
「三つ塚」は、現在の町屋斎場の周辺に所在したとされる3基の塚の総称で、画像はその「三つ塚」が所在したと推定される周辺を南から見たところです。
昭和7年 (1932)に発行された『三河島町郷土史』によると、「三つ塚」は明治9年(1876)に行われた地租改革により町屋村に編入された1ヶ所が当時の町屋842番地に所在した12坪程の円墳状の塚であり、残る2ヶ所はこの東隣、三河島1781番地と同1783番地に所在した同じく円墳状の4坪程の塚であるとしています。『東京府下三河島町日暮里町全図』という大正14年の地図で確認すると、この3つの塚はかなり狭い範囲に接近して存在していたことがわかります。『三河島町郷土史』にはさらに「明治の初年頃までは此の附近より今の火葬場裏の邊へかけて大きな塚が群をなしてゐたと云ふ」としていますので、周辺にはかなり多くの塚が残されていたようです。かつては古墳群が存在していた可能性もあるのかもしれませんね。
文政7年(1824)にこの周辺を散策した松平定常により書かれた『三食一覧』という紀行文には「小塚原村のとなり行間、田畝のうちに三つ塚と稱せる有り、昔の一里塚にてはあらんか、古墓にてはなしや。ゆへある塚としつて土人これを犂く事なしとなり」と、この塚を一里塚の跡なのではないかと考えたようですが、正徳5年(1715)の名主調書には「三つ塚」が記されており、また江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』にも「三つ塚」が記されているほか、後にこの塚から南北朝頃の板碑が多く発掘されていることから、『三河島町郷土史』では妻夫塚と同じく500〜600年以前よりあった、同一種類の塚ではないかとしています。
その後「三つ塚」は京成電鉄の軌道区域内に編入されて消滅しています。画像の左側に12坪程の円墳状の塚が、また右側に円墳状の4坪程の2基の塚が並んでいたと推定されますが、残念ながら痕跡は残されていないようです。。。
<参考文献>
荒川区立荒川ふるさと文化館『三河島町郷土史』
東京都荒川区『荒川区史 上巻』
東京都荒川区教育委員会『荒川(旧三河島)の民俗』
- 2014/05/20(火) 00:19:15|
- 荒川区/町屋-三河島 微高地
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- 2014/05/20(火) 08:58:12 |
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