夫塚と呼び二ヶ所』とあり、『新編武蔵風土記稿』などにも記述が見られることから、少なくとも江戸時代にはこの「妻夫塚」は存在していたようです。
明治初年に塚が崩された際には延文、貞治から天文に至る数多くの板碑が発掘されているそうで、このことから塚は500年程前には存在していたと考えられています。一説には、正平7年の武蔵野合戦の戦死者を埋葬した塚であるという言い伝えも残されているようですので、この伝説通り戦国時代の戦死者を葬った塚であるかもしれませんし、あるいは古墳であった可能性もあるかもしれません。その後、明治43年に「東京市汚水処分所」の創立により塚の所在地はわからなくなっています。

画像は、都電荒川線の荒川2丁目駅から見た東京都下水道局三河島水再生センターです。ここに荒川区教育委員会による「下水処理発祥の地」の説明板が設置されており、「妻夫塚」についても記述が見られます。
下水処理発祥の地 (妻夫塚)
三河島字八千代田、字次郎田前と呼ばれていたこの地に二
つの塚があった。妻夫塚と呼ばれるもので、正平七年(一三
五二)武蔵野合戦における戦死者を葬った所と伝わるが、詳
細は不明である。明治四十三年に三河島処理場の敷地に編入
され、現在では正確な塚の位置を確認することができない。
日本で最初の本格的な下水処理施設である「三河島処理
場」は大正三年、建設に着手した。同年から始まった第一次
世界大戦の影響による財政面の制約などの理由から、工事の
進行に打撃を受けたが、大正十一年(一九二二)完成した。
荒川区のみならず、台東区の全部、文京・豊島区の大部分と
千代田・新宿・北区の一部の下水処理を行う。赤煉瓦の処理
場施設は建設当時からのもの。 千住製絨所(日本羊毛工業)
などとともに荒川区の近代化の担い手であった。
荒川区教育委員会
<参考文献>
荒川区立荒川ふるさと文化館『三河島町郷土史』
東京都荒川区教育委員会『荒川(旧三河島)の民俗』
現地説明版
- 2014/05/17(土) 23:25:18|
- 荒川区/町屋-三河島 微高地
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