
画像は、荒川区東尾久6丁目にある「下尾久石尊」を南東から見たところです。
この石尊は、暦応年間(1337〜1342)の頃、しばしば起こる地震に不思議に思った村人がこの地をたずねたところ、二尺(約60cm)程の異形な石二つが地中より現れ、里人が石神と崇めて祀るようになったといわれています。「出世石尊」と呼ばれるこの石尊は、掘っても掘っても掘り返すことが出来ないといわれており、また南千住6丁目の素盞雄神社の富士塚上にある「瑞光石」と地面の下で繋がっているともいわれているなど、多くの伝説が残されているようです。
江戸時代の地誌、『新編武蔵風土記稿』にはこの石尊様は「阿遮院持」と記載されており、関東大震災の時にその阿遮院から発見された「石尊縁起」には次のように書かれていたそうです。
「慶応年間の頃不思議なる哉此地折々震動して龍燈夜々立登りければ里人あやしく思ひ茅野をわけて尋ぬれば異形なる石地より二尺許生へ立ちしを見つけ祀りて石神と称へ置きたり、其後太田道灌の臣高木隼人は六十一歳の時釈子の門に入り僧名を灌教と名乗り常に神仏を敬拝し信心堅固の人なりしが偶々霊夢を受けて我はもろもろの衆生災難病苦をすくひ出世の衆生を守護し善男女の為地より出現せりと御告を蒙り即ち道教入道其の地を尋ねみれば地より二尺許り出でし異形なる石二つあり入道之を排し是大慈大悲の垂跡なるべしと信じ石の後ろへ一樹を植ゑ注連を引き出世石尊大権現と勧請し奉り二間四面の玉垣を造りしが感応の利益多かりければ灌教入道崇敬し里人鎮守と迎奉し奉る其社より南に当り蓮華寺と申す一字あり本尊は阿遮羅明王なり此尊像は良弁僧都の作にしてあらたかなり、此寺即ち出世石尊別当にしてこれより阿遮羅山蓮華寺阿遮院と号し遺所無双の霊仏となる誰人も敬せざらんや
元禄二巳年二月 武州豊島郡下尾久村別当阿遮院(『隅田川とその両岸 補遺(下巻)』34〜35ページ)」
普段はお堂の扉は閉じられているようですが、扉の小さな穴から内部を覗くことが出来ます。現在ではこの石尊様は房州石であると考えられており、古墳の石材の一部である可能性が指摘されていますが、果たして石尊様が所在するこの地点に古墳が存在していたのか、それとも別の場所から持ち込まれたものなのかは不明です。ちなみに、「砂利塚」などの古墳が存在していたといわれる「十三坊塚」からは極めて近距離に当たります。
「掘っても掘っても掘り返すことが出来ない」という言い伝えが残されているあたりは葛飾区に所在する「立石様」に伝わる伝説と似ているように思いますが、その立石様も調査の結果、周辺に存在した古墳の石室の構築石材ではないかと考えられています。この石尊様も、かつて周辺に存在した古墳の石材が持ち込まれた可能性も高いかもしれません。


『あらかわ区報Jr.』には、この石尊様の不思議な伝説が掲載されています。
「昔々、下尾久村の裏の田んぼに鷺が住んでいた。この鷺、相撲が好きで夜な夜な人に化けて出て、村の若者に相撲を挑んでは投げ飛ばし、通行の邪魔をして村人を困らせていたそうだ。一人の武士が、これを退治しようと、迫ってきた鷺の怪物に斬りつけたところ、したたかに石尊さんに斬りつけてしまった。石尊さんに斜めに入っている傷跡は、その時付いた太刀の切り傷だといわれているんだ。このお話に出てくる鷺の怪物は、石尊さんだったんだね。(『あらかわ区報Jr.』平成20年(2008)年 9月17日号 4ページ)

敷地内には、元禄11年(1698)11月吉祥日の紀年銘がある庚申塔も残されています。
<参考文献>
東京都荒川区『荒川区史 上巻』
学生社『荒川区史跡散歩』
芳洲書院『隅田川とその両岸 補遺(下巻)』
東京都荒川区教育委員会『尾久の民俗』
現地説明版
- 2014/07/20(日) 02:48:02|
- 荒川区/町屋-三河島 微高地
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