
正保2年(1645)3月、村内の百姓である与次右衛門が一夜の霊夢により観音の像を鋳造して、「水塚」と称して小堂に安置したのが「清水観音堂」です。かつては江戸三十三観音の第三札所となり三河島の名所として知られていたそうで、多くの参拝人で賑わったといわれています(清水観音堂とは開創の清水の姓をとったからで、「きよみず」ではなく「しみず」と呼ぶのだそうです)。その後、この清水観音堂は次第に荒廃して、昭和60年頃に境内が整理されたことによりお堂もなくなり、現在は残された敷地の一部に清水家の墓塔と庚申塔が建立されているそうです。
画像が、その水塚が所在したとされる、荒川区荒川2丁目にある清水観音堂の跡地を東から見たところです。昭和7年 (1932)に発行された『三河島町郷土史』によると、当時所在が判明する19ヶ所の塚のうちの1基として「水塚」を記載しており、「水塚は今の役場北隣、観音堂の地がそれである。」と紹介しています。すでに周囲は開発により宅地化され、残念ながら塚も削平されているようです。。。
<参考文献>
荒川区立荒川ふるさと文化館『三河島町郷土史』
芳洲書院『隅田川とその両岸 補遺(中巻)』
東京都荒川区教育委員会『荒川(旧三河島)の民俗』
- 2014/06/18(水) 01:59:09|
- 荒川区/町屋-三河島 微高地
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